■女性たち、日本軍占領下の海南島で■
金靜美
■はじめに
海南島で、日本軍がいたときのことを覚えているか、と尋ねるわたしたちに、黙ったままで身じろぎもしない女性にであった。
ある村では、日本軍の「慰安婦」にされた女性に話を聞くことができる、といわれたが、
その女性を訪ねなかった。その女性がみずからわたしたちと会うことを望んだのではないようだったからだ。
わたしはその場にいなかったが、ある海辺でであった女性に話しかけると、砂浜にうずくまったまま、しずかに泣いていたという。
海南島だけではないが、日本が犯した侵略犯罪は、ことばでは表現できない。
日本軍占領の時代を経験した海南島でであった女性たちのさまざまな表情を、わたしは、表現することばを持たない。
道行く人たち、三輪車や二輪車の運転手たちをはじめ、わたしたちがおおくの人たちの助けを得てであった海南島の人たちの声を、わずかでも伝えたい。
この稿では、海南島でであった女性たちの証言、女性たちにかんする証言を中心に書き記そうと思う(註1)。
■八所
東方市八所(パソ)は、海南島西部の海に面した町である(註2)。
日本の植民地下にあった朝鮮の刑務所から、獄中者が、8次にわたって「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」として海南島に連行されたが(註3)、その上陸地はおもに八所であった。
わたしたちがはじめて八所港に行ったのは1998年6月27日であった。
そこには、日本軍が「監獄」として作ったという建物や、「日軍侵瓊八所死難劳工紀念碑」(1994年12月、建立)があった。
すぐ近くの海沿いに養殖場があった。そばにいた人に聞くと、エビをはじめ魚の養殖場を作る工事中に、おおくの人骨が埋められていることがわかり、その人骨を集め、「万人坑」をつくったのだという。
八所港の「万人坑」には、石碌鉱山ー八所港間鉄道工事、八所港湾工事に働かされていた朝鮮人、台湾人、インド人、香港人、大陸から連行された中国人など、無念に亡くなったおおくの人たちが埋められた。
石碌鉱山の鉄鉱石掠奪のため、日本窒素は、①石碌鉱山の鉱石採掘施設、②石碌鉱山から八所港(積み出し港)までの鉄道、③八所港の港湾施設、④発電用ダムと発電所を建設しようとした。
そのための労働力として、1941年9月に、3000人以上の中国人が、上海から貨物船で八所港に運ばれた。上海からのわずか1週間の船旅の途中で、数十人もの人が死亡し、海南島に到着した人たちは、「過半数が痩せ細った、一見して病人を思わすような身体つき」であったという。その後、劣悪な宿所に住まわされ、厳しい労働を強制されて、病人、死者が続出し、「約半年の間に、この上海苦力はその半数近くが死んだ。逃亡者も相次いだ」という。3000人のうち、1945年1月の石碌鉱山全面操業停止時に残っていた人はわずか300人ほどだったという(註4)。
1941年12月8日のアジア太平洋戦争開始後まもなく、日本軍は香港を占領し、同年12月29日に軍政をしいた。日本軍政下の香港から、1942年2月13日に香港を出港した日本船で、483人の「苦力」が八所港に上陸し、つづいて2月末までに、第2、第3船によって、1509人が到着し、さらにそれ以後毎月、1000人から1500人が到着したという(註5)。
この人たちは、八所港湾工事、石碌までの鉄道建設、石碌での採鉱、などで酷使された(註6)。
海南島の日本窒素関係の工事を担当したのは、西松組であった。日本軍・日本窒素・西松組は、暴力をつかって労働者を働かせた(註7)。『西松組社内報』1943年1月号には、この時点での死者は3158人(そのうち中国人労働者は2528人)であったと書かれている(註8)。
1924年生まれの崔能は、1942年2月、合記公司香港事務所の募集に応じて海南島にいき、石碌鉱山の発電所で働いた。崔能は、「あすこには、強制的に連行された者が七千人もいた」、「鉄鉱石を掘る現場は重労働だったからたくさん死んでいった」、「日本軍は……病人や怪我人でも働かせようとした」と証言している(註9)。
北黎特務部労務主任岡崎四郎の記録では、1943年10月の「石碌鉄山従業員」は、「日本人日窒社員及び西松組従業員」3000人、「台湾事務員及び労務者」600人、「広東、香港労務者」20000人、「現地海南島徴用労務者」22000人、計45600人であったと書かれている(註10)。
日本窒素は、1926年以降、朝鮮で、大規模水力発電所や肥料工場、油脂工場、化学工場、火薬製造工場、大豆調味料製造工場などを経営し、朝鮮の資源・労働力を掠奪していた(註11)。朝鮮に基盤をおく日本窒素は、海南島での事業にも、朝鮮人を働かせた。1942年から石碌で働いていた張達雄氏は、次のように証言している(註12)。
「19歳の1941年末、京城商科学校にいて、卒業を3か月後にひかえて就職活動をしていたとき、日本窒素で社員を募集しているという
海南島で、日本軍がいたときのことを覚えているか、と尋ねるわたしたちに、黙ったままで身じろぎもしない女性にであった。
ある村では、日本軍の「慰安婦」にされた女性に話を聞くことができる、といわれたが、
その女性を訪ねなかった。その女性がみずからわたしたちと会うことを望んだのではないようだったからだ。
わたしはその場にいなかったが、ある海辺でであった女性に話しかけると、砂浜にうずくまったまま、しずかに泣いていたという。
海南島だけではないが、日本が犯した侵略犯罪は、ことばでは表現できない。
日本軍占領の時代を経験した海南島でであった女性たちのさまざまな表情を、わたしは、表現することばを持たない。
道行く人たち、三輪車や二輪車の運転手たちをはじめ、わたしたちがおおくの人たちの助けを得てであった海南島の人たちの声を、わずかでも伝えたい。
この稿では、海南島でであった女性たちの証言、女性たちにかんする証言を中心に書き記そうと思う(註1)。
■八所
東方市八所(パソ)は、海南島西部の海に面した町である(註2)。
日本の植民地下にあった朝鮮の刑務所から、獄中者が、8次にわたって「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」として海南島に連行されたが(註3)、その上陸地はおもに八所であった。
わたしたちがはじめて八所港に行ったのは1998年6月27日であった。
そこには、日本軍が「監獄」として作ったという建物や、「日軍侵瓊八所死難劳工紀念碑」(1994年12月、建立)があった。
すぐ近くの海沿いに養殖場があった。そばにいた人に聞くと、エビをはじめ魚の養殖場を作る工事中に、おおくの人骨が埋められていることがわかり、その人骨を集め、「万人坑」をつくったのだという。
八所港の「万人坑」には、石碌鉱山ー八所港間鉄道工事、八所港湾工事に働かされていた朝鮮人、台湾人、インド人、香港人、大陸から連行された中国人など、無念に亡くなったおおくの人たちが埋められた。
