■『일분군‘ 위안부’ 피해자 김옥주 구술자료집 』한국정신대연구소 엮음 , 한국 여성인권진흥원 간, 2022년12월(『日本軍‘慰安婦’被害者 金玉珠 口述資料集』韓国挺身隊研究所編、韓国女性人権振興院刊、2022年12月)について■ 金靜美
1923年大邱で生まれた金玉珠(キム オク チュ)さんは、17歳の時に、海南島につれて いかれました。「食母」として仁川に行くことに応じた金玉珠 さんは、仁川から船に乗せられ、上海、香 港をへて、着いたところは海南島でした。 じぶんを入れて5人がいっしょに海南島に 連れていかれたといいます。
この本は、金玉珠さんに話を聞いた4回の 一問一答式の全記録です(面談者は、4回と もチョチェ ヘラン)。
さいしょに話を聞いたのは、1996年11月3 0日で、当時住んでいた江原道麟蹄の自宅だ ったそうです。
1999年に出版された『증언짐 강제로 끌 려간 조선인 군위안부들 証言集 強制 的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(第3 巻、韓国挺身隊研究所・韓国挺身隊問題対 策協議会編、ハンウル、1999年10月)には、 金玉珠さんの証言が収録されていますが、 面談者が整理したもので、今回の一問一答 式の証言は、その原型となるものです。
金玉珠さんがいた慰安所の屋号は、海口 の‘エビス’だったそうです。道を挟んだ 正面に軍の基地があり、時計塔が見えたと いいます。
金玉珠さんの記憶は、とても正確で、時計塔があり、日本軍の基地があった場所は、 海口の中心街の中山路です。
わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにす る会・海南島近現代史研究会の海南島「現地 調査」で、海口の中山路に何度か行きました。 そのうちの1回は、佐藤正人が行程計画を 立案・調整し、ともに参加した2002年10月 の紀州鉱山の真実を明らかにする会として は第5回目の海南島「現地調査」で、韓国挺身 隊研究所と共同でおこないました。
このとき、金玉珠さんがいたという‘エ ビス’を探して、当時の建物が残る中山路 を歩きましたが、特定できませんでした。 その「現地調査」について、佐藤正人・金 靜美が共同執筆した、「海南島における日 本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働― ― 2002年10月海南島「現地調査」報告― ―」は、『2002년 국외거주 일본군 ‘위안 부’피해자 실태조사 2002年 国外居住日 本軍‘慰安婦’ 被害者実態調査』(2002年1 2月、韓国女性部刊)に収録されています。
今回の『口述資料集』には、佐藤正人は、 「海南島戦時性暴力被害訴訟」1、2を、 金靜美は、「女性たち、日本軍占領下の海南 島で」を書きました。 金玉珠さんは、日本敗戦の翌年、陰暦9 月に船に乗り、日本を経て釜山に着きまし た。故郷に戻ってからの生活は、“ことば にできないほどの苦労”だったといいます。 麟蹄からナヌムの家に移り、2000年1月16 日、病のため亡くなりました。77歳でした。
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以上の文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』68号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』23号合併号(2023年10月10日発行)に掲載したものです。
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログに昨日(2024年2月22日)掲載した「女性たち、日本軍占領下の海南 島で」は、한국정신대연구소 엮음『일분군‘ 위안부’ 피해자 김옥주 구술자료집 』(韓国挺身隊研究所編『日本軍‘慰安婦’被害者 金玉珠 口述資料集』、韓国女性人権振興院刊、2022年韓国女性人権振興院刊)の巻末に付録として掲載された金靜美「일본군 점령하 하이난다오(海南島)의 여성들」の日本語版です。
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■付記
『일분군‘ 위안부’ 피해자 김옥주 구술자료집 』の巻末には、付録として金靜美「일본군 점령하 하이난다오(海南島)의 여성들」とともに佐藤正人「하이난다오(海南島) 전시 성폭력 피해 소송」が掲載されています。その原文(日本語)は、つぎのとおりです。
◆海南島戦時性暴力被害訴訟◆
◆訴訟開始
