三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 10

2013年07月16日 | 海南島史研究
(一〇)二〇〇六年三月~四月 1
■儋州市中和鎮東坡村で
 二〇〇三年三月に訪ねた東坡村を三年後の三月二四日に、再訪した。
劉仁之さんは、眼がほとんど見えなくなっているようだった。三年前に劉仁之さんは、“父とおじが日本兵に首を切られて殺され、あまり泣いたので目がみえにくくなった”と話していた。劉仁之さんは、この日、
   “村びとがたくさん殺された。日本兵に首を切られた人がいた。首とからだが離れた。
    当時、この村は一〇〇戸あまり。生きている人は外へ逃げて、餓死した人もいる。夫
   の妹も餓死した。
    夫とは別々のところに逃げて、二年間くらい会えなかった。ひとりで製糖工場で三年
   間働いた。製糖工場では、給料はなかった。おにぎりだけ。製糖工場には台湾人もい
   た。日本人は犬を連れていた。おじぎをしない人を、犬にかませた。日本人と会った
   ら、先生と呼ばなくてはいけなかった。
    夫と再会してから、山奥に逃げて暮らした“
と話した。

■瓊中黎族苗族自治県黎母山鎮松涛郷松涛村で
 三月二五日に松涛村を訪ねた。
 村長の黄国東さんに旧日本軍炮楼跡に案内してもらった。
 炮楼のあった高台の周囲に濠の跡が残っていた。幅二メートルあまり、深さ1メートルあまりで、出入り口が二か所確認できた。
 そのあと、黄国東さんの父の黄春漢さん(1930年生。黎族)とその友人の李國静さん(一九三〇年生。黎族)に、黄春漢さんの家で話を聞かせてもらうことができた。
 黄春漢さんは、
   “日本軍は飛行機で爆撃してから松涛に侵入してきた。炮楼を一九四一年につくった。
    炮楼工事の時、松涛の各村の村人が、盛り土などをさせられた。わたしも、わたしの
   親も働いた。わたしと李國静は当時九歳だった。働いてもなにももらえなかった。自分
   で飯を持って労働に出かけた。
    日本軍は松涛にふたつ橋をつくった。いまも跡が残っている。日本軍は約一個連隊
   で、台湾兵がおおぜいいた。
    日本軍は松涛に日本語学校をつくった。先生は中国人がひとり、日本人が一人だっ
   た。生徒はわたし、李國静、李宗亭ら、五〇人ほどだった。当時の日本人教師が一九八
   〇年ころ松涛に来た。
    日本兵に‘アリガトウゴザイマス’と言わなければ殴られた。‘アリガトウ’では殴
   られた“
と話し、李國静さんは、
   “‘コンバンワ’‘オハヨウゴザイマス’‘コンニチワ’を言っておじぎをしなかった
   ら、ほほを殴られた”
と話した。

■瓊中黎族苗族自治県黎母山鎮腰子村で
 三月二六日に黎母山鎮人民政府の門をはいったところで出あった林霧礼さんに、日本軍の炮楼跡に案内してもらった。そこにいた楊定永さん(一九三一年生。黎族)は、
   “父が殺された。働きにいかないと拒否して、殺された。殺されるところを見た。むり
   やり連れていって殺すのだから、村びとが見ないわかないだろう。今の人民政府がある
   ところで。三人がいっしょに殺された。一人は女性だった。日本軍は三人を並ばせて一
   度に射った。(日本人にたいしてどう思うか?) 恨。
    日本軍の飛行機が爆撃して、この村をぜんぶこわした。死んだ人はいなかった。みん
   なは山に逃げていて助かった。牛二頭が死んだ。
    日本兵に両頬を殴られたことがある。仕事をしていて、失敗すると、殴られた。日本
   軍に村人がおおぜい連れて行かれるのを見た。どうなったか知らない。
    日本軍は村人に炮楼をつくらせた。お金はくれなかった。一日、一個のめしだけ。
    黎母山から那大までの道は、日本軍が来るまえにはなかった”
と話し、そのあとた。黎母山鎮人民政府の建物のそばで。
   “当時は建物はなく、木がいっぱいはえていた。はじめは町に家があったが、日本軍が
   来て、山に逃げた。
    女の人が殺されたのは、あっちのほうだった。
    日本軍が働かせようとしたが、拒否して家族みんな山に逃げた。しばらくして腹が減
   ったので、煮炊きをしたが、偶然日本軍がそれを見つけて、捉まえにきて、殺された。
    さっき見た炮楼は、最初作られたもの。後から向かいの丘の司令部の側にもつくっ
   た”
と話した。そばにいた唐伝東さんは、
   “那大までの道路もそのとき日本軍が、村人につくらせた。賃金はなかった。おにぎり
   一個だけ”
と言った。

■瓊中黎族苗族自治県黎母山鎮榕木村で
 榕木村で酒、菓子などを売る小さな雑貨店を経営している許明添さん(八〇歳、黎族)に店先で話しを聞かせてもらった。許明添さんは、
   “日本軍は、村人に道路を作らせた。いろいろな労働を強制した。
    わたしは当時一二歳で、むりに働かされた。日本軍の道路工事だった。おおぜいの人
   がいっしょだった。年寄りも、女の人も、子どもも、働かされた。朝八時から夕方五時
   まで。
    日本軍は賃金をよこさなかった。食べるものもくれなかった。
    この近くに万人坑がある。共産党員ではないのに、共産党員だといって、殺した”
と話し、万人坑に案内してくれた。かなり広いゴム林をぬけたところに万人坑があった。そこで許明添さんは、
   “連れてこられたのは見たが、殺されたところは見ていない。遺体はまだそのまま残っ
   ている。ここは人が殺されたところだから、家を作ったり、何かを植えたりはしない。
    朝鮮人を見たことがある。日本人に仕事をさせられている時に見た。日本兵が朝鮮人
   といっしょにいるのを、仕事をさせられている時に見た。(なぜ朝鮮人とわかったの
   か?)日本人と朝鮮人はちがう。朝鮮人は背が高いし、顔もちがうので、わかる。服は
   日本人といっしょだった”
と話した。万人坑一帯は、植樹をしないで自然に草木が生えるままにしてあった。かなり深い穴で、数十年経って、草木に覆われていた。
                                          佐藤正人
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