石碌鉱山の鉄鉱石掠奪のため、日本窒素は、①石碌鉱山の鉱石採掘施設、②石碌鉱山から八所港(積み出し港)までの鉄道、③八所港の港湾施設、④発電用ダムと発電所を建設しようとした。
そのための労働力として、1941年9月に、3000人以上の中国人が、上海から貨物船で八所港に運ばれた。上海からのわずか1週間の船旅の途中で、数十人もの人が死亡し、海南島に到着した人たちは、「過半数が痩せ細った、一見して病人を思わすような身体つき」であったという。その後、劣悪な宿所に住まわされ、厳しい労働を強制されて、病人、死者が続出し、「約半年の間に、この上海苦力はその半数近くが死んだ。逃亡者も相次いだ」という。3000人のうち、1945年1月の石碌鉱山全面操業停止時に残っていた人はわずか300人ほどだったという(註4)。
1941年12月8日のアジア太平洋戦争開始後まもなく、日本軍は香港を占領し、同年12月29日に軍政をしいた。日本軍政下の香港から、1942年2月13日に香港を出港した日本船で、483人の「苦力」が八所港に上陸し、つづいて2月末までに、第2、第3船によって、1509人が到着し、さらにそれ以後毎月、1000人から1500人が到着したという(註5)。
この人たちは、八所港湾工事、石碌までの鉄道建設、石碌での採鉱、などで酷使された(註6)。
海南島の日本窒素関係の工事を担当したのは、西松組であった。日本軍・日本窒素・西松組は、暴力をつかって労働者を働かせた(註7)。『西松組社内報』1943年1月号には、この時点での死者は3158人(そのうち中国人労働者は2528人)であったと書かれている(註8)。
1924年生まれの崔能は、1942年2月、合記公司香港事務所の募集に応じて海南島にいき、石碌鉱山の発電所で働いた。崔能は、「あすこには、強制的に連行された者が七千人もいた」、「鉄鉱石を掘る現場は重労働だったからたくさん死んでいった」、「日本軍は……病人や怪我人でも働かせようとした」と証言している(註9)。
北黎特務部労務主任岡崎四郎の記録では、1943年10月の「石碌鉄山従業員」は、「日本人日窒社員及び西松組従業員」3000人、「台湾事務員及び労務者」600人、「広東、香港労務者」20000人、「現地海南島徴用労務者」22000人、計45600人であったと書かれている(註10)。
日本窒素は、1926年以降、朝鮮で、大規模水力発電所や肥料工場、油脂工場、化学工場、火薬製造工場、大豆調味料製造工場などを経営し、朝鮮の資源・労働力を掠奪していた(註11)。朝鮮に基盤をおく日本窒素は、海南島での事業にも、朝鮮人を働かせた。1942年から石碌で働いていた張達雄氏は、次のように証言している(註12)。
「19歳の1941年末、京城商科学校にいて、卒業を3か月後にひかえて就職活動をしていたとき、日本窒素で社員を募集しているという
広告を見て応募した。合格後にソウル駅からわけのわからないまま、北から強制徴用者を乗せてきた汽車に乗って釜山にいき、日本、
台湾をへて海南島に行った。海南島では、はじめ石碌で鉱石を運ぶ仕事をしたが、あまりにつらくて北黎に逃げた。捕まって西松組
で働くことになり、また石碌で今度は監視や警備の仕事をした。日本窒素が石碌で経営していた農場の警備などもした」。
石碌鎮西方十数キロメートルの叉河鎮で1924年に生まれた黎族の林亜政氏は、村の近くを通る石碌鉱山ー八所港間の鉄道工事をおこなう労働者の監督をする日本軍の通訳をした。
林亜政氏は、
「日本軍は村の住民の家をこわし、その材料で近くの高台に兵舎をつくり、その下方の労働者の宿舎を監視した。宿舎のそばに物品を
売る配給所があった。イギリス人、インド人、台湾人、朝鮮人、上海からきた人など、たくさんの人が働いていた。宿舎は別々で、配
給所も、朝鮮人の配給所、インド人の配給所など別々になっていた」
とのべている(註13)。
とのべている(註13)。
石碌鉱山開発のために日本海軍は「巨額の投資」をおこなったが、1944年5月中旬に鉱石を積んだはじめての船が八所港から日本に向かったあと、10月24日に最後の船が出るまでに、日本に運ばれた鉄鉱石は、約37,5000トンのみであった(註14)。
その後、アメリカ合州国軍の攻撃が激化し、海上輸送が不可能になったので、日本海軍は、1945年1月に、石碌鉱山に操業中止命令をだした。 このとき、「石碌開発関係の邦人」は4000人以上であり、そのうち「軍籍のある者」500人あまりが陸軍に現地召集されて、海南島対岸の雷州半島にいったという(註15)。
石碌の鉄鉱石を日本に運び出そうとする日本軍と日本窒素・西松組によって生命を奪われた人びとの名はほとんど明らかにされておらず、その数もはっきりしていない。日本敗戦時に日本窒素海南事業本部総務部次長であった河野司は、「犠牲人柱」の数を「数万」としている(註16)。日本軍と日本窒素が37,5000トンの鉄鉱石を日本に送り出すために「数万」の人の生命が奪われたのである。その人たちの遺体は、「万人坑」に捨てられた。
1965年に、「石碌鉱山万人坑」近くの公園の高台に、「石碌鉄鉱死難労工紀念碑」が建てられた。
【写真】日軍石碌鉄鉱死難労工紀念碑(1998年6月27日撮影)
日本大蔵省が1947年に出した極秘文書には、
「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年より終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、文字通り熱帯の暑熱と戦ひ、マラリヤ、赤痢、コレラ等恐る可き熱帯地特有の悪疫と戦ひ、更に奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千年来中国政府及び島民が夢想だにしなかつた程急速度に各種の近代的技術と資材に依る産業開発を実行した。……七年間に生れ変つた海南島が建設されたのである」、
「占領地七年の行政成績は島民に取つて必らずしも不満足なものではなかつた」
と書かれている(註17)。
【写真】移築された「監獄」として使われたという建物(2015年3月30日撮影)
■2015年3月30日 八所で
2015年3月30日、わたしたちは八所を訪ねた。
「監獄」として使われたという建物は、移築されていた。
2015年3月30日、わたしたちは八所を訪ねた。
「監獄」として使われたという建物は、移築されていた。
その区画の入り口には、「侵華日軍侵瓊八所死難労工監獄 厳禁破壊違法必究 東方市文体局 2013年12月」の看板があった。
「日軍侵瓊八所死難劳工紀念碑」は、壊され、残骸が砂に半ばうずもれ残っていた。以前の場所には、ホテル、マンションが建ち、まだ工事中のところもあった。
「日軍侵瓊八所死難劳工紀念碑」は、壊され、残骸が砂に半ばうずもれ残っていた。以前の場所には、ホテル、マンションが建ち、まだ工事中のところもあった。
■2015年11月20日 八所で