住んでいる村に突然侵入してきた日本軍によって、少女の時に日本軍隊性奴隷とされた黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さんは、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人は、2001年7月16日に、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、訴状を東京地裁にだしました。
この年11月に、黄有良さんが、東京地裁で開かれた第1回裁判(口頭弁論)で「意見」を述べました。
その後、原告が出席しないまま裁判が続けられましたが、2005年3月の第9回裁判の場で、原告の林亜金さんと海南島史研究者である張応勇さんが、2006年3月の第14回裁判の場で、原告の陳亜扁さんが証言しました。
◆一審判決
2006年8月、5か月ぶりで再び来た原告の陳亜扁さんが見まもるなかで、東京地裁民事24部の裁判官(矢尾渉、梶智紀、亀村恵子)は、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を認定しながら日本政府を免罪し、「原告らの請求をいずれも棄却する」という不当判決をだしました。
原告と海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団は直ちに控訴し、中国人戦争被害賠償請求事件弁護団は、海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と共同抗議声明をだし、中華全国律師協会・中華全国婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会は共同抗議声明をだしました。
◆『日軍侵陵暴行実録』
2001年7月に黄有良さんらが日本の裁判に、日本人弁護士24人を代理人として訴状を出す6年半前、1995年2月に発行された『日軍侵陵暴行実録』(政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『陵水文史』第7輯)に掲載されている黄有良口述・胡月玲整理「一位“慰安婦”的血和泪」には、
“黄有良さんの村(架馬村)から40メートルの地点に日本軍は軍営を作った。
日本兵30人あまりが駐屯した。
その軍営を拠点にして日本軍は、近くの黎族の村を襲撃し、多くの人を殺し、女性に暴行した……”
と書かれています。
黄有良さんら8人の原告に危害を加えたのは、海南海軍第16警備隊加茂分遣隊、保亭派遣隊、藤橋派遣隊などに所属する日本兵たちでした。
海南海軍第16警備隊に所属する日本兵は、1945年には「朝鮮村」でおおくの朝鮮人を虐殺していました(当時の第16警備隊司令は、海軍大佐能美実)。海南警備府第16警備隊が軍事支配しようとしていたのは、ほぼ現在の三亜市、保亭黎族苗族自治県、陵水黎族自治県に相当する地域でした。
陳亜扁さんが最初に被害を受けた場所は、海南警備府第16警備隊所属祖関守備隊の兵舎(あるいはその周辺)だったと思われます。
◆加害将兵の所属部隊と氏名
日本政府は、アジア太平洋各地で侵略犯罪を直接実行した犯罪集団の部隊名・指揮官名・将兵名をほとんど明らかにしていません。海南島における侵略犯罪の場合も同じです。
8人の原告を襲ったのは、日本海軍海南警備府第15警備隊の南林地域、保亭地域、加茂地域、祖関地域、田仔地域駐屯部隊の将兵の将兵でした。
藤橋分遣隊などの構成員にかんして、これまでわたしたちが公開されている旧日本軍文書(『海南警備府戦時日誌』、『海南警備府戦闘詳報』など)のなかで発見できたのは、つぎのような、わずかなことだけです。
1944年4月の藤橋分遣隊指揮官は、兵曹長横山壽。1944年5月の藤橋分遣隊指揮官は、少尉寺角八十一。当時の藤橋分遣隊部隊員数74人、准士官以上2人、下士官兵37人、巡査補35人。藤橋分遣隊警察隊員数8人、巡査6人、巡査補2人。
1944年4月の保亭派遣隊指揮官は、少尉寺角八十一、同年5月の保亭派遣隊指揮官は兵曹長横山壽。
1944年4月の加茂分遣隊指揮官は、二曹田中勝次郎、同年5月の加茂分遣隊指揮官は一曹野尻竹次郎。
1944年4月、5月の什令分遣隊指揮官は、上曹東川七之助。
1944年4月・5月の藤橋分遣隊指揮官と、保亭分遣隊指揮官は、入れかわっていますが、兵曹長横山壽や少尉寺角八十一が指揮官であった時期に、黄有良さんは、1944年4月、5月にも、藤橋の「慰安所」に監禁されていました。
◆二審開始
2007年5月15日に、東京高等裁判所で「海南島戦時性暴力被害訴訟」の二審の審理が開始され、9月25日に第2回裁判、10月18日に第3回裁判が開かれました。
