5月下旬から6月にかけて、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては18回目、海南島近現代史研究会としては5回目の海南島「現地調査」をおこないました。
■定安県雷鳴鎮梅種村で
5月23日に、符如来さんと海南島近現代史研究会の邢越さんに案内されて、海口市の南の梅種村に行きました。村の入り口に、許如梅さん(1918年~1943年)の墓があります。その墓には、頭の骨はありません。1943年10月に、許如梅さんは日本軍に殺され、首を切られたといいます。
符如来さんは、許如梅さんの娘さんですが、1941年に、生まれてから1か月ときに、母の許如梅さんは、符如来さんを、澄邁県花場の知人に託して、抗日武装組織の隊列に戻ったそうです。許如梅さんを殺害したのは、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に所属する日本兵でした。
この日、梅種村で、王広瑞さん(80歳)と王開権さん(88歳)から、当時のことを聞かせてもらうことができました。日本兵は、許如梅さんを殺害するところを、村人に見ることを強制したそうです。
話を聞き終わったあと、王広瑞さんと王開権さんに、許如梅さんが隠れた場所と殺害され首を切られた場所に案内してもらいました。符如来さんは、ここに来たのは初めてだ、と言いました。
■澄邁県大豊鎮美桃村で
5月25日に、邢越さん、青龍剣さん、成有子さんと4人で美桃村に行きました。青龍剣さんと成有子さんは、海南民間抗戦研究会準備会の会員です。美桃村では李世勝さんが案内してくれました。
村から2キロほど離れた崖下に、洞窟が10個ありました。大きなものは、高さ1メートルほどで、内部の広さは15平方メートルほどでした。
これとは別に、近くの崖に2個の洞窟、さらにその近くの別の崖に4個の洞窟が残っていました。あたりは、丘陵地帯で、当時は密林だったとのことです。美桃村に戻って、李世勝さんに案内されて、李守芳さん(100歳)を訪ねました。李守芳さんは、
「日本兵はしばしば村に来て、豚や鶏などを奪い、村人に乱暴した。わたしたち
は、山に逃げた。1940年ころから、山のなかに洞窟を掘ってそこで暮らすように
なった。洞窟は、尖った鉄の棒などを使って手で掘った。岩は硬く、兄の李守蕃
と二人で掘ってひと月あまりかかった。何十個もの洞窟があった。近くにきれい
な水が流れている川があったので水には困らなかった。山の中で芋などを掘っ
て食べたが、ときどきは村に戻って食料を運んだ」
と話しました。
美桃村には、3階建ての旧日本軍の望楼が残っており、それぞれの階の4方に銃口が作られていました。
■昌江黎族自治県海尾村で
5月27日に、邢越さんと瀋志成さんと3人で、海尾村に行きました。
海尾村で生まれ育った桂永昌さん(82歳)は、
「日本軍は、望楼と兵舎をつくった。わたしは、日本兵の兵舎で食事を作らされ
ていた。望楼には機関銃が大きいのと小さいのと、2台あった。海尾の日本兵で
はない日本兵が、村を襲ったことが何度もある。村人が2人、十字架のような木
に縛りつけられているのを見たことがある。その一人は、麦元堂だった。日本兵
は、2人を市場の入り口の道路に寝かせ、通る村人にむりやり足で踏ませた。村
人が2人を強く踏むことはなかった。日本兵は、最後に馬で2人を踏み潰して殺
した」
と話し、羊允国さん(83歳)は、「わたしの父は漁師だった。10歳になったころから、父といっしょに船にのった。日本軍の飛行機が漁船に爆弾を落としたことがある。日本軍のつくった学校で‘キミガヨ’を歌わされた」と話しました。
■昌江黎族自治県十月田鎮保平村で
5月27日午後、保平村に行きました。保平村は、石碌鉱山と日本海軍横須賀鎮守府第4陸戦隊司令本部のある北黎を結ぶ日本侵略期の幹線道路の中間に位置していおり、かつて82人の日本兵が常駐していました。