2015年11月20日、わたしたちは、紀州鉱山の真実を明らかにする会として第28回目、海南島近現代史研究会として第16回目の海南島「現地調査」の3日目で、八所にいた。
八所鎮八所村委会で、日本軍占領下のことを知っている人がいると聞き、そこの職員の案内で、八所村を訪ねた。
2015年11月20日、わたしたちは、紀州鉱山の真実を明らかにする会として第28回目、海南島近現代史研究会として第16回目の海南島「現地調査」の3日目で、八所にいた。
八所鎮八所村委会で、日本軍占領下のことを知っている人がいると聞き、そこの職員の案内で、八所村を訪ねた。
張老桃さん(92歳 2015年当時)は、八所の港湾建設現場でしごとをした。
「朝鮮人といっしょにしごとをした。いっしょにご飯も食べた。朝鮮人はやさしい。朝鮮人の軍人もいた。レールを運んでいた。きついしごとをしていた。重いので‟アイヨーサ、アイヨーサ”と声かけあって運んでいた。‟たいへんですね“というと、‟たいへんだけど、やらなければいけない”と言っていた。
‟メシタベル。モッテコイ。キモノ。アカイ。シロイ。クロイ。ブタニク。ニワトリ。サカナ。フルサト。アナタ。ワタシ“。朝鮮人なのに、日本語をしゃべっていた。
妹妹よ、と話しかけてきた。
‟わたしは朝鮮人。日本人につかまって連れてこられた”。
朝鮮人は日本軍人と服装がちがう。朝鮮人は、しごと服。いろいろな服。
朝鮮人はしごとの行き帰りに列を作っていた。朝鮮人は、レールを運ぶ。鉱石を運ぶ。なんでもした。
何千人もの労働者がいた。中には、おおぜいの大学生がいた。‟わたしたちは上海の大学生です。捕まってこっちに連れてこられた“と話していた。大学生は注射をされてすぐ死んだ。死体は焼いた。扇動して抗議活動をすることを恐れて。見て涙がぼろぼろこぼれた。泣いたらあんたにも注射をする、と脅かされた。
八所の港で。隣の工場で。万人坑のところで。魚鱗河のところで。注射をした。
労働者に水を運んだり、食事のしたくをして、一日5毛もらった。レンガを運ぶときは1元。
ホンコンの労働者のために水運び、食事のしたく、掃除をしたときは、お金はもらわなかった。
ホンコンの労働者のひとつのグループの隊長は、病気になって、日本人は火の中に入れた。何人もで担いで、火の中に入れた。
‟隊長さん、あの人たちはあなたをどこに運ぶのですか”と聞いたら、‟知らない”。逃げて、また捕まって、火の中に入れられ、それを何回もしてとうとう出てこられなかった。見て泣いた。
宿舎でしごとをしていたが、そこから見えた。ホンコン人が何人くらいいたかわからない。
じぶんの責任は、何十人の世話。食事は2人か3人でいっしょにつくる。ふたつの大きな鍋でつくる。材料は日本の軍人が運んできた。
そのころの港はアタマしか見えない。アタマばっかり。上海、ホンコン、朝鮮人、インド人、アメリカ人英国人、台湾人。労働者はみんな別々の宿舎。長い部屋。いい宿舎も、悪い宿舎もある。日本軍の話をよく聞く人は、よい宿舎に入れる。
日本軍に抗議をするために、工具を隠し持って捕まった。ホンコンの夫婦で別々の監獄に入れられた。夫婦には娘がひとりいた。この子は子どもだから、育てたいというと、だめだ、悪い人間の子どもは悪い人間になるといって、どこかへ連れていって殺した。
日本軍のいうことを聞かない労働者はトラックに載せて川辺に連れていって、穴を掘らせて軍刀で殺して穴にいれた。
毎日家から通った。14歳から21歳まで。さいしょは港で砂やレンガを運んだ。少しお金をもらえたので、このしごとをした。16歳か17歳のころ、食事の世話に変わった。砂やレンガは宿舎を作るために運んだ。完成したあと、食事の世話のしごと。
さいしょ、台湾人が来た。最初、宿舎を作るのも台湾人。ホンコンや上海から来た人は、港のしごと。船から降りるのは見ていない。
この村から働きに行った人もとてもおおい。附近の人はみんな八所に働きにいった。
日本が降参して70年たった。20歳のとき、日本が降参した。日本軍がいなくなったが、なぜいなくなったかわからなかった。
(「監獄」といわれる建物は?)死んだ労働者を焼いて、灰を置いていた。箱に入れてあった。たくさんあった。監獄を作る必要はない。いうことを聞かなかったらすぐ殺すから。前に紀念碑があったところには、骨がいっぱいあった。骨はむき出しで、歩くと骨を踏んだ。死体を捨てるのを見た。
(日本敗戦後)労働者は自動的に解散した。放置された。ほおっておかれた。食べるものもなくたいへん。周辺の村に住みついた人もいる。この村に住みついた人もいる。
朝鮮人とは仲がよかった。名前は知らない。いろいろな年の人。青年、中年。大人」。
張仁常さん(90歳 2015年当時)も八所の港湾建設現場で働いた。
「朝鮮人、アメリカ人もいた。とてもおおい。
朝鮮人は男も女もいた。女の人はしごとをしない。きれいなかっこうをしている。女の人だけで小さな部屋に住んでいた。朝、散歩をしていた。掃除をしていて、‟日本娘よ、汚いからこっちにこないで“というと、‟ちがう、朝鮮人”と言った。
上海の労働者は大学生がおおかった。皮膚病にかかっている人がおおかった。注射をされてこうなったと話していた」。
【写真】張仁常さん
■2014年11月1日 東閣鎮南文村で
南文村で出会った符祝霞さん(75歳 2014年当時)から話を聞いたあと、伯母がうたっていたという唄をうたっていただいた。30何年か前に亡くなった(2014年11月当時)伯母がいつもうたっていて、覚えたという。
「6台のトラックが兵隊を運んできた。男は先に逃げた。女性は子どもを抱いて、ものをかついで、どうしたらいいのか。コメとか食べ物はぜんぶ焼かれてしまった。食べ物はない。
日本軍が敗退して帰るとき、それを見ながら、この唄が出てきたと聞いた。
日本軍が剣をかざして自分を空に放り投げて突き刺そうとしたが、母が、シンシャン、ひざまずいて何度もお願いして自分は助かった。母は良民証がなく、父は、共産党員だった」。
上海の労働者は大学生がおおかった。皮膚病にかかっている人がおおかった。注射をされてこうなったと話していた」。
【写真】張仁常さん
■2014年11月1日 東閣鎮南文村で
南文村で出会った符祝霞さん(75歳 2014年当時)から話を聞いたあと、伯母がうたっていたという唄をうたっていただいた。30何年か前に亡くなった(2014年11月当時)伯母がいつもうたっていて、覚えたという。
「6台のトラックが兵隊を運んできた。男は先に逃げた。女性は子どもを抱いて、ものをかついで、どうしたらいいのか。コメとか食べ物はぜんぶ焼かれてしまった。食べ物はない。
日本軍が敗退して帰るとき、それを見ながら、この唄が出てきたと聞いた。
日本軍が剣をかざして自分を空に放り投げて突き刺そうとしたが、母が、シンシャン、ひざまずいて何度もお願いして自分は助かった。母は良民証がなく、父は、共産党員だった」。
日本自从文昌驻
没有足迹到昌洒
谁料去年十二月
从清澜他来六车
一直行至敦乐城
到了敦乐就停车
大人小孩皆逃命
逃到远处无粮食
逃回家也是死定
有些人
担得住粮食抱不住儿
妻唤夫
你到底等不等?