2008年1月15日午後2時から、東京高裁818法廷で、高裁4回目の裁判が開かれました。この日、黄有良さんが海南島から来て証言しました。
◆証言する黄有良さん
黄有良さんの証言を傍聴しようとして、この日東京高裁前には、100人以上の人が集まりました。50枚ほどの聴券が抽選で配られました。
黄有良さんは黎族で、漢語を話しません。法廷では、黄有良さんの話す黎語を、海南島から同行してくれた胡月玲さんが漢語に通訳し、それを徳永淳子さんが日本語に通訳しました。
胡月玲さんは、「一位“慰安婦”的血和泪」を書いた人です。
黄有良さんは、低い声で、静かに、日本軍が何をやったのかを語りました。
◆ハイナンNET
2005年3月16日に林亜金さんと張応勇さんが東京地裁で証言する1か月ほど前、ハイナンNET(海南島戦時性暴力被害者への謝罪と賠償を求めるネットワーク)が組織されました。
黄有良さんが高裁で証言した2008年1月15日の夕刻、ハイナンNETは報告集会を開きました。
傍聴できなかった人もふくめ70人あまりが参加したこの集会に来てくれた黄有良さんは、
「日本政府はきちんと謝罪し、わたしたちの‘潔白’を証明すべきだ。
こんなに多くの人がわたしたちを支援しているのを知ってうれしい」、
と穏やかな表情で語りました。
◆原告林亜金さんと証人張応勇さん
2005年3月15日の「海南島戦時性暴力被害訴訟」の東京地方裁判所での第9回裁判で原告林亜金さんと証人の張応勇さんが証言しました。
証言の前々日、弁護団と支援者が集まった席で、マスメディアに写真取材を認めていいかどうかなどが議論になったとき、林亜金さんは、「ウェイダー」と言いました。「ウェイダー」は、「恐れることはなにもない」という意味の黎語です。
林亜金さんと張応勇さんが、東京地方裁判所で証言した2日後、2005年3月18日に、東京高等裁判所で、中国人「慰安婦」裁判第2次訴訟の控訴審判決が出されました。この判決を、林亜金さんと張応勇さんは傍聴しました。郭喜翠さんと侯巧蓮さんは、1996年2月に、被害事実の認定と、日本政府の公式謝罪と賠償を求めて提訴していました。控訴審判決は、原告が1949年から中華人民共和国政府のもとに生活しているにもかかわらず、1952年に蒋介石政権との間に締結された「日華平和条約」にもとづいて、原告の損害賠償請求権の放棄を認定する不当判決でした。
侯巧蓮さんは、1999年5月に亡くなられました。
東京地方裁判所で証言してから9か月後の2005年12月28日朝5時に、張応勇さんが亡くなられました。
◆陳金玉さん
2004年9月に、原告の黄玉鳳さんが亡くなられました。
2007年5月に、東京高等裁判所第21民事部(渡邊等裁判長)で二審の「海南島戦時性暴力被害訴訟」口頭弁論が開始されました。このときの「事件名」は、「日本軍によって「慰安婦」とされた中国海南島の被害者が日本政府に対して謝罪と名誉回復並びに損害賠償を求めた控訴請求事件(海南島戦時性暴力被害賠償請求事件)」でした。
2007年9月に第2回口頭弁論、2007年10月に第3回口頭弁論、2008年9月に第6回口頭弁論が開かれました。
2008年12月に第7回口頭弁論が開かれ。原告の陳金玉さんが証言しました。
陳金玉さんの証言を傍聴しようとして、朝9時半までに、裁判所前に、100人以上の人が集まりました。しかし、証言がおこなわれる東京高等裁判所424号法廷の傍聴席には42人しか入ることができず、抽選からはずれた人たちは傍聴できませんでした。
弁護団は、あらかじめ東京高等裁判所第21民事部渡辺等裁判長に大きな法廷を使うことを要請していましたが、裁判長は許可しませんでした。
陳金玉さんは黎族で、漢語を話しません。法廷では、陳金玉さんの話す黎語を、海南島から同行した陳厚志さんが漢語に通訳し、それを徳永淳子さんが日本語に重訳しました。
陳金玉さんは、静かに、日本兵から加えられて危害について語り、そのときこころとからだに受けた、いまも癒されることのない傷について話しました。
証言をはじめてからまもなく、陳金玉さんは、涙声になり、話しができなくなり、10分ほど休廷しました。
証言のおわりに、陳金玉さんは、被告席に座っている3人の日本国の代理人の方を向いて、日本政府に歴史を直視し事実を認め謝罪し賠償することを求めました。
その3年10か月足らずのちの2012年9月22日に陳金玉さんは亡くなられました。
◆二審判決、そしてその後
2009年3月26日に、東京高等裁判所第21民事部は控訴人らの請求を棄却するという判決をだしました。同日、直ちに、海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団が連名で、つぎのような声明をだしました。その要旨はつぎのとおりです。