保平村委員会の建物の前で、王雲臣さん(81歳)は、
「日本軍の望楼と宿所がこの近くにあった。日本軍は学校もつくった。わたしも
通った。日本軍は、保平にたくさん人をつれてきて道路や橋を作らせていた。香
港などから連れてこられた人が多かった。マラリヤなどでたくさん死んだ。日本
軍は病気が広がるのを怖がって、病人をまだ生きているのに焼いた。日本兵
は、外地人に病気の外地人を火の中に入れさせた。仲間にそのようなことをし
ないという人は、その人も火の中に入れられた」
と話しました。邢康さん(60歳代)は、
「わたしが幼いころ、父がいなくなった。父は戻らなかった。わたしは、父の顔を
はっきり覚えていない。父といっしょに石碌の鉄鉱山に連れて行かれて戻った人
から、父は火葬されて埋められと聞いた。父が埋められている場所はわからな
い」
と話しました。
横須賀鎮守府第4特別陸戦隊保平分遣隊の望楼と宿所は、日本敗戦後まもなく国民党軍が破壊したそうです。
■海口市雲龍鎮玉仙村、海口市内南渡河望楼跡、海口市長流鎮傳桂村で
5月29日に、玉仙村、南渡河望楼跡に行きそこに住んでいる人から話しを聞かせてもらった後、傳桂村を訪ねました。傳桂村で、呉金用さん(77歳)は、「日本人は、ここで栽培をやっていた」と証言しました。このブログのカテゴリーに掲載した「海南島でのアヘン生産」を参照してください。
■広東省珠海市の三灶島(三竈島)で
5月30日と31日に三灶島(三竈島)に行きました。三灶島には万人墳と千人墳があります。万人墳には、大理石でつくられた高さ10メートルほどの「三灶島三・一三死難同胞紀念碑が建てられていました。碑文に、日本軍は、占領期に、「同胞二千八百九十一人」を殺害したと刻まれていました。
証言を聞かせてもらい、記録しているとき、これまでより、話をしてくれている人の人生や、語られる犠牲者の人生を、自分の人生と重ね合わせることが多くなりました。
佐藤正人
■定安県雷鳴鎮梅種村で
5月23日に、符如来さんと海南島近現代史研究会の邢越さんに案内されて、海口市の南の梅種村に行きました。村の入り口に、許如梅さん(1918年~1943年)の墓があります。その墓には、頭の骨はありません。1943年10月に、許如梅さんは日本軍に殺され、首を切られたといいます。
符如来さんは、許如梅さんの娘さんですが、1941年に、生まれてから1か月ときに、母の許如梅さんは、符如来さんを、澄邁県花場の知人に託して、抗日武装組織の隊列に戻ったそうです。許如梅さんを殺害したのは、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に所属する日本兵でした。
この日、梅種村で、王広瑞さん(80歳)と王開権さん(88歳)から、当時のことを聞かせてもらうことができました。日本兵は、許如梅さんを殺害するところを、村人に見ることを強制したそうです。
話を聞き終わったあと、王広瑞さんと王開権さんに、許如梅さんが隠れた場所と殺害され首を切られた場所に案内してもらいました。符如来さんは、ここに来たのは初めてだ、と言いました。
■澄邁県大豊鎮美桃村で
5月25日に、邢越さん、青龍剣さん、成有子さんと4人で美桃村に行きました。青龍剣さんと成有子さんは、海南民間抗戦研究会準備会の会員です。美桃村では李世勝さんが案内してくれました。
村から2キロほど離れた崖下に、洞窟が10個ありました。大きなものは、高さ1メートルほどで、内部の広さは15平方メートルほどでした。
これとは別に、近くの崖に2個の洞窟、さらにその近くの別の崖に4個の洞窟が残っていました。あたりは、丘陵地帯で、当時は密林だったとのことです。美桃村に戻って、李世勝さんに案内されて、李守芳さん(100歳)を訪ねました。李守芳さんは、
「日本兵はしばしば村に来て、豚や鶏などを奪い、村人に乱暴した。わたしたち
は、山に逃げた。1940年ころから、山のなかに洞窟を掘