三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島近現代史研究会のあゆみ 2

2011年02月23日 | 海南島近現代史研究会
■2009年8月―2010年7月
1 第3回総会
 2009年8月9日に第3回総会を開催しました。まず佐藤正人さんが現地調査の報告をおこないました。この報告では、「調査」という活動が、証言者と記録者との信頼関係によってその客観性が裏付けられるものだということが強調されました。続いて、久保井規夫さんから6月下旬の現地調査について、三亜市鹿回頭角の特攻艇「震洋」の基地跡を調査した経緯が報告されました。
 総会の主報告は竹内康人さんの「飛行第31戦隊による海南島攻撃」でした。竹内さんが住む浜松の基地から日本軍が中国東北部、海南島各地を爆撃した報告がおこなわれ、この爆撃で殺されたひとの名簿を作成していると話し、爆撃で死亡したひとりひとりの名前を記録することの大切さを強調しました。
 続いて竹本昇さんが、当時の日本のマスメディアが海南島の軍事占領を祝福し、島民の殺害を賞賛した報道の姿勢について報告をしました。また日置真理子さんが現在の海南島をめぐる日本と中国の動向について紹介し、中国の海南島軍事基地化の動きに対して日本が対抗する形で軍備を増強しようとする動きを報告しました。

2 第5回定例研究会
 2010年2月14日には5回目の海南島近現代史研究会定例研究会をおこないました。
 主報告は蒲豊彦さんの「三竈島から海南島へ」で、日本軍は海南島の軍事占領に先立って、香港に近い三竈島を占領し、そこに航空基地を作って中国の主要都市の爆撃をおこなったこと、島の住民を虐殺したこと、強制労働によって餓死・病死などで1万人の犠牲者が出たこと、沖縄から三竈島に移民がおこなわれたこと、などの報告を受けました。
 続いて、キム チョンミさんが「海南島での同仁会」と題して、「アジアに医学を普及させ、人民の健康を保護する」という名目で組織された同仁会が海南島でも組織され、「慰安婦」の健康診断や「防疫事業」をおこなっていたこと、また朝鮮人捕虜の生体解剖もおこなったこと、などを報告しました。

3 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の建立
 2009年秋から10年3月にかけて、海南島近現代史研究会の会員も参加している紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立する活動にエネルギーを集中し、碑文の検討、追悼碑の建立地の選定、碑石の確保などの活動に取り組みました。
 熊野市が協力を拒否する中で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、自力で土地を確保し、碑石も探し出して、2010年3月28日に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の建立除幕式を紀和町の現地で開催することができました。
 この碑の建立宣言文には、紀州鉱山を経営し朝鮮から多数の朝鮮人を連行し多くの犠牲者を出した石原産業が、海南島でも田独鉱山の開発に着手し、アジアの民衆を酷使し、多くの犠牲者を出したことについてつぎのように書かれています。
 「紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本占領下の海南島で、田独鉱山を経営していました。田独鉱山で強制労働させられた朝鮮人は、「朝鮮報国隊」として朝鮮各地の監獄から日本政府・日本軍・朝鮮総督府によって海南島に強制連行された人たちでした。海南島で亡くなった朝鮮人の数もその名も、まだわかっていません。
 田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難砿工紀念碑」には、「朝鮮、インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されています。
 一九四二年から石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山、アンチケ鉱山、シパライ鉱山、ピラカピス鉱山などで、日本軍とともに資源略奪を開始し、多くのフィリピン人を強制的に働かせました。そのなかには、日本軍と戦って「捕虜」とされた人たちもいました。
 わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさん、海南島で死んだ朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人びとを追悼し、その歴史的責任を追究していきます。

 この碑の建立によって、日本の紀州鉱山における強制労働と、海南島における強制労働および虐殺とを、日本の侵略犯罪の歴史を物語るものとして一体化して捉えることの重要性を再認識することができました。

4 韓国での聞き取り調査
 2010年4月には、韓国での聞き取り調査をおこない、「朝鮮報国隊」の一員として海南島に送られ生きてもどることのなかった韓錫さんの妻の李康姫さんと息子の韓光洙さんに出会うことができました。
 日本海軍海南警備府横須賀第4特別陸戦隊に入れられていた鍾明出さんに、慶州市内南面の自宅で話しを聞かせてもらいました。
 また江原道旌善郡旌善面の佳水里という村で、紀州鉱山で亡くなった「玉川光相」さんの幼馴染だった全文鐸さんに出会うことができ、「玉川」さんの本名が劉太相さんだということが判りました。

5 海南島「現地調査」
 2010年5月下旬から6月にかけて、佐藤正人会員が第18回目の海南島「現地調査」をおこないました。海口の南にある梅種村で1943年10月に日本軍に殺害された許如梅さんの娘さんから話しを聞き、澄邁県美桃村では、日本軍に掘らされた洞窟や望楼跡を訪ね、家畜を奪われたり乱暴された村民から体験を聞きました。また黎族自治県の海尾村では望楼や兵舎をつくらされた人たちから話をうかがいました。
 最後に、広東省の三竈島に行き、占領期に日本軍に殺害された住民を追悼する万人墳と千人墳などを訪ねました。

6 記録映像上映会
 2010年7月30日から3日間、大阪人権博物館で海南島に関する3本のドキュメンタリー(『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』、『「朝鮮報国隊」』、『海南島月塘村虐殺』)の上映会を開催しました。
 同館で2004年夏に開催予定であった、企画展「日本は海南島で何をしたか」が外部の圧力のために開催できなくなっている状況を打破するためのきっかけとなることを期待して、この上映会がもたれました。参加者は3日間で20名ほどでしたが、海南島における住民虐殺や強制労働の実態に衝撃を受けた人もいて、上映運動を地道に続けていくことの意義を再確認しました。
                                   斉藤日出治
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