三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 2

2013年07月07日 | 海南島史研究
(二)二〇〇〇年春(三月~四月)
 二〇〇〇年三月から四月にかけて、海南島三亜市、保亭黎族苗族自治県、陵水黎族自治県、屯昌県を訪ねた。
 
■三亜市では、郊外の茘枝溝鎮にある「朝鮮村」を一九九八年六月に続いて再訪した。
 「朝鮮村」には、一九九九年九月一日の日付で、「日冦時期受迫害朝鮮同胞死亡追慕碑」が建てられていた
 この碑は、その七年前から海南島西部の東方市で農場経営をしている韓国人徐在弘氏が、一九九八年八月三一日に放映されたK B S (韓国文化放送)のテレビドキュメンター『海南島に埋められた朝鮮の魂』(金五重監督)を見て、朝鮮村のことを知って、建てたものであった。
 その後、二〇〇〇年一月八日付で、三亜市茘枝溝鎮人民政府は、朝鮮村の「千人坑」に関して、次のような文書を発表した。
   「一九四二年、日本侵略者は朝鮮および各地から一二五〇人あまりの無辜の青年
   (その八〇%が朝鮮人)をむりやりつれてきて、道路をつくらせ、燃料を運搬させ、殴打
   し、飢えさせ、全員を苦しめ、死亡させ、一〇人あるいは一〇〇人ごとにひとつの穴に   いれて荒地に集中的に埋めた」。
 一九一六年に朝鮮村の近くの黎族の村で生れ、一九四五年ころ朝鮮人といっしょに近くの道路建設作業を日本軍に強制されたことのある符亜輪さんは、椰子林のなかの、花に包まれた家の庭で、
   「朝鮮人は、竹で作ったかごを背負って土を運んだ。朝鮮人は、少ししか食べるものを
   もらえないので、力がなかった。運ぶことができなければ、日本人に殴られた。
    道路ができたあと、何の理由もなく、朝鮮人をふたりずつ、木に吊るして殴った。日
   本人はいすに座って、朝鮮人に朝鮮人を殴らせて、見物をしていた。死ぬまで殴って、
   死んだ後、二、三人ずつ穴に埋めた。朝鮮人に穴を掘らせて、埋めさせた。
    箱に死んだ朝鮮人を入れて、穴に運んで、からの箱を持って戻り、またその箱に朝
   鮮人を入れて運んだ。最初は殺した朝鮮人に油をかけて焼いたが、あとは油がなく
   なって、そのまま埋めた。焼いた場所は、ここからすぐのところだ。日本人が銃をつき
   つけて、運んだ朝鮮人に火をつけさせた。
    朝鮮人はとても多かった。みんな同じ服を着ていた。上着もズボンも青色で、ボタン
   は白かった。朝鮮人の家は、鉄条網で回りを囲み、日本人が見張っていた」
と語った。
 少年のころ朝鮮村のすぐ近くで牛追いをしていた周学勤さん(一九三五年生)は、一九四五年ころ道路工事をさせられているおおぜいの朝鮮人を見たという。いまは草の茂るその現場で、周学勤さんは、チゲを背負う姿勢をして、朝鮮人はこのように土を運んでいたと証言した。
 周学勤さんは、小さいとき、人が木にぶら下げられているのを見てとても怖かった、近くの裏山で生きたまま焼かれた朝鮮人の声を聞いた、幼いころ聞いたその低いとぎれとぎれの悲鳴が今も聞こえる、といった。
 朝鮮村の人たちが、むかし朝鮮人が焼かれたという現場に、わたしたちを案内してくれた。村人たちが、裏山の林のなかの草地をわずかに掘ると、小さく崩れた遺骨がたくさん現われた。そこから一五〇メートルほど離れた「千人坑」には、殺された朝鮮人が焼かれずに埋められているという。
 その数日後、周学韓氏らに案内されて朝鮮人が掘らされたという洞窟に行くことができた。洞窟は3本つくられていたが、完成まえに放棄されたようだった。場所は、「朝鮮村」の隣村の中村の裏山だった。
 中村で農業を営む符永青さん(一九六五年生)が、生い茂った潅木や蔦を大きなナタで切り開きながら、洞窟の入口まで案内してくれた。符永青氏は、幼いころ洞窟で遊んだが、この村では、洞窟を掘ったのが朝鮮人だということは、昔からみんなが知ってることだという。

■保亭黎族苗族自治県では、日本軍性奴隷とされ、慶尚南道の故郷に帰ることなく海南島で亡<なった朴来順さんの墓を訪ねた。
 朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、一九四二年二月に海南島の海口につれてこられ、海口の「慰安所」にいれられ、一九四三年一月に、三亜紅沙の「慰安所」に移された。日本敗戦後も故郷に戻らず、保亭県の公路局で働き、一九九五年に亡くなり、保亭郊外に埋葬された。
 保亭県公路局が建てた墓誌には、「生於一九一二年卒於一九九五年」、「祖妣韓国僑工来順朴氏墓」と刻まれている。

