日本辺境論(内田樹著)

2010-05-11 00:00:24 | 書評
まず、「新書大賞2010」。

ただ、ちょっと引っかかるのは、「新書」というのは、書物の内容としてのカテゴリーではなく、本の大きさや表紙の素材といった物理的な分類によるものだからだ。ハードカバーや文庫サイズであったら、そもそも受賞外というのも妙なものだが、「出版社の企画」が選の対象になっている、ということなのだろう。新潮社製品である。



そして、書物の批評となればAMAZONを覗くと、これが酷評の嵐である。どうも普天間の問題を見ても、自分と少しでも意見が異なる人物には寛容ではない、というのが最近の流行なのだろう。政党乱立も同根。

特に、内田先生の本著は、文体が「ですます型」であることから、尖った意見の人はアレコレ言いたくなるのだろうが、最初から、そういう人は読まない方がいい。別に内田樹は神でもなければ教祖でもなければ全知全能とはほど遠い、ただの大学教授なのである。

単に、よく本が売れる「社会科学者」というか「社会人類学者」といったところだろう。

個人的には、戦後の日本人の特徴として「ねたみ」「おねだり」「横取り」という悪しき風潮が蔓延していると思うが、AMAZONでの批判を読むと、悪口を並べる方に、そんな感じが漂う。


さて、長くなったが、日本辺境論の核心は「世界の辺境に位置した利点」として、大国である中国の影響を受け流す方法として、朝貢外交ではなく、「技巧的肩透かし戦略」を展開していたと主張している。中国の王朝毎のしきたりを知らないがための無礼という言い訳を用意しながら朝鮮半島国家と一線を引き、朝貢外交を免れ独立国を展開していた、というようなこと。

戦後65年間の歴史も、憲法9条と自衛隊、非核三原則と核密約といった一見矛盾した政策も、米国の傘の下で慇懃無礼に立ち回って果実を得る方法は、同じ歴史的系譜の中にある、とする。


また、オバマ大統領の就任演説を引き合いに出し、米国人には、いつでも帰るべきところとして「建国の精神」があり、同様にフランス人の英国人にも、他の多くの国民にも、「ナショナル・アイデンティティ」が国家の基本であるのに、日本にはそれがなく、常に自国の進むべき道を、他国との比較において考えると言う。

学力はノルウェーと比較し、構造改革は米国と比べるし、中国や、韓国とは、分野別に勝ったり負けたりしているわけだが、そこには目標としての絶対値はない。簡単にいうと、その相対関係で考えるというのも日本人の特徴ということらしい。


まあ、内田先生じゃないので、そういう話を新書1冊まで膨らませることができないが、そういうことが数多く書いてあり、ある部分は陳腐であり、ある部分は新鮮である。

知る人は知っているらしいが、「日本」という国名。これがまったく日本的らしい。

つまり、「日本」というコトバの一つ前は「日ノ本(ヒノモト)」というコトバになる。これに漢数字の「一」を付けると、よく講談師が使う「ヒノモトイチ」というコトバになる。

「ヒノモトイチの吉備団子を猿雉犬に与えて、家来にした」とか使うわけだ。

この「日ノ本」というコトバは、言うまでもなく「太陽が昇る国」ということであり、ある超大国から見て東側にあるということ。例の「日の出ずる国」という空威張りである。

しかし、考えてみれば、それこそ中国に対して相対的表現になっているわけで、中国がなければ有りえない表現である。もっと地球科学的に言えば、地球が北極からみて左回りであるから成り立つ論理で、右回りだったら「夕陽の美しい国」というだけの話だ(銚子犬吠埼から太平洋に沈む夕陽をのぞむ、というのも神秘的だが)。

ということで、そういう従属的な国名である「日本」を改名すべし、という論は、結構古くからあったそうだ。

もっともではあるが、では何が相応しいのかということになると、それが思いつかないのが、日本の特徴ということなのだろうか。(君が代論争もそういうところがある。)

まあ、そういうような、玉石混交の新書である、というのが私なりの結論。こういう気安い本を読むことができるのも、辺境国家に住む楽しみの一つなのだろう。