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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 28

2013年01月21日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 19
 第10回海南島「現地調査」 2
★感恩鎮高園村で
 防衛研究所図書館に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊が海南島でおこなった犯罪の記録(「感恩県高園村附近討伐戦戦闘詳報」)がある。そこには、嶺頭分遣隊の海軍少尉太田良知ら43人が、1945年5月22日未明から高園村地域を襲撃し、「高園村三〇戸全部焼却ス」と、書かれている。
 高園村は黎族の村である。
 周亜華さん(85歳)は、高園村の自宅でこう話した。
   「日本軍はここに来て家を壊して、火をつけた。にわとりや豚や牛を奪い、女性を強姦
   した。
    村びとを道路工事に行かせた。行きたくないといったら、殴った。石碌鉱山に送られ
   た人もいた。病気になって仕事ができなくなったら、焼かれた。
    共産党の張應煥が、よくこの村に来て泊まった。もし共産党の組織がなければどうな
   るか、といって、共産党に入るように誘った。仕事を積極的にする人、秘密を守れる人
   は、地下組織に入ることができるといった。
    わたしが地下党員になったのは、18歳ころ。張應煥は、30歳代だった。
    嶺頭で日本軍と戦ったことがあった。火薬銃で。火薬銃は先祖から伝わったもの。村
   の人はほとんど持っていた。火縄銃がなかったら、弓で戦った。小さい弓、太い弓。
    太いのは、腕くらいの太さ。弓は、いのししを捕まえたりするのにみんな持ってい
   た。
    わたしが共産党に入ったことは、妻も子ども知らなかった。共産党に加入したら、党
   費を納めなくてはいけない。金がなくて、マッチを党費として納めた。
    張應煥は、非常に勇気がある人だった。戦場では勇ましかったが、部下にはやさしか
   った。
    7日間、瓊崖縦隊で戦った。何百人もの民兵が戦った。このなかに女性がいた。10人か
   ら20人。ひとりは銃に撃たれて、弾ほほからほほに抜けた。女性の民兵は、炊事や看
   護、薬の仕事。
   (この戦闘の連絡はどのようにして受けとったのか?)文昌と瓊海の共産党員が戦うよ
   うに言ってきた。嶺頭では、数百人が戦闘に参加した。志堡嶺では何百人が犠牲になっ
   た。
    黒眉村と高園村は、革命根拠地。この戦闘に民兵は全員が参加した。民兵は、地方の
   軍隊だ。
   (戦場はどこだったのか?)嶺頭と黒眉村の間。日本軍が先に攻撃してきて、戦闘にな
   った。死体は数えられないほどだった。くさくてもう……。
    いとこが殺された。いとこも部隊で、感恩の加富村で日本軍と戦って殺された」。
 周亜華さんの妻王亜娘さん(1920年生)は、
   「生まれたのは、黒眉村の近くの村。夫が共産党員だと、まったく気づかなかった。解
   放後に知った」、
と話し、周亜華さんは、
   「妻に知らせなかったのは、漢奸に知られると危険だからだ。宣伝活動であちこちの村
   を廻った。妻には、帰ってきて、出張だったと言った。組織からたまに、おにぎりをも
   らうことがあった。それを、土産だといって、持って帰った」
と言った。
 そのあと、周亜華さんに同じ村の林秋華さんに家に案内してもらった。
 林秋華さん(1916年5月生。黎族)は、つぎのように話した。
   「日本軍が来たとき、この村には50戸ほどの家があった。日本軍はしばしば襲ってき
   た。人を殺したり、殴ったりした。家も燃やした。羊、牛、豚、とりを奪った。村人は山
   に逃げた。子どもを背負って逃げた。日本軍がいなくなったら、また村に戻ってきた。
    1943年、瓊崖縦隊に入った。そのときはまだ結婚していなかった。東方県中沙郷(?)
   に行き、部隊の上司に勧められて、5月に共産党に入った。
    国民党と日本軍と戦った。攻撃された戦ったのだ。戦闘に参加したことは、300回も
   あった。感城での戦闘がいちばん激しかった。わたしたちは、300人。こっちが勝った。
   日本軍は30人。日本軍は機関銃もあった。感城では日本軍の機関銃などを手にいれた」。
                                          佐藤正人