三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2016年春、海南島で 4

2016年04月26日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(4月26日)、朝、重合村の符介育敗さんの家を訪ねました。
 符介育敗さんの娘さん(符育拝さん)、お孫さん、弔問に来ていた符永令さん(82歳)に話を聞かせてもらいました。
 別れぎわに、お孫さんが裏庭の石榴の樹に上り、石榴の実をとってくれました。
 
 その後、七叉鎮文化会館、七叉鎮人民政府、七叉鎮小学校を訪ねてから、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊重合守備隊本部跡に行きました。望楼のあった小高い所に、レンガが残っていました。

 七叉鎮には、大きな鍾乳洞がいくつもあります。昼過ぎに、そのひとつ革命洞(愛情洞)に行きました。
 奥行150メートルほどで内部の高いところは20メートルほどのいりくんだ鍾乳洞で、抗日戦争期に共産党軍が隠れていたことがあったので革命洞と呼ばれるようになったようです。

 午後1時ころ南部に向かい、2時半ころ東方市東河鎮広壩(広坝)村に着きました。
 わたしたちは、この村をこれまで2回訪ねたことがあります。1度目は、14年前の2002年春、2度目は2003年夏でした(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月、16頁、および紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』2007年2月、69頁をみてください)。
 鉄鉱石を略奪するために石碌山地に侵入した日本窒素は、ここ(昌化江下流域)に発電所を建設しました。広壩(広坝)は、「大きなダム」という意味で、この村の名は、日本人がここにダムを建設した時期につけられたのだと思われます。
 3度目に行った旧石碌発電所の水路、貯水池跡は、10年あまり前よりかなり崩れていましたが、発電機の土台は原型のまま残っていました。

 夕刻、広壩村を離れ、東方市江辺をとおり、楽東黎族自治県抱由に着いたのは午後8時過ぎでした。

                                      佐藤正人
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