骂一句就戳心窝
米糠皆烧没粮食
这下饿着母子了
只剩下房屋墙头未塌
日本は文昌から
足音もなくしずかに昌洒にきた
意外にも去年の12月
6台のトラックで清瀾(註18)からやってきた
まっすぐ敦楽城に行き
敦楽で停車した
大人も子どもみんな命からがら逃げた
遠くまで逃げたが食べものはない
家に戻れば死ぬ定め
食べものを持てば
子どもを抱いて逃げられない
妻は夫をなじる
あなたは何をしてるのか
胸をたたいてののしっても
米ももみもみんな食べものは焼かれてしまった
こうして母子は飢え
家は壁だけのこっている
■2015年3月30日 海頭鎮南港村で
李春寿さん(90歳、1926年生)
「付近の家はぜんぶ、日本軍の指揮部として取られてしまった。
日本軍が来てから、農耕もできない、生活も安定しない。人をおおぜいつかまえて、日本軍のしごとをさせる。少し大きな人を見つけたら、つかまえてしごとをさせた。
橋をつくるしごと。そこで使う木材を運んだ。監督は日本人だ。
ここに日本軍の基地があった。司令部はここにあった。
妓女館は司令部のところにあった。鉄条網の外側だが、村すべてが日本軍の司令部だった。
6、7人の女性がいた。臨高(註19)から連れてこられた女性。
当時の村の人口はおよそ40世帯。二つの道路があったが、一軒をのぞいて、両側の家をぜんぶ壊した。家を壊して、炮楼建設の材料に使った」。
■2015年4月1日 屯昌県南坤鎮で
梁月花さん(81歳、1933年生?)
大人の人から売春の女と聞いて、住んでいるところを見に行った。
女性は臨高から連れてこられた、とみんな話していた。近くに井戸もあった。日本軍がいなくなったあと、女性たちは行方不明になった。人数はわからない。見たことある」。
符玉波さん(86歳 2015年当時)
「日本軍はたくさんの人を殺した。たくさんの人が穴を掘って殺されるのを見た。おおぜいで、何人かわからないほどだ。よその村の人が殺されるのも見た。いまはその上に家が建っている。
日本軍が来たばかりのころ、家はぜんぶ焼かれた。
日本軍の建物をつくる工事をする人のなかに、黒人がいた。頭に布を巻いていた。 (朝鮮人ということばを聞いたことがあるか?)朝鮮人ということばは知らない。
黒人は監督もするし、しごともする。監督は、軍服を着ていた。
“日本娘”がいたのは知っているが、何人いたか知らない。街を歩いているのを見た。きれいな服を着ていた」。
朱月英さん(48歳、1966年生)
「(レンガの壁の家)“リーペンニャン日本娘”が住んでいた。小さいころから母からよく聞いた。“リーペンニャン日本娘”も、この井戸の水を使いに来ていたという。井戸はもっと小さく、水も上の方まであった。桶を投げてそのまま水を汲みあげることができた。
(池のすぐそばの建物)この近辺は人が殺された場所。母が話していた。母はいま78歳」。
■2015年4月2日 屯昌県屯城鎭大同村で
韓玉花さん(84歳 2015年当時)
「いうことを聞かない人を水につけて殺した。みんなを集めて、殺すのを見せた。わたしも見た。通訳の名前は、リョウバイ。日本語の通訳。通訳はこわい。
何人かの女の子といっしょにしごとをした。大同での道路工事で、木とか草を刈るしごと。そのとき、わたしが1節、また別の子が1節、それぞれ順に作ってみんなでしごとをしながら歌った。
日本軍が聞いてもここのことばはわからない」(註20)。
【写真】韓玉花さん
村里甲叶叫啰啰
一半牛头半镰刀
一半镰刀割青岭
一半牛头赶干粮
去到半路就闲晚
去到工地身走斜
拿点稀饭打到洒
穿件衣服撕到烂
村の甲長に大きな声で呼ばれた
村の人たちは半数づつ鎌と刀を用意した
鎌で山の木と草を刈った
刀でしごとをした
遠いしごと場についたら遅いといわれた
からだが地にへばりつくようにはたらいた
水がおおい粥をおなかにいれた
着ているものは破れている
■2016年4月26日 昌江黎族自治県重合村で
符永令さん(82歳 2016年当時)
「母は子どもがいなくて、わたしを養女にして育てた。
日本軍のしごとには、かならず一家族一人が出なくてはならなかった。わたしは幼かったが、母は年寄りなので、かわりに出て、温泉のところでしごとをした。少し大きい人は、草刈り。温泉とか炮楼のあたりで。わたしは、まだ小さかったので、草刈りをした草のあとかたづけ。草を拾い集めて捨てる。草刈り、片付けが終わったあとは、サツマイモを炊いて、食事のしたくをして家に帰った。
兵士はおおぜいいた。基地の中には入ったことはない。
(ある日のこと)しごとが終わったあと、男の人は帰して、女性だけ残した。4人の少し大人の女性4人を裸にして一つの部屋に入れようとしたが、その人たちが、子どもたちに、あなたたちはぜったい離れないでいっしょにいて、そしたら日本兵は悪いことができないから、というので、子どもたちは、その女性たちのそばを離れないで、ずーといっしょにいた。日本兵は怒って、鉄の棒で大人の女性を殴り、部屋に追い入れようとしたが、みんな入ろうとしなかった。
(日本軍のしごとに出て)食事もないし、金ももらわなかった。殴られなかっただけ、よかった」(註21)。
■2017年5月3日 文昌市錦山鎮東山村で
上東山村の自宅前広場の木陰で、韓裕豊さん(1926年3月生)に話を聞かせてもらうことができた。
「近くに日本軍は望楼をつくった。高かった。屋根にトタン板がはられていた。
望楼からすこし離れたところに日本軍の兵舎が2か所あった。そこは市場の前だった。偽軍の建物もあった。慰安所もあった。
慰安所には女性が10人あまりいた。その女性たちは、ときどきいなくなって、よそに行って、また戻ってきた。日本の服を着ている人がおおかった。膨らんだ布の飾りを背中につけていた。海南島の服を来ている人が2人いた。
慰安所の女性とは話したことはなかったが、慰安所で働いていた人から、慰安所の女性たちは、近くの日本軍の軍営を回っていると聞いた。海南島の服を着ている人は、舗前(註22)の人だと聞いた。
慰安所は、もとは民家だった。新しくつくった家ではなかった」。
■2017年5月6日 文昌市昌洒鎮東坡村で
東坡村の黄良波さんは、つぎのように話した。
「日本軍が来たとき、7歳だった。
日本軍は村の近くに飛行場をつくろうとしたが、工事を始める前に日本軍は敗けた。
子どものとき日本語学校に2年間通った。2年たったら日本軍が敗けていなくなった。
先生は5人いた。高松先生と島津先生は日本人、黄循生先生と黄良友先生はこの村の人、林道欽先生は台湾人だった。
日本軍が飛行場をつくろうとしたことは、林道欽先生から聞いた。
むかしの村の家は丈夫な硬い材木でつくられていた。日本軍は村の家を壊して軍営をつくった。わたしの家も壊されたので、近くの福架村の親戚の家に移らなければならなかった。
日本軍は軍営の真ん中に望楼をたてた。
