麻布学(2)

2008-06-05 00:00:50 | 歴史
麻布学二回目の講座は、『青山霊園に眠る外国人』。

講師は、米国人のウィリアム・スティール教授。国際基督教大学、いわゆるICUの先生で、専門は日本の近代史。幕末、明治が専門で、それも薩長側からではなく、幕府側、つまり敗者の側からの視点。さらに、政府ではなく庶民の側からの視点。江戸市民、農家、女性、貧乏な人、・・つまり、私の趣味と同じである。特に、勝海舟の研究に詳しいとのこと。

前回の麻布学(1)国際文化会館の講師は、日本人で六本木再開発派。一方、米国人でも青山霊園の研究者もいるというのだから、世界は色々である。


講座は青山霊園の歴史から始まる。ここに設置されたのは1874年。日本初の無宗教霊園である。「墓地」というと、宗教性を帯びるので、「霊園」だそうである。明治のかなり初期から、こういう考え方があったのに、いまだに靖国論争などしていて、まったく恥ずかしいわけだ。

データ的には、直近で、14,366人が契約していて、123,825人が眠られているそうだ。有名人多数で、幕末登場人物では、鍋島家に仕えた、からくり師、田中久重の名前がでていた。東芝の祖であり、鍋島家ではガトリング砲を製作し、上野の山に篭った彰義隊を吹き飛ばした。幕末登場人物の中では最長老で17世紀生まれである。

変わったところでは、忠犬ハチ公の墓も巨大で目に付く。123,825人の内数なのだろうか、あるいは外数なのだろうか。また、あちこちに軍人の立派な墓がある。だからといって、ほとんどは無名の市民(都民)が眠っている。それぞれの方に、それぞれの立派な歴史があるのは言うまでもない。

さて、なぜ、ここに巨大な霊園ができたかというと、空地だったからだそうだ。美濃郡上青山家下屋敷跡地が空いていた。明治の初めに一時的に東京の人口が2/3に減少していたことから、敷地を確保できたそうだ。人口減少の原因の一は、江戸末期の「参勤交替廃止」。武士が、国元に帰ってしまったこと。そして別の原因は、薩長軍が江戸に突撃を始めたときに、市民が周辺地に逃げてしまったからだそうだ。江戸を枕にしようとしなかった卑怯者がたくさんいたわけだ(私でも逃げるけど)。


それでは、外国人の紹介であるが、ここに眠る外国人は、多くが日本に来たまま、帰る場所もなく第二の故郷として日本で亡くなった人たちである。彼らが亡くなって100年ほど経った現代、すでに親戚縁者が不明となり、有名外国人でも多くが管理料未払いとなっているそうである。そこで、一般の日本人と同様に、「管理料未払いの場合、撤去します。東京都知事、石原慎太郎」という立て看板が林立したそうである。

しかし、それはあまりじゃないか、という声があり、一大運動の末、外国人は特例として、東京都が管理費用を負担することとして、一転して、「近代日本が一流国家になることに多大な功績をありがとう。東京都知事、石原慎太郎」という主旨の碑まで建立されることになったのである。

では、講座で触れられた10人について、ショート・ショート・コメント。

1.Guido Verbeck(1830-1898)
 彼は、オランダ人宣教師。長崎に1959年に来日し、市民洋学校を興す。英語を教えたそうだ。彼の門下には、大隈、大久保、伊藤、副島らがいる。松下村塾の英語版だ。維新後は明治政府の顧問になり、日本の近代化に貢献するのだが、最大の功績は、岩倉使節団を建議したこと。古今東西に例がないような、視察旅行のプランを書く。またキリスト教の解禁に努力をする。

2.Joseph Heco(1837-1897)
 Hecoとは彦蔵のこと。播磨出身の船乗り彦蔵が難破漂流中、米国船に救助され、その後、日米間の漂泊の身となり、ついに米国市民権を得る最初の日本人となる。詳しくは、吉村昭著「アメリカ彦蔵」に大変詳しい。弊ブログでも最近取り上げたばかりだった。日本最初の新聞も彼が発行した。

3.Alice E. Belton(1867-1904)
 東洋英和女学館の設立者である。カナダ人女性。講座ではなかったが、以前調べたところ、カナダ、アメリカを中心としていたキリスト教メソジスト派が日本に鳥居坂教会を設立したのだが、その後、本家の方が分裂。日本でも、青山学院などが巻き込まれるが、本家ほどの争いはなかった。

4.Duane B. Simmons(1834-1889)
 医学者である。現在の横浜市立大学医学部を設立。特に伝染病に詳しく、コレラ、水疱瘡に対する正しい対処法を広める。

5.Hugh Fraser(1837-1894)
 英国外交官。駐日大使。日本政府は、不平等条約の改正時に、公正な契約についてアドバイスを受ける。奥さんが、日本日記を詳しく書いていて、当時の日本の状況を知るのに都合がいいそうだ。

6.Charles Dickenson West(1847-1908)
 アイルランド人。建築、土木関係の技術を日本にもたらす。東大で教える。

7.Henry Spencer Palmer(1838-1893)
 インド生まれの英国人。日本の水道王。横浜の野毛山公園の奥の方に記念の碑があるようだが、かなり遠いので、いつも近くまでだ。1887年に日本で水道工事を始めた。近代水道のメソッドについて、インドで学習していたそうだ。そして、インド、ニュージーランド、バルバドスで職を探すが不発。ついに日本にきた。バルバドスより日本が未開の地だったのだろうか。バルバドスで就職していたら、どうなっただろうか。

8.Edwin Dun(1843-1931)
 米国人。1875年に函館に上陸。故郷オハイオをイメージし、北海道開拓を始める。未だに北海道開拓の結果ははっきりしない。特筆すべきは、牧場の牛・馬を襲う狼狩りを展開。日本のオオカミ絶滅の最大の容疑者である。
 しかし、私の調査では、国後島には狼が生息していると言われている。それが、シベリア狼なのか、エゾ狼なのかは、未調査ということだそうだ。おそらく、調査しないのは、政治問題が絡むのだろう。

9.Edoardo Chiossone(1833-1898)
 イタリア人、美術、芸術家である。ただ、絵を描いているだけならよかったものの、得意の銅版画技術を大蔵省に提供。紙幣の肖像画を手がける。ある意味で重要なお仕事である。さらに、現在の1万円札の福沢諭吉像は彼の作品だそうだ。ただし、絵画の勉強と称して、模写すると逮捕される。

10.Anna Whitney(1834-1883)
 まず、彼女の夫は、一橋大学設立者。一橋はビジネス・スクールを目指していた。ビジネス・スクールの先生だった。彼女の娘はクララと言い、勝海舟の子供と結婚する。クララ日記も当時の生活を知るには有効と言うことである。案外、勝が年をとって偏屈オヤジになったのは、家庭内の価値観のギャップに原因があるのではないかと根拠なく感じる。


そして、講座の終わりにQ&Aの時間があり、「どうしたら、スティール教授の講座をもっとたくさん聞くことができるのですか?」という女性からの質問があったのだが、その答えがウケタ。

「大学に入学したらいいですよ。」とのこと。ただし、講義は英語で行なわれるそうだが、その英語はベリー・イージーということだ。しかし、ICUは日本有数の難関大学のはず。大学に入学するよりも、講師になるほうが易しそうである。


↓GOODなブログと思われたら、プリーズ・クリック



↓BADなブログと思われたら、プリーズ・クリック