三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 5

2013年07月11日 | 海南島史研究
(五)二〇〇二年秋
■文昌市重興鎮で
 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(一九九五年八月)に収録されている李昌炳・林日明口述「誘騙焼殺 四村遭毀――日軍在重興郷白石嶺暴行親歴記」と李重発口述「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」に、つぎのような内容の記述がある。
   “一九四一年四月一二日(農暦三月一六日)夕刻、二〇戸あまり一〇〇人足らずの文昌市
   重興鎮(旧、文昌県重興郷)排田村に、日本軍部隊が来た。日本軍は、村はずれの尖嶺
   園に村人を集め、暗くなってから焼き殺した。逃げようとした人は射殺された。子ども
   をふくむ八八人が殺された。
    翌四月一三日(農暦三月一七日)、日本軍は、隣りの白石嶺村に侵入し、村人四〇人を
   殺した。
    その翌日四月一四日(農暦三月一八日)、朝日がのぼってまもなく、軍用車にのって四
   〇人ほどの日本兵が、白石嶺村の隣りの昌文村を包囲した。日本兵は、村人を銃でおど
   して「祠堂」におしこめ、まわりを焚き木で囲み、積んできた石油をまいて、火をつけ
   た。このとき、人口一三〇人あまりの村の一〇七人が殺された。病気で寝ていた老人や
   赤ん坊までが焼き殺された
    さらにこの日、日本軍は、昌文村の隣りの賜第村で村人16人を殺した。
    隣り合った四つの村で、3日の間に、日本軍は241人を殺した。
    その二〇日ほど前、村の近くの軍用道路で、日本軍の車両が攻撃されて、日本兵が死
   んでいた”。
 この記述を読んで、二〇〇二年一〇月に、重興鎮を訪ねた。
 昌文村の虐殺現場であった「司堂」のすぐ近くにある犠牲者の墓前には、「惨遇日寇殺戮難胞之佳城」と書かれた墓碑が建てられていた。その裏面には、犠牲者一〇七人全員の名が刻まれていた。日本軍がいなくなってから、生き残った村人が遺骨を拾って、ここに埋めたという。
 昌文村の広場の樹の下で李重発さんに、話しを聞かせてもらうことができた。李重発さん(一九三六年生)は、日本軍の姿をみるとすぐに逃げて助かったが、病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺された「祠堂」の跡に近づくのがいまでもつらい、と言った。「祠堂」の跡は村の入り口にあり、潅木が茂っていた。
 昌文村のとなりの白石嶺村で、祖父母を殺された林方徳さんに案内されて虐殺現場にいった。犠牲者の墓の前に、一九五七年五月二〇日に追悼碑が建てられていた。
 一九四一年四月一二日から一四日までの間に、排田村、白石嶺村、昌文村、賜第村の四か村を襲撃し、おおくの村人を殺戮したのは、日本海軍佐世保第八特別陸戦隊に所属する部隊だった。
 その一か月後、日本海軍佐世保第八特別陸戦隊に所属する別の部隊が、一九四一年五月一三日に瓊海市(旧、楽会県)中原鎮の波鰲村、上嶺園村を、五月一九日に上辺嶺村を襲って、住民を殺害した(王先柏・梁必強・蔡哲「楽会県波鰲、上嶺園、上辺嶺三村惨案」、瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第六輯(日軍暴行録専輯、一九九五年九月)。

■瓊海市中原鎮で
 瓊海市中原鎮波鰲村の入り口に、波鰲・上嶺園・上辺嶺三村の犠牲者の墓があった。墓碑に犠牲者一二九人すべての名が刻まれていた。波鰲村で、生き残った王京海さんと林克連さんから話しを聞かせてもらった。日本兵は、村人を殺したあと、家を燃やしたという。
 波鰲村近くの中原鎮長仙村地域(坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、風嶺村、吉嶺村、官園村)でも、多くの人々が日本軍に殺された。大虐殺がおこなわれたのは、日本の敗戦四か月まえ、一九四五年四月一二日(農暦三月一日)だった。虐殺現場である燕嶺坡に大きな墓(“三・一”被難公塚)がつくられ、その墓碑に、「楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文風嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」と刻まれており、その左右に犠牲者全員の名が刻まれた石碑が建てられていた。
  一九四一年六月二四日、日本軍が、定安県黄竹鎮の七〇キロ南北岸郷の北岸村と大洋村を襲撃した。数日間に、四九九人の村人や通行人が惨殺されたという。
 
■瓊海市博鰲鎮で
 佐世保鎮守府第八特別陸戦隊に所属する日本兵は、六月二四日に、瓊海市博鰲鎮の北岸村と大洋村を襲撃し、数日間に、多くの村人や通行人を殺した。北岸村に、そのときの犠牲者を追悼する「五百人碑」が建てられていた。

■定安県黄竹鎮
 文昌県重光鎮の北西二〇キロほどに定安県黄竹鎮がある。一九四一年八月二五日(農暦七月三日)早朝、日本海軍佐世保第八特別陸戦隊の所属する日本兵は黄竹鎮の大河村、后田村、牛耕坡村、周公村の四村を包囲した。明るくなってから、日本軍は、村人を集め、家に押し込め、火をつけ、逃げだした村人を刺殺した。母親に背負われた幼児も殺した。さらに逃げようとする村人にたいして、日本軍は銃を乱射した。この日、一〇九人(大河村で七九人、后田村で二三人、牛耕坡村で三人、周公村で四人)が殺された。村が焼かれた煙が陽の光をさえぎり、人びとが焼き殺された臭いが遠くの村にまで広がったという。
 大河村(現、後賢村)で、符和昌さん(一九二二年生)と符和卿さん(一九二四年生)に話を聞かせてもらうことができた。二人は、日本軍が来たとき遠くまで牛追いにいっていて、生き残ることができたという。
                                        佐藤正人
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