村の家を壊し兵舎や望楼をつくったのは、よその村の人たちだった。日本軍はすこし離れた村の甲長に命令して、その村の人を働かせた。兵舎や望楼を設計したのは日本軍 だった。
日本語学校の建物も日本軍は新しくつくった。日本語学校の工事も村人がやった。
日本軍が来る前は祠堂で子どもたちが勉強した。
近くの文東中学校の敷地から日本軍に殺された人の遺骨がたくさんでてきたことがあった」。
黄良波さんの連れ合いの何金英さん(83歳)は、そばで話しを聞いていて、つぎのように話した。
「兵舎の工事に来ていた若い娘が日本兵に交代で強姦されて殺されたことがあった。
慰安所に近づいて中をみようとしたら、慰安婦の女性に水をかけられたことがあった。
村の人が慰安婦のことをよく言ってなかったからだと思う。子ども心にそう感じた。
わたしはこの村の日本軍の兵舎をつくるときレンガなどを運んだ。子どもも大人もたくさん働いていた」(註23)。
■おわりに
2001年7月16日、「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人が日本国を提訴した(註24)。
8人の原告は、全員が亡くなった。
8人の原告は、無言の数知れない海南島の女性たちを代弁していた。
註1 わたしたちは、2018年10月の紀州鉱山の真実を明らかにする会としては第33回目、海南島近現代史研究会としては第20回目を最後に、海南島には行くことができていない。
わたし自身は、2016年4月22日(農暦3月16日)~5月5日(農暦3月29日)の紀州鉱山の真実を明らかにする会としては第29回、海南島近現代史研究会としては第16回目を最後に、海南島には行っていない。
本稿での証言は、他のわたしの海南島関係論文との内容的な重複を避けるため、註11と註12の張達雄氏と林亜政氏のもの以外は、2010年代の海南島「現地調査」で得たものである。
しかし、ここで紹介するのは、残念ながら、ごく一部である。
海南島で証言してくださった方がた、わたしたちを支えてくださった方がたに、この場を借りて、感謝します。
註2 八所は、1939年7月8日、日本軍に占領された。石碌は、1940年3月15日に日本軍に占領された(八所港務局〈港史〉編写組編『八所海港史』海南人民出版社、2000年発行と思われる、179頁)。
在海口日本総領事館警察署が発行した『治安月報』1942年4月分に、「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山」と書かれている。
「田独鉄山」は石原産業が、「石碌鉄山」は日本窒素が「経営」していた。
石原産業の経営者だった石原廣一郎は、日本軍が海南島に奇襲上陸してから2か月後の4月に、日本海軍の部隊に護衛され、海南島の田独村などを回った。
石原は、1945年12月末から1948年12月末までA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘禁されていたが、そのころ書いたと思われる「回顧録」の「海南島資源調査」と題する部分で、つぎのように語っている。
「海口に新たに台湾銀行支店が昨日開設せられたので、ここに立寄った。
……昨日開店したばかりであるが昨日一日中に預金が三、四万円あった。
その預金者は慰安婦のみであるという話を聞いた時、当地占領後わずか二ヵ月に過ぎないが早くも慰安婦が来て……。
帰りに街を注意して見ると、各所に慰安所という看板が上がっていることに気付く。
慰安婦は……日本人、朝鮮人、台湾人などであって……」。
註3 「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」は、第1次が1943年3月30日に出発、文書で確認できる最後の第8次が1944年1月にソウルの西大門刑務所を出発した。
「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」については、以下の論文を参照した。
・金靜美「日本占領下の海南島における強制労働――強制連行・強制労働の歴史の総体的把握のために――」①・②、『戦争責任研究』27・28、日本の戦争責任資料センター、2000年3月・6月。
・金靜美「일본점령하 중국海南島에서의 강제노동」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와 在日同胞』、ソウル大学校出版部、1999年8月。
・金靜美「海南島の場合(とくに「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について)」(2000年5月24日、ソウルでの第9次国際歴史教科書学術会議第3主題「日本에 있어서의 過去清算問題」における報告(「日帝期의 強制連行 問題에 関하여」のなかで)。『各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題』国際教科書研究所、2000年5月。
・金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月。
・金靜美「国民国家日本の他地域・他国における暴力――海南島の場合――」、『東北亜歴史의 諸問題』(南陽洪鍾泌博士定年退任記念論叢)、2003年10月。
・金靜美「海南島からの朝鮮人帰還について――植民地国家からの出国、国民国家への帰還――」、『解放後中国地域韓人の帰還問題研究』、国民大学校韓国学研究所、2003年11月28日。
註4 八所での日本海軍や日本窒素・西松組の暴行、労働者の状況や闘いについては、前掲『八所海港史』15~38頁、参照。
註5 河野司編著『海南島石碌鉄山開発誌』石碌鉄山開発誌刊行会、1974年、223~225頁。
註6 同前、231頁。
註7 王瑾「礦工血泪 石碌鉄礦労工的悲惨遭遇紀実」、および、李玉親・趙志賢整理「石碌鉄礦労工悲惨遭遇実録」、海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 日軍侵瓊暴行実録』続、海南出版社、1996年。および、趙志賢整理「日軍侵占昌江及其暴行」、政治協商会議海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6、1997年。
関松瑶「日本侵瓊時期石碌鉄礦労工状況簡介」(政治協商会議広東省昌江県委員会文史資料組編『昌江文史』2、1987年9月)には、1943年秋に、広州出身の労働者2人が逃亡しようとして捕えられ、みせしめのため、おおくの労働者の前で首を切られた、という証言が記されている(45頁)。
註8 玉城素他『産業の昭和社会史』12(土木)、日本経済評論社、1993年、190頁。
