『中日新聞』(朝刊、三重版)は、『戦跡は語る 65年後の記憶』と題する連載記事を、ことし8月13日から20日まで8回連載しました。
その連載記事それぞれの見出しはつぎのとおりです。
①阿漕(あこぎ)の憲兵分遣隊の塀「空襲の“生き証人”保存 厚さ5㌢の塀に穴」、②いなべ、四日市の奉安殿「通るたびに児童最敬礼 教育勅語など安置」、③第七航空通信連隊基地跡「戦後に家族40世帯入植 兵舎に住み畑耕す」、④三重海軍航空隊の正門「戦時中は特攻隊も募集 元隊員 今も語り継ぐ」、⑤海防艦“駒橋”戦没者慰霊碑「山奥での火葬 石仏弔う 米軍攻撃避け運搬」、⑥鳥羽・神島監的哨「試験砲弾の飛距離観測 住民かり出し建設」、⑦名張のB29墜落現場「追悼碑を建立 米兵供養 寺に部品 今も保管」、⑧熊野・紀州鉱山「朝鮮人ら強制労働従事 石に名 追悼碑建立」。
以下は、8月20日に掲載された記事です。
1998年2月に発行された三重県歴史教育者協議会編『三重の戦争遺跡』(つむぎ出版)には、「紀州鉱山に残る戦争遺跡」として「英兵捕虜墓地」が挙げられ、「1944年6月に紀州鉱山に連行された300人のイギリス兵のうち、敗戦までに死亡した16人の墓地が、当時の収容所付近に作られています」と書かれています。
2002年6月に発行された十菱駿武・菊地実編『しらべる戦争遺跡の事典』(柏書房)には、「指定文化財・登録文化財となった戦争遺跡」のうち市指定のものは20件、町指定のものは18件であると書かれており、町指定のものとして、「三重県紀和町外人墓地(紀州鉱山労働英国人捕虜墓地)」や「沖縄県南風原町南風原陸軍病院壕」が挙げられています。
同書で菊地実氏は、「戦争遺跡とは、近代以降の日本の国内、対外(侵略)戦争とその遂行過程で形成された遺跡である」と述べていますが、「戦争遺跡」概念は、いまだ明確に規定されていません。
紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑は、「戦争遺跡」でも「遺跡」でも「遺物」でもありません。
佐藤正人
■熊野・紀州鉱山
朝鮮人ら強制労働従事
石に名 追悼碑建立
朝鮮人三十五人の名前を記した石が、並んでいた。紀州鉱山で死亡した朝鮮人の追悼碑の前。漢字三文字の名前が多いが、本当の名が分らず一部が空白の石もある。日本の植民地となった朝鮮半島から、戦時中に強制連行された朝鮮人が働いていた熊野市紀和町の同鉱山。一九四五年八月十五日の「解放」前に事故や病気で命を落とした人もいた。その追悼碑が建てられたのは、ことし三月のことだ。
「この地で命をなくした人の名前を残したい。侵略の歴史を、これからの子どもたちが知っていけばいいと思う」。 碑建立の中心となった市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」のキム・チョンミさん=和歌山県海南市=が語る。
会の調査によると、鉱山に連れてこられた朝鮮人は千三百人以上。キムさんらは鉱山を経営した石原産業(大阪市)が作成した名簿などを手掛かりに韓国で現地の戸籍簿をたどり、実際に鉱山で働いた十数人の生存者と会うことができた。
強制連行された人は鉱石の運搬など坑内での重労働をさせられたあ、ほぼ全員が「賃金を受け取れなかった」と証言。戦争末期、朝鮮半島で村ごとに割り当てられた労働者数を集めるため「寝込みを襲われ、無理やり連れて行かれた」と話す人もいた。
亡くなった少なくとも三十五人の名は、石原産業の文書や紀和町内の寺に残る物故者名簿などを照合して割り出した。日本式の名前で書かれた人もいて、うち十人は完全な本名が分らないまま。死因など、未解明の点は多い。鉱山の歴史を解説する熊野市営の「鉱山資料館」では、朝鮮人労働者にかかわる展示はない。戦時中、同じように強制労働に従事した三百人のイギリス人捕虜に関する展示が充実しているのと対照的だが、市教委は「資料を持ち合わせていない」と話す。
資料館近くの山の斜面には、掘り出した鉱石を選別した「選鉱場」のコンクリートの廃墟が今も残る。西に一㌔余り離れた坑道口に立つと、鉄柵の向こうの暗闇から冷たい風が噴き出し、坑道の奥行きを感じさせた。 (木下大資)
◆紀州鉱山◆ 古くは奈良・東大寺の大仏の建立時に銅などを供給したとされる銅鉱山。石原産業が1934年に買収し、大規模に再開発を進めた。熊野市紀和鉱山資料館によると39年に選鉱場が建設、3年後に増強され、鉱石の処理能力は1日2000㌧に達した。戦後は外国産の安い鉱石に押され、1978年に閉山した。
