三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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月塘村で 7

2007年06月15日 | 月塘村
 1945年5月2日に月塘村の人びと256人のいのちを断ち切った佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵たちは、その3か月半後、国民党軍の捕虜となりました。
 国民党軍は、日本軍の海南島での犯罪をほとんど追究しませんでした。海南島各地で住民虐殺をおこなった日本兵たちのほとんどは、1946年春までに、日本にもどりました。
 それから60年あまりが過ぎました。
 月塘村虐殺をおこなったとき20歳だった日本兵は80歳を越し、30歳だった日本兵は90歳を越しました。月塘村虐殺をおこなった佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵たちから、なぜ住民虐殺をおこなったのか、なぜ嬰児や幼児や少年・少女を殺したのか、そのことをどのように考えながら、どのようなことをして日本で生きつづけてきたのか……を聞く機会は失われつつあります。
 アジア太平洋の各地で戦争犯罪をおこなった日本兵のおおくは、その犯罪の責任をとることなく、その犯罪を隠しつづけたまま、「平和」に暮らしてきました。
 1945年8月14日以後、日本人のほとんどは、植民地支配と侵略戦争というアジア太平洋民衆にたいする加害責任をとろうとしないで、最悪の戦争犯罪者ヒロヒトを「日本国の象徴」、「日本国民統合の象徴」とする「平和憲法」のもとで、「平和」な生活を続けてきました。ヒロヒト死後は、その子が、ヒロヒトがひたすら「世界の平和」を希求していたと偽りを語り、「日本国の象徴」、「日本国民統合の象徴」となりました。

 ことし5月2日午後、朱秀容さん(1936年生)は、
    「あの日、日本軍は、祖母と3番目の伯母と、わたしと、もう一人の4人をつかまえ、銃
   をつきつけて並ばせ、お辞儀をさせた。日本軍は、ひざまずいた祖母の首を切った。
    3番目の伯母が殺される瞬間、わたしは逃げた。隣りの家との間の細い隙間をとおりぬ
   けて走った。こわくて、どこまでも逃げた。山に入ってしばらく家に戻らなかった。食
   べるものも着るものもなかった。
    日本軍が来たとき、父は薯を掘りに行っていたので、助かった。あの午後、家にもどっ
   て祖母や3番目の伯母の遺体を見つけ、むしろにくるんで埋めた。
    当時、万寧一帯は大飢饉だった。飢え死にした人がたくさんいた。
    まもなく日本軍が負けて海南島からいなくなったが、そのとき日本軍を殺す機会がなく
   なったことが悔しかった。
    日本兵を恨みつづけてきた。
    いま、当時のことを話して、すこしこころがかるくなった」
と、祖母と3番目の伯母が殺された家の跡で話しました。
 1944年春から1945年秋にかけて、とくに海南島東部は、大飢饉状態になりました。旱魃、害虫の大量発生、たびかさなる台風という自然災害にくわえて、「現地調達」という日本軍の食料略奪によるものでした。
                                    佐藤正人
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