上東山村の自宅前広場の木陰で、韓裕豊さん(1926年3月生)に話を聞かせてもらうことができた。
「近くに日本軍は望楼をつくった。高かった。屋根にトタン板がはられていた。
望楼からすこし離れたところに日本軍の兵舎が2か所あった。そこは市場の前だった。偽軍の建物もあった。慰安所もあった。
慰安所には女性が10人あまりいた。その女性たちは、ときどきいなくなって、よそに行って、また戻ってきた。日本の服を着ている人がおおかった。膨らんだ布の飾りを背中につけていた。海南島の服を来ている人が2人いた。
慰安所の女性とは話したことはなかったが、慰安所で働いていた人から、慰安所の女性たちは、近くの日本軍の軍営を回っていると聞いた。海南島の服を着ている人は、舗前(註22)の人だと聞いた。
慰安所は、もとは民家だった。新しくつくった家ではなかった」。
■2017年5月6日 文昌市昌洒鎮東坡村で
東坡村の黄良波さんは、つぎのように話した。
「日本軍が来たとき、7歳だった。
日本軍は村の近くに飛行場をつくろうとしたが、工事を始める前に日本軍は敗けた。
子どものとき日本語学校に2年間通った。2年たったら日本軍が敗けていなくなった。
先生は5人いた。高松先生と島津先生は日本人、黄循生先生と黄良友先生はこの村の人、林道欽先生は台湾人だった。
日本軍が飛行場をつくろうとしたことは、林道欽先生から聞いた。
むかしの村の家は丈夫な硬い材木でつくられていた。日本軍は村の家を壊して軍営をつくった。わたしの家も壊されたので、近くの福架村の親戚の家に移らなければならなかった。
日本軍は軍営の真ん中に望楼をたてた。
村の家を壊し兵舎や望楼をつくったのは、よその村の人たちだった。日本軍はすこし離れた村の甲長に命令して、その村の人を働かせた。兵舎や望楼を設計したのは日本軍 だった。
日本語学校の建物も日本軍は新しくつくった。日本語学校の工事も村人がやった。
日本軍が来る前は祠堂で子どもたちが勉強した。
近くの文東中学校の敷地から日本軍に殺された人の遺骨がたくさんでてきたことがあった」。
黄良波さんの連れ合いの何金英さん(83歳)は、そばで話しを聞いていて、つぎのように話した。
「兵舎の工事に来ていた若い娘が日本兵に交代で強姦されて殺されたことがあった。
慰安所に近づいて中をみようとしたら、慰安婦の女性に水をかけられたことがあった。
村の人が慰安婦のことをよく言ってなかったからだと思う。子ども心にそう感じた。
わたしはこの村の日本軍の兵舎をつくるときレンガなどを運んだ。子どもも大人もたくさん働いていた」(註23)。
■おわりに
2001年7月16日、「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人が日本国を提訴した(註24)。
8人の原告は、全員が亡くなった。
8人の原告は、無言の数知れない海南島の女性たちを代弁していた。
註1 わたしたちは、2018年10月の紀州鉱山の真実を明らかにする会としては第33回目、海南島近現代史研究会としては第20回目を最後に、海南島には行くことができていない。
わたし自身は、2016年4月22日(農暦3月16日)~5月5日(農暦3月29日)の紀州鉱山の真実を明らかにする会としては第29回、海南島近現代史研究会としては第16回目を最後に、海南島には行っていない。
本稿での証言は、他のわたしの海南島関係論文との内容的な重複を避けるため、註11と註12の張達雄氏と林亜政氏のもの以外は、2010年代の海南島「現地調査」で得たものである。
しかし、ここで紹介するのは、残念ながら、ごく一部である。
海南島で証言してくださった方がた、わたしたちを支えてくださった方がたに、この場を借りて、感謝します。
註2 八所は、1939年7月8日、日本軍に占領された。石碌は、1940年3月15日に日本軍に占領された(八所港務局〈港史〉編写組編『八所海港史』海南人民出版社、2000年発行と思われる、179頁)。
在海口日本総領事館警察署が発行した『治安月報』1942年4月分に、「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山」と書かれている。
「田独鉄山」は石原産業が、「石碌鉄山」は日本窒素が「経営」していた。
石原産業の経営者だった石原廣一郎は、日本軍が海南島に奇襲上陸してから2か月後の4月に、日本海軍の部隊に護衛され、海南島の田独村などを回った。
石原は、1945年12月末から1948年12月末までA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘禁されていたが、そのころ書いたと思われる「回顧録」の「海南島資源調査」と題する部分で、つぎのように語っている。
「海口に新たに台湾銀行支店が昨日開設せられたので、ここに立寄った。
……昨日開店したばかりであるが昨日一日中に預金が三、四万円あった。
その預金者は慰安婦のみであるという話を聞いた時、当地占領後わずか二ヵ月に過ぎないが早くも慰安婦が来て……。
帰りに街を注意して見ると、各所に慰安所という看板が上がっていることに気付く。
慰安婦は……日本人、朝鮮人、台湾人などであって……」。
註3 「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」は、第1次が1943年3月30日に出発、文書で確認できる最後の第8次が1944年1月にソウルの西大門刑務所を出発した。
「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」については、以下の論文を参照した。
・金靜美「日本占領下の海南島における強制労働――強制連行・強制労働の歴史の総体的把握のために――」①・②、『戦争責任研究』27・28、日本の戦争責任資料センター、2000年3月・6月。
・金靜美「일본점령하 중국海南島에서의 강제노동」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와 在日同胞』、ソウル大学校出版部、1999年8月。
・金靜美「海南島の場合(とくに「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について)」(2000年5月24日、ソウルでの第9次国際歴史教科書学術会議第3主題「日本에 있어서의 過去清算問題」における報告(「日帝期의 強制連行 問題에 関하여」のなかで)。『各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題』国際教科書研究所、2000年5月。
・金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月。