その連載記事それぞれの見出しはつぎのとおりです。
①阿漕(あこぎ)の憲兵分遣隊の塀「空襲の“生き証人”保存 厚さ5㌢の塀に穴」、②いなべ、四日市の奉安殿「通るたびに児童最敬礼 教育勅語など安置」、③第七航空通信連隊基地跡「戦後に家族40世帯入植 兵舎に住み畑耕す」、④三重海軍航空隊の正門「戦時中は特攻隊も募集 元隊員 今も語り継ぐ」、⑤海防艦“駒橋”戦没者慰霊碑「山奥での火葬 石仏弔う 米軍攻撃避け運搬」、⑥鳥羽・神島監的哨「試験砲弾の飛距離観測 住民かり出し建設」、⑦名張のB29墜落現場「追悼碑を建立 米兵供養 寺に部品 今も保管」、⑧熊野・紀州鉱山「朝鮮人ら強制労働従事 石に名 追悼碑建立」。
以下は、8月20日に掲載された記事です。
1998年2月に発行された三重県歴史教育者協議会編『三重の戦争遺跡』(つむぎ出版)には、「紀州鉱山に残る戦争遺跡」として「英兵捕虜墓地」が挙げられ、「1944年6月に紀州鉱山に連行された300人のイギリス兵のうち、敗戦までに死亡した16人の墓地が、当時の収容所付近に作られています」と書かれています。
2002年6月に発行された十菱駿武・菊地実編『しらべる戦争遺跡の事典』(柏書房)には、「指定文化財・登録文化財となった戦争遺跡」のうち市指定のものは20件、町指定のものは18件であると書かれており、町指定のものとして、「三重県紀和町外人墓地(紀州鉱山労働英国人捕虜墓地)」や「沖縄県南風原町南風原陸軍病院壕」が挙げられています。
同書で菊地実氏は、「戦争遺跡とは、近代以降の日本の国内、対外(侵略)戦争とその遂行過程で形成された遺跡である」と述べていますが、「戦争遺跡」概念は、いまだ明確に規定されていません。
紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑は、「戦争遺跡」でも「遺跡」でも「遺物」でもありません。
佐藤正人
■熊野・紀州鉱山
朝鮮人ら強制労働従事
石に名 追悼碑建立
朝鮮人三十五人の名前を記した石が、並んでいた。紀州鉱山で死亡した朝鮮人の追悼碑の前。漢字三文字の名前が多いが、本当の名が分らず一部が空白の石もある。日本の植民地となった朝鮮半島から、戦時中に強制連行された朝鮮人が働いていた熊野市紀和町の同鉱山。一九四五年八月十五日の「解放」前に事故や病気で命を落とした人もいた。その追悼碑が建てられたのは、ことし三月のことだ。
「この地で命をなくした人の名前を残したい。侵略の歴史を、これからの子どもたちが知っていけばいいと思う」。 碑建立の中心となった市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」のキム・チョンミさん=和歌山県海南市=が語る。
会の調査によると、鉱山に連れてこられた朝鮮人は千三百人以上。キムさんらは鉱山を経営した石原産業(大阪市)が作成した名簿などを手掛かりに韓国で現地の戸籍簿をたどり、実際に鉱山で働いた十数人の生存者と会うことができた。
強制連行された人は鉱石の運搬など坑内での重労働をさせられたあ、ほぼ全員が「賃金を受け取れなかった」と証言。戦争末期、朝鮮半島で村ごとに割り当てられた労働者数を集めるため「寝込みを襲われ、無理やり連れて行かれた」と話す人もいた。
亡くなった少なくとも三十五人の名は、石原産業の文書や紀和町内の寺に残る物故者名簿などを照合して割り出した。日本式の名前で書かれた人もいて、うち十人は完全な本名が分らないまま。死因など、未解明の点は多い。鉱山の歴史を解説する熊野市営の「鉱山資料館」では、朝鮮人労働者にかかわる展示はない。戦時中、同じように強制労働に従事した三百人のイギリス人捕虜に関する展示が充実しているのと対照的だが、市教委は「資料を持ち合わせていない」と話す。
資料館近くの山の斜面には、掘り出した鉱石を選別した「選鉱場」のコンクリートの廃墟が今も残る。西に一㌔余り離れた坑道口に立つと、鉄柵の向こうの暗闇から冷たい風が噴き出し、坑道の奥行きを感じさせた。 (木下大資)
◆紀州鉱山◆ 古くは奈良・東大寺の大仏の建立時に銅などを供給したとされる銅鉱山。石原産業が1934年に買収し、大規模に再開発を進めた。熊野市紀和鉱山資料館によると39年に選鉱場が建設、3年後に増強され、鉱石の処理能力は1日2000㌧に達した。戦後は外国産の安い鉱石に押され、1978年に閉山した。
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