三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 7

2009年11月27日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(四)“幸運”の幸存者
 欧継霜、欧華英、欧金娘は、偽軍が「早く逃げろ。日本人が殺しにくる」と叫んで知らせてくれたのを聞いて逃げたので助かった。
 欧純文、欧育河、欧育蘭、欧継亜,欧継長は、牛に草を食べさせるために隹文園に行っていた。隹文園は日本軍が“治安区”と考えていた地域だったので、かれらは無事だった。しかし、牛飼いをおえて戻っているとき、いちばん前を歩いていた欧育蘭は礼楽婆(育開の母)が自宅の入り口で殺されたのを見て跳びあがるほど驚いた。そのとき数人の日本兵が欧育蘭を見つけてすぐに発砲してきた。欧育蘭はみんなといっしょに隹文園方向へ逃げ出して助かった。
 あの日、曹炳、曹盛良、曹家成、曹盛炎、曹盛経,曹盛鸞の6人は、朝早くから上園坡で牛飼いをしていた。10時ころ、かれらは、官園村の上空に煙が上がり、しだいに高くのぼっていくのを見た。それは、きれいに見えた。
ようやくの思いで坡村から逃げてきた欧妃宝は、かれらを見て、「いま日本鬼子があそこで人を殺し家に火をつけて焼いている。どうしてすぐに逃げないのか」と言った。
 みんなはあわてた。いくらか年長の曹盛鸞が先にたって、自分たちの牛を貢祠嶺の麓に隠してから、下寨坡の方に向かって逃げた。その夜、曹家成は曹盛鸞といっしょに昌尾村の外祖母の家に行った。
 わたしも幸運だった。あの日の朝、私と長兄は、2番目の兄を“験証”に見送った後、柴をかりに、上園山に行った。突然、銃を発射する音や子供の叫びが聞こえ、あわてて家に戻った。伯母(周氏)が家の前にいた。長兄はわたしに、「年寄りや子どもは怖がらなくてもいい」と言って、すぐに隠れた。わたしは伯母と呆然として家の前に座っていた。あか毛の子犬がそばにやってきた。悶々とした気持ちで南の方を見ると官園村の方までずうっと煙が広がっていた。そのとき、庵堂園村の欧周氏(育宏の母)がやってきて、「今年は稲の出来がいいので、収穫がたくさんありそうだ」とうれしそうに話した。突然、南のほうから銃声が響いてきた。欧周氏は身震いし意識が良くなくなり、「わたしのような年寄りは死んでもかまわないが、若い人はかわいそうだ」とつぶやいていってしまった。それが永遠の別れになった。自分の家に戻った欧周氏は、玄関の敷居のところで日本兵に殺されて、焼かれた。
 わたしが助かったのも、わたしの家が焼かれなかったのも、家の位置によるのではないかと思う。あの日の日本軍の暴行路線は、ふたつだった。ひとつは鳳嶺村から始まり、雅昌村、坡村、吉嶺村、下村(冯屋)に到る路線、もうひとつは嶺上村から南橋村、官園村、下排界村、庵堂園村、長仙曹、長仙何に到る路線である。私の家は、そのふたつの路線からちょうどはずれた位置にあった。佳文村にも無事な家があり、下行村の蔡家、曹家、廖家なども無事だった。
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