・金靜美「国民国家日本の他地域・他国における暴力――海南島の場合――」、『東北亜歴史의 諸問題』(南陽洪鍾泌博士定年退任記念論叢)、2003年10月。
・金靜美「海南島からの朝鮮人帰還について――植民地国家からの出国、国民国家への帰還――」、『解放後中国地域韓人の帰還問題研究』、国民大学校韓国学研究所、2003年11月28日。
註4 八所での日本海軍や日本窒素・西松組の暴行、労働者の状況や闘いについては、前掲『八所海港史』15~38頁、参照。
註5 河野司編著『海南島石碌鉄山開発誌』石碌鉄山開発誌刊行会、1974年、223~225頁。
註6 同前、231頁。
註7 王瑾「礦工血泪 石碌鉄礦労工的悲惨遭遇紀実」、および、李玉親・趙志賢整理「石碌鉄礦労工悲惨遭遇実録」、海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 日軍侵瓊暴行実録』続、海南出版社、1996年。および、趙志賢整理「日軍侵占昌江及其暴行」、政治協商会議海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6、1997年。
関松瑶「日本侵瓊時期石碌鉄礦労工状況簡介」(政治協商会議広東省昌江県委員会文史資料組編『昌江文史』2、1987年9月)には、1943年秋に、広州出身の労働者2人が逃亡しようとして捕えられ、みせしめのため、おおくの労働者の前で首を切られた、という証言が記されている(45頁)。
註8 玉城素他『産業の昭和社会史』12(土木)、日本経済評論社、1993年、190頁。
西松組(現、西松建設)がアジアの各地でおこなった非道行為については、中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会編刊『歴史に正義と公道を』1998年、参照。
註9 石田甚太郎『日本鬼 日本軍占領下香港住民の戦争体験』現代書館、1993年、25~27頁、および小林英夫『日本軍政下のアジア 「大東亜共栄圏」と軍票』岩波書店、1993年、8~12頁。
合記公司は、日本海軍特務部管轄下の「募集機関」であった。合記公司香港事務所からは、海南島の田独鉱山、三井倉庫、台湾拓殖会社にも労働者が「供出」された(前掲『海南島石碌鉄山開発誌』228頁)。
註10 前掲『海南島石碌鉄山開発誌』239頁。
註11 日本窒素が朝鮮でおこなったことに関する研究はあるが(姜在彦編『朝鮮における日窒コンツェルン』不二出版、1985年、など)、海南島でおこなったことに触れている研究はない。堀和夫は、その論文「日本化学工業と日本窒素コンツェルン 個別資本と植民地経済」(『朝鮮工業の史的分析』有斐閣、1995年)で、「日本帝国圏における日窒」を論じているが、「日本帝国圏」とされていた海南島で日本窒素が日本軍と共におこなったことを全く無視している。
「8・15」の後、朝鮮から日本に引き揚げた日本窒素の幹部たちは、日本九州の水俣工場の経営権を握った。かれらはその工場から水銀の入った毒水を流し続け、海を汚染し、水俣湾地域の民衆を「病気」にし、殺害した(原田正純『水俣病』岩波書店、1972年。岡本達明・松崎次夫編『聞書水俣民衆史』一~五、草風館、1990年、など参照)。
註12 1998年8月17日に、ソウルで筆者が聞く。
張達雄氏は、1998年1月~2月に、50余年ぶりに海南島を再訪した。
註13 1998年6月29日に、筆者を含む紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーが、林亜政氏にその自宅で話を聞いたあと、近所の兵舎跡、宿舎跡、配給所跡に案内していただいた。
註14 前掲『海南島石碌鉄山開発誌』212頁。
註15 同前、559頁。
註16 同前、560頁。
註17 大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査(海南島篇)』1947年、7、212頁。
註18 海南島東海岸北部にある港町、清瀾に、日本軍の台湾混成旅団が、1939年2月23日に上陸した(『陸軍省大日記』、「陸支受大日記「密」第52号 海南島攻略戦 登號作戦」1939年自8月16日至8月21日)。
註19 1939年4月16日、日本軍は臨高近くの新盈港に上陸し、翌18日、臨高を占領した(海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 ―日軍侵瓊暴行実録』海南出版社、1995年、755頁)。
直後から日本軍は、臨高に日本軍基地の建設をはじめ、治安維持会を組織し、日本語学校などを作った。
わたしたちがはじめて臨高に行ったのは、2002年3月31日だった。
日本軍が作った日本語学校に行った後、海南海軍特務部で通訳として働いた林吉蘇氏(1925年生)から、日本軍が、新盈、臨高、那大などに「慰安所」を設置したことを聞き、日本軍が作った望楼や「慰安所」を確認した。その後も数度、臨高、新盈を訪ね、日本軍が上陸した地点などを確認した。
註3であげた金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月、参照。
註20 海南島の言語は、地域によってことなる。先住民族は、漢族によって、「黎族」となづけられたが、彼らの言語も、地域によってちがう。海南語でも、北部と南部ではことばが通じない。
韓玉花さんたち女性が、日本軍によって強制的に労働させられながら、一節づつ即興でうたったという唄は、抵抗歌ともいえる。
韓玉花さんがうたってくれた唄は、あとから、わたしたちに同行していた南海出版社の何怡欣さんが漢字に書き起こし、呉雪さんが送ってくれた。符祝霞さんの唄も、南海出版社の人が漢字に書き起こし、漢語に翻訳してくれたものである。
註21 邢越さんは、海南島で、海南語と漢語を日本語に通訳してくれる、海南島近現代史研究会の会員である。海南島南部で生まれ育った邢越さんは、海南島北部のことばが聞き取れない、と話す。
「黎族」「苗族」の村に行ったときは、「黎語」や「苗語」を、若い人たちに漢語、いわゆる「普通語」に通訳してもらい、さらに、邢越さんが日本語に置き換えた。
証言を聞くとき、証言者の言語を直接理解できないということは、ひとえに証言に接する側の怠慢であるが、その「怠慢」を克服するのはむずかしい。
海南島各地で、邢越さんだけでなく、証言の理解において、おおくの人たちの助けを得た。同行者に漢語が流暢にできるひとがいないときには、あるときは、中学生、高校生にも協力してもらった。証言を漢字で書きとってもらって、それを読んだ。
わたしたちの海南島での調査は、行く先ざきで出会ったおおくの人たちの協力で成り立ったものである。
