三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 4

2009年11月23日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(一)坡村諸村落における日本ファシストの“三光”政策暴行 3
 冯系の家のすぐ近くに聂系の家があった。日本軍は石で60歳の聂同江の頭を潰した。日本兵は1歳にもなっていない呉妃花を殺し、8歳の聂妃慶と聂文昭の身体を切って殺した。聂同則、聂妃姑、聂宏焕,聂谢氏、聂覃氏、聂妃蓉の遺体も聂系の家で発見された。遺体は傷つけられ、血だらけになっていた。
 竹林坡は牛飼い場所でもあり、子供の遊び場でもあった。その日、親は「験証」のため中原に行っていた。牛飼いの子供たちはいつもより沢山集まっていた。竹林坡に来た日本兵は「ここに来い、遊ぼう」と子供たちに声を掛けた。子供たちは迷いながら、日本兵に近づいた。日本兵は背の高さの順に子供を並ばせた。そして、日本兵はその列の正対面に立って、一対一で子供の心臓を突き刺した。その場で欧宗清,欧宗勇,欧继尊,欧宗贤,欧继炳,欧继焕,欧华子の命が奪われた。欧継清の大腸が流れ、夜、姉が背負って、山仙村へ助けを求めて行ったが、その途中で息が止まった。欧継豊は9カ所、欧継岳は7カ所刺されたが、生き残った。
 欧継波は、母と弟の欧継雲といっしょに雅昌園で種まきをしていたが、日本兵を発見した時、母と弟に早く逃げるように言った。しかし、母さんは子供たちに逃げる時間を与えるため、自分で日本兵に向かってお辞儀をしながら挨拶した。しかし、日本兵は、欧継波・欧継雲兄弟の母を叩き殺した。兄弟二人は懸命に逃げたが、なかなか隠れる場所を見つけることができず、ようやく墓地に隠れた。幸い、間近に追い付いた日本兵に発見されなかった。日本兵の目は牛の目と同じ、まっすぐの方向しか見られないと言われているが、その通りだった。
 その後、日本軍は坡村に侵入した。欧何氏が突き倒され胸、腹、陰部を刺された。
 謝式蓉は銃声を聞いて、息子の宗柳と宗蘭を連れて逃げようとした。玄関を出た瞬間、日本兵に襲われた。宗蘭が3か所刺され、その場で息がなくなった。式蓉は14か所刺され、宗柳は13か所刺されたが、奇跡的に生き残った。式蓉は今年80歳あまりで健在である。宗柳は解放後中国人民解放軍に加入し、退役後、工場労働者になり、現在、一時帰休者となって、農業を耕している。
 日本軍は礼照坡から吉嶺村に侵入してきた。その日本軍の中には、1939年に日本留学から帰国した韋経民がいた。韋経民は先頭に立って、一番小さい黄某某の心臓を突き刺した後、空中へ投げ、真っ二つに切り下した。その日、吉嶺村で黄開東,林華用,黄開朝,黄華可,林華新,林華東,林華虎,林華才,何子東,黄開生,何妃二,黄文英,盧修業,盧刘氏,何韋氏,肖妃南,林鴎氏(典章母),林鴎氏(典清母)の命も奪われた。当時、黄祝顔は下痢のため、後ろの山へ用を足しに行っていて命が助かった。
 吉嶺村から日本軍は長仙冯屋へ移った。何系の女性三人(何陳氏、何林氏、何龚氏)と田植えをしていた冯王氏、冯克仁が銃殺された。日本軍は、冯家村で人を見つけることができなかった日本軍は村を焼いて、引き上げた。そのため、下村蔡系、曾系、寥系は難を逃れた。
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