■陵水黎族自治県では、県都陵水、新村鎮石頭村、三才鎮后石村、英州鎮大坡村を訪ねた。
 陵水文史資料委員会の馮少雄さんは、暑い陽射しのなか、陵水市内の日本軍司令部跡や「陵水占領 井上部隊 一九三九年四月二一日(原文は、日本元号使用)」と刻まれた縦一メートルの岩などに案内してくれ、さらに4キロほど離れた新村鎮まで行き、趙向盈さんを紹介してくれた。
 趙向盈さん(一九一八年生)は、日本占領期に、新村の「治安維持会」副会長兼秘書長だった。
 一九四三年末、日本海軍海南警備府は、三亜港西方四〇キロの新村港に特攻艇基地をつくりはじめた。「海南警備府第三二部隊軍用施設略図」には、特攻艇「震洋」格納トンネルが、一二本示されている。趙向盈に案内されて特攻艇基地跡に行った。
 趙向盈さんによれば、この基地の工事をさせられたのは、田独鉱山と石碌鉱山の労働者で、香港、台湾、朝鮮、大陸から連れてこられた人たちだったが、「朝鮮報国隊」の人たちがいたかどうかは、はっきりしないという。
 その後、趙向盈さんに案内されて、新村から二キロほど離れた三才鎮后石村に行った。
 この村で、日本海軍は飛行場を建設していた。
 后石村に住む龍起義氏(一九二六年生)は、次のように語った。
   「近くに日本軍人たちの建物があった。門に「海南島海軍施設部陵水工事事務所」と
   いう木の板がかかっていた。
    朝鮮人が住んでいたところには、門に「朝鮮報国隊」、台湾人が住んでいたところに
   は「台湾報国隊」と書かれた木の板がかけられ、鉄条網で囲まれていた。朝鮮人も台
   湾人も全部男で、二〇歳から三〇歳くらい。青い服を着ていた。見張っている人間が
   いつもいるので「罪人」だと思った。
    ある日突然、日が昇る前に、日本軍人も、朝鮮人も台湾人も、全部いなくなってい
   た」。
 龍起義氏は、三か所の木の板の文字をはっきりと記憶していた。また、后石村に住む王關文氏(一九一八年生)も、
   「事務所で殴り殺すんだ。死体を荷車に乗せて「万人坑」に運ぶのを何回も見た。病気
   にかかって死んだ人は解剖した。解剖するのも日本人。「万人坑」の近くにあった小さ
   な草葺きの小屋で解剖した。焼き殺された人もいた。朝鮮人、台湾人は、みんな青い
   服を着ていた。日本人は、よく朝鮮人を殴っていた、木刀で」
と証言した。
 日本軍が海南島に侵入してから二か月後、一九三九年四月一七日深夜、共産党員が隠れているとして后石村を日本軍が襲撃して、子どもをふくむ多くの村人を殺したという(劉興義・王関文等口述「日軍在三才地区的軍事据点設施及其暴行」、政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『日軍侵陵暴行実録』、一九九五年二月)。
 后石村の飛行場が完成する前に日本は敗北した。その跡地は、椰子林と放牧地になっていた。

 三才鎮から二〇キロメートルあまり西の英州鎮大坡村にも日本軍は飛行場を建設した。
 飛行場跡地に住む胡京宏さん(一九二七年生)は、
   「工事現場に「朝鮮報国隊」がいた。朝鮮人は字を書くことができて知識のある人が多
   かったように思う。みんな青い服を着ていた。住むところは、朝鮮人、インド人、中国
   人、それぞれ別だった。
    わたしは、六〇年前に汕頭の村から強制連行されたあと、一度も故郷に帰ったこと
   がない。両親は自分が海南島にいることすら知らないまま亡くなっただろう」
と話した。

■屯昌県では羊角嶺水晶鉱山跡に行った。
 符名風氏に案内されて羊角嶺水晶鉱山跡にいった。一九三〇年に羊角嶺に生れた符名風氏は少年時代に日本人が水晶を略奪していた状況を目撃していた。三菱鉱業は日本軍とともに、労働者を酷使した。生命を失わされた労働者は「共同墓地」に埋められた。
 激しく雨が降るさなかに、符名風氏、大きなナタで墓碑を覆っていた蔦を取除いてくれた。墓碑は一九五一年に建てられたもので、一六〇〇人あまりの犠牲者を追悼するものであるという。
                                      佐藤正人
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