註22 舗前は、1939年5月2日、日本軍によって占領された(海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 ―日軍侵瓊暴行実録』海南出版社、1995年、755頁)。
註23 2017年5月、上東山村の韓裕豊さん、東坡村の黄良波さんの証言は、佐藤正人の紀州鉱山の真実を明らかにする会として第31回目、海南島近現代史研究会として第18回目の海南島「現地調査」報告から引用した。
註24 「海南島戦時性暴力被害訴訟」については、本書『일본군´위안부`피해자 김옥주 구술자료집』(韓国挺身隊研究所編、韓国女性人権振興院、2022年12月)に収録されている佐藤正人の「海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表)」、および「海南島戦時性暴力被害訴訟1・2」を参照してください。
註9 石田甚太郎『日本鬼 日本軍占領下香港住民の戦争体験』現代書館、1993年、25~27頁、および小林英夫『日本軍政下のアジア 「大東亜共栄圏」と軍票』岩波書店、1993年、8~12頁。
合記公司は、日本海軍特務部管轄下の「募集機関」であった。合記公司香港事務所からは、海南島の田独鉱山、三井倉庫、台湾拓殖会社にも労働者が「供出」された(前掲『海南島石碌鉄山開発誌』228頁)。
註10 前掲『海南島石碌鉄山開発誌』239頁。
註11 日本窒素が朝鮮でおこなったことに関する研究はあるが(姜在彦編『朝鮮における日窒コンツェルン』不二出版、1985年、など)、海南島でおこなったことに触れている研究はない。堀和夫は、その論文「日本化学工業と日本窒素コンツェルン 個別資本と植民地経済」(『朝鮮工業の史的分析』有斐閣、1995年)で、「日本帝国圏における日窒」を論じているが、「日本帝国圏」とされていた海南島で日本窒素が日本軍と共におこなったことを全く無視している。
「8・15」の後、朝鮮から日本に引き揚げた日本窒素の幹部たちは、日本九州の水俣工場の経営権を握った。かれらはその工場から水銀の入った毒水を流し続け、海を汚染し、水俣湾地域の民衆を「病気」にし、殺害した(原田正純『水俣病』岩波書店、1972年。岡本達明・松崎次夫編『聞書水俣民衆史』一~五、草風館、1990年、など参照)。
註12 1998年8月17日に、ソウルで筆者が聞く。
張達雄氏は、1998年1月~2月に、50余年ぶりに海南島を再訪した。
註13 1998年6月29日に、筆者を含む紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーが、林亜政氏にその自宅で話を聞いたあと、近所の兵舎跡、宿舎跡、配給所跡に案内していただいた。
註14 前掲『海南島石碌鉄山開発誌』212頁。
註15 同前、559頁。
註16 同前、560頁。
註17 大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査(海南島篇)』1947年、7、212頁。
註18 海南島東海岸北部にある港町、清瀾に、日本軍の台湾混成旅団が、1939年2月23日に上陸した(『陸軍省大日記』、「陸支受大日記「密」第52号 海南島攻略戦 登號作戦」1939年自8月16日至8月21日)。
註19 1939年4月16日、日本軍は臨高近くの新盈港に上陸し、翌18日、臨高を占領した(海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 ―日軍侵瓊暴行実録』海南出版社、1995年、755頁)。
直後から日本軍は、臨高に日本軍基地の建設をはじめ、治安維持会を組織し、日本語学校などを作った。
わたしたちがはじめて臨高に行ったのは、2002年3月31日だった。
日本軍が作った日本語学校に行った後、海南海軍特務部で通訳として働いた林吉蘇氏(1925年生)から、日本軍が、新盈、臨高、那大などに「慰安所」を設置したことを聞き、日本軍が作った望楼や「慰安所」を確認した。その後も数度、臨高、新盈を訪ね、日本軍が上陸した地点などを確認した。
註3であげた金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月、参照。
註20 海南島の言語は、地域によってことなる。先住民族は、漢族によって、「黎族」となづけられたが、彼らの言語も、地域によってちがう。海南語でも、北部と南部ではことばが通じない。
韓玉花さんたち女性が、日本軍によって強制的に労働させられながら、一節づつ即興でうたったという唄は、抵抗歌ともいえる。
韓玉花さんがうたってくれた唄は、あとから、わたしたちに同行していた南海出版社の何怡欣さんが漢字に書き起こし、呉雪さんが送ってくれた。符祝霞さんの唄も、南海出版社の人が漢字に書き起こし、漢語に翻訳してくれたものである。
註21 邢越さんは、海南島で、海南語と漢語を日本語に通訳してくれる、海南島近現代史研究会の会員である。海南島南部で生まれ育った邢越さんは、海南島北部のことばが聞き取れない、と話す。
「黎族」「苗族」の村に行ったときは、「黎語」や「苗語」を、若い人たちに漢語、いわゆる「普通語」に通訳してもらい、さらに、邢越さんが日本語に置き換えた。
証言を聞くとき、証言者の言語を直接理解できないということは、ひとえに証言に接する側の怠慢であるが、その「怠慢」を克服するのはむずかしい。
海南島各地で、邢越さんだけでなく、証言の理解において、おおくの人たちの助けを得た。同行者に漢語が流暢にできるひとがいないときには、あるときは、中学生、高校生にも協力してもらった。証言を漢字で書きとってもらって、それを読んだ。
わたしたちの海南島での調査は、行く先ざきで出会ったおおくの人たちの協力で成り立ったものである。
註22 舗前は、1939年5月2日、日本軍によって占領された(海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 ―日軍侵瓊暴行実録』海南出版社、1995年、755頁)。
註23 2017年5月、上東山村の韓裕豊さん、東坡村の黄良波さんの証言は、佐藤正人の紀州鉱山の真実を明らかにする会として第31回目、海南島近現代史研究会として第18回目の海南島「現地調査」報告から引用した。
註24 「海南島戦時性暴力被害訴訟」については、本書『일본군´위안부`피해자 김옥주 구술자료집』(韓国挺身隊研究所編、韓国女性人権振興院、2022年12月)に収録されている佐藤正人の「海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表)」、および「海南島戦時性暴力被害訴訟1・2」を参照してください。
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