本件は,中国海南島において,旧日本軍(主として海軍)が中国人の少女を強制的に拉致・監禁し,継続的かつ組織的に戦時性奴隷とし
た事案である。
本判決は,「本件被害女性らは,本件加害行為を受けた当時,14歳から19歳までの女性であったのであり,このような本件被害女性らに対し
軍の力により威圧しあるいは脅迫して自己の性欲を満足させるために陵辱の限りを尽くした軍人らの本件加害行為は,極めて卑劣な行為で
あって,厳しい非難を受けるべきである。このような本件加害行為により本件被害女性らが受けた被害は誠に深刻であって,これが既に癒さ
れたとか,償われたとかいうことができないことは本件の経緯から明らかである」(判決書28頁)と認定している。
本件被害の質的側面においてもPTSDはもとより「破局的体験後の持続的人格変化」も認定している(判決書30頁)。
以上の事実認定を踏まえ,国家無答責の法理を排斥したうえ民法715条1項を適用し控訴人らの損害賠償請求権を認めた。
アメリカ連邦下院における対日謝罪要求決議の外,カナダ,オランダ,EU議会,国連人権理事会,国連自由権規約委員会,ILO条約勧告適
用専門家委員会等々で解決を求める決議がなされている。このように国際社会は,被害を受けた女性の尊厳と人権の回復のための真の措置
をとるよう日本政府に強く迫っている。
国内においても宝塚市,清瀬市,札幌市に続いて福岡市議会において3月25日解決を求める決議が賛成多数で可決された。
このように解決を迫る世論は国内外を問わず高まっている。
日本政府は,本判決で厳しく認定された加害の事実と深刻な被害の事実を真摯に受け止め,被害者一人一人が納得するように謝罪をし,そ
の謝罪の証として適切な措置をとるべきである。
2010年3月2日 最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)、「海南島戦時性暴力被害賠償請求事件」上告を棄却し上告受理申立を不受理とする決定。海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声明。
2010年9月8日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告譚亜洞さんが亡くなられました。
2012年9月22日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳金玉さんが亡くなられました。
2013年10月17日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告林亜金さんが亡くなられました。
2014年6月19日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告鄧玉民さんが亡くなられました。
2017年5月11日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳亜扁さんが亡くなられました。
2017年8月12日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」最期の原告黄有良さんが亡くなられました。
◆張応勇さん
1993年に張応勇さんは、海南島の保亭黎族苗族自治県の県道工事で働いていた朴来顺さんに出会いました。
朴来順さん(1912年生)は、朝鮮人で、1941年に日本軍にだまされて中国につれてこられて「慰安妇」にされ、1942年に海南島に連行されていました。1945年8月に日本が投降したあと保亭に留まり、1994年に病死しました。
1994年5月に張応勇さんは、南林郷羅葵村委会什号村に住む林亚金さんを始めて訪ねました。このころから張応勇さんは、保亭黎族苗族自治県とその周辺地域で日本軍の性奴隷とされていた人からの聞き取りと記録を熱心に始めました。
保亭黎族苗族自治県の保亭の自宅を突然訪問し、保亭文史資料工作委員会主任であった張応勇さん(1940年生)にはじめて会ったのは、2002年3月でした。
2002年10月に、金靜美さんとわたしは、朴来順さん(1912年生)について、くわしく話しを聞かせてもらいました。
張応勇さんは、
「日本の罪悪史を調査していて、朴来順さんのことを知った。
国籍も中国に変えないでいるのに、なぜ故郷に帰らないのか、知りたいと思った。
最初は、なにも話してくれなかった。なんども訪ねて、世間話だけして、帰ってきた。
病気になって、“わたしはもう死にゆく身だから、みんな話してあげよう”といって、ようやく、1994年秋ころからすこしづつ話しを聞か
