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ところで、本州の北端の青森だが、いささか複雑な事情がある。まず、現在の八戸を中心として、太平洋側は北は下北半島につながる。旧藩は「南部」。そして西側の城下町である弘前を中心とした旧藩が「津軽」。現代中国流に言うと、一県二制度ということになる。後発の商業都市である青森市は津軽側だ。そして、この二つの地区は極めて不仲である。臨人と不仲というのは、よくある話ではあるが、例えば、「八戸ナンバー」のトラックで青森に配達すると、受け取ってもらえないとかいう噂も聞いたことがある。
実は、私は過去に青森市周辺に3回、八戸方面に1回行ったことがあるが弘前・津軽は未踏だ。今回のエントリでは深く触れないが、太平洋岸を八戸から下北半島に向かう方向には、とても我々の日常から想像できないような巨大な空間が広がっているのだ。例えば、米軍の「象の檻」。極東の電波傍受施設。あまり見たことの無いような奇妙な形のアンテナが無数に固まっている。原発。原油備蓄基地。自衛隊三沢基地。米軍宿舎に隣接している化学会社の農薬工場。原子力船もここがベース基地だった。そして、これは異質なものだが、恐山もある。
もう一つ、下北半島側は、ある文学者を生んだ。「寺山修司」。彼の記念館があり、開館時間の制限の中、クルマを飛ばしてやっと到着した時刻が、閉館29分前の4時31分で、1分過ぎているから、絶対に入館させようとしなかった、スクエア頭の館員は私の生涯で恨みを持っている三人のうちの一人だ。
そして、南部を代表する文学者が寺山修司とすれば、津軽代表は「太宰治」になる。本名は津島修治。青春文学者といわれるが、言い換えれば、旧家の大地主であり国会議員だった父親からの親離れの過程を、書いているというような見方もできる。文体は、少し自分勝手な毒舌風で少し甘みもある、と記憶していた。
そして、この「津軽」を読み返してみると、奇妙なことに、彼の文体は、少しだけ「おおた葉一郎」と似ているような気がする。少しだけ私の方が早口ではあるとは思うのだが・・
マネされたのか?というわけにはもちろんいかない。1948年、愛人と一緒に玉川上水で自殺。人生に接点はない。今、生きていたら96歳。太宰の人生に深入りするつもりもない。
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ところで、彼自身、兄に対して、「ガイドブックはないだろうか?」と尋ねるくだりがある。あまり津軽のことを知らなかったようなのだ。都会志向だ。弘前、青森、そして東京。そういう意味で、逆にこの「津軽」そのものをガイドブックとして読むのも一興である。
まず陸奥湾コース、陸奥湾に沿って、青森から蟹田を経て三廓、そして竜飛岬へつながるラインだ。現代の青函トンネルもこのコースだ。食道楽コース(と暢気なことが言えないのは後にわかる)。次は津軽ヒンターランドコース、弘前から北上し、五所川原から北に進んで金木へ。ここが太宰の生家で、現代に「斜陽館」として残っている。津軽半島の中央で、交通手段の乏しい江戸時代はここが津軽の最初の物産集積地だった。太宰が最初の竜飛岬コースから帰るときには、一旦海岸沿いのバスで蟹田まで南下し、そこから船便で青森に行き、さらに鉄路五所川原から北上するというように四角形の三辺のような迂回路を通っている。太宰は、この金木の商業地主の息子だったわけだ。そして西側、日本海側の十三湖から小泊までがこの小説のフィナーレになり、最後に太宰が乳母と再会することで終わる。この部分は前半の酒のおねだり旅行と違って、感情移入しやすい場面だ。そして最後に、飢えた愛情を満たしたものの、長い時間をおかず、4年後に心中に走ってしまう。この小説の最後の一行は、なかなか不思議だ。
さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。
残念ながら、おおたブログと若干の文体類似性があるからといって、私は、こうは書かないし、愛人と冷たい水に飛び込んだりはゴメンだから。心配無用。
ところで、私の古い友人でA新聞の青森支局に勤務した経験のある記者が、支局に山積みになっているある本をプレゼントしてくれたことがある。「津島家の人びと(朝日新聞青森支局編)」。古色蒼然といった変色した本だが、少しパラパラと読み始めてみると、太宰も書かなかった古い金木の悲惨な話が書かれていた。
江戸末期には、火山の爆発や異常気象が続いて、3年に一度くらいの割で凶作が続いていたそうだ(このあたりは太宰も書いている)。そして、津軽半島の先端の方に住んでいる人たちは、まったく食べ物がなくなって、金木から五所川原、弘前と放浪を始めていたそうだ。しかし、そうは言っても途中の総ての地区が飢餓状態であって、道端は餓死者であふれ、あちこちに投げ込み用の穴が掘られていたそうだ。
さらに、さすがに新聞社の調べることはセンセーショナルで、その倒れた餓死者を食糧として食いつなぐことで途中の住民は生き永らえていたと書かれている。ここまでは太宰は書かない。知らなかったのか、あるいは地元のタブーだったのか。あるいはA新聞の得意技か。