三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 10

2009年11月30日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(八)老人と年少者と女性だけ残され、苦しみに耐えられない
 生き残ったのは、老人と年少者と女性の231人だった。
祖父母と孫だけで畑仕事をやらなければならない家が多かった。
 当時、わたしは、兄と2人で山にいって食べられる草を探し、なんとか飢えを凌いだ。わたしは、ズボンを一着しか持っていなかった。冬になっても、その一着のズボンで寒さを乗りきった。
 生き残った村人のなかには、帰る家がなくなった人も少なくなった。彼らは、村を離れた。
曹盛炎と曹盛経の兄弟は、中原市の伯父の家に身を寄せに行ったが、伯父は、2人を養えないと言って曹盛炎を追い出した。その後、曹盛炎は、こころ優しい陳頴美(曹家烈の妻)に紹介されて、黄哥村の母旧(曹家列の父)の介護者になった。母旧は1人暮らしで目が見えなかった。しかし、その家にいても、虐待されたため、逃げ出した。その後、上井園村の農家に紹介されて牛飼いの仕事をした。そこでも主人の虐待に耐えられず、牛路頭村、坡門村、上洋村へと移動したが、最後に行くところがなくなり、伯父の家に帰らざるを得なくなった。
 盧傳軒が両親も家も失った次の日、南牛村に住んでいた姑祖母(父の伯母)が彼を探しにきてくれた。南牛村は馬六坑抗日根拠地の近くにあったため、日本軍は南牛村の近くに望楼を建設していた。日本兵は、しばしば村の子どもたちに椰子の実をとらせた。9歳の盧傳根が登れなかったので、尻を銃剣で刺された。姑祖母は3人の孤児を迎え入れたが、貧しかったので突然増えた3人子どもたちを食べさせるのに苦労した。コメがないので木瓜で飢えをしのいだことが多かった。身体が弱く病気がちだった姑祖母は3年間患ったが治らなかった。盧傳軒は、外祖母(母方の祖母)の家や姨母(母方の伯母)の家を転々とした。
 曹盛桂・曹盛月兄妹、曹家成、曹盛良、曹炳、欧純文、欧育援、欧継亜、黄文業は、両親も家も失い、親戚の世話になった。
 あの日、多くの子どもたちが孤児になり、その後、苦しい生き方をしなければならなくなった。
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