せてもらうこができた。
故郷に帰りたかったら、領事館を通じて話をしてあげようと言ったが、“ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬ”といった」
と話しました。
朴来順さんが保亭の病院で亡くなったのは、韓国と中国が国交を樹立してから3年後の1995年でした。
2003年7月に、わたしたちは、張応勇さんに、朴来順さんが死ぬときまで住んでいたところ(保亭亭県公路局宿舎)に案内してもらいました。
◆朴来順さんの墓
2000年3月に、金靜美さんとわたしは、保亭に行き、朴来順さんの墓を訪ねました。
保亭県公路局が建てた墓誌には、「生於一九一二年卒於一九九五年」、「祖妣韓国僑工来順朴氏墓」と刻まれていました。朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海南島北部の海口につれてこられ、海口の「慰安所」にいれられ、1943年1月に、海南島南部の三亜紅沙の「慰安所」に移されました。日本敗戦後も故郷に戻らず、保亭県の公路局で働き、1995年に亡くなり、保亭郊外に埋葬されました。
2004年2月に、わたしたちは、朴来順さんの故郷、慶尚南道咸安を訪問しました。朴来順さんの家のあった場所は空き地になっていました。
◆海南島に連行され「慰安婦」とされた朝鮮人女性と台湾人女性
朴來順口述・張應勇整理「我被騙逼當日軍“慰安婦”的經歴」〈『鐵蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行實錄――』下,海南省政治協商會議文史資料委員會編,1995年〉、牛泊「北黎日軍“慰安所”簡況」〈政協東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』8、1993年3月〉、戴沢運「日軍的慰安所」〈政協昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6、1997年1月〉、戴沢運「日寇鉄蹄残踏昌感見聞」〈政協東方市文史委員会編『東方文史』10、1999年12月〉などの記述を総合すれば、海口、三亜、北黎、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人である。調査をすすめれば、この数はさらに増えるかもしれない。
1945年に「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原留次によれば、飛行場近くにあった「つばき荘」という名の「慰安所」には、朝鮮人女性15人が「収容」されていたといいます(楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年)。
2003年春に、わたしたちは、慶尚南道生まれの朴来順さんが2年7か月間入れられていた紅沙の「慰安所」跡を訪ねました。
子どものころからその近くに住んでいた蘇殷貞さん(1931年生)は、
「建物は三つあった。一般兵士は土日、将校は金曜日に来た。一般人はそこに入ることもできなかった。朝鮮人の女性は、白い服を着て
いた。長いスカートだった。(チマ・チョゴリの絵を書いて見てもらうと)。これだ。こんな服を着ていた。朝鮮人の女性たちは髪が長かった。日本人は髪が短い。“アリラン”は聞いたことがある」
と、話しました。幼いときに蘇洪槙さんは、朴来順さんを見かけたことがあったかもしれません。
朴来順さんは、故郷にもどることなく、1995年に海南島で病死しました。おなじ「慰安所」に入れられていた台湾の盧満妹さん(1926年生)は、謝罪と賠償を求めて、日本国を被告とする裁判闘争を1999年にはじめました。
2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷で盧満妹さんは、
「看護婦にならないかと騙されて、高尾から軍艦で海南島に連れていかれ、紅沙の「慰安所」に入れられた。そこには30人あまりの女性
が入れられており、30人が台湾人で、朝鮮人女性や日本人女性もいた」
と証言しました。
盧満妹さんは2011年8月に亡くなられました。
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以上の海南島戦時性暴力被害訴訟にかんする報告の前半は、海南島近現代史研究会『会報』創刊号(2008年2月10日発行)に掲載したもので、後半(「原告林亜金さんと証人張応勇さん」以後)は、2022年10月に書いたものです。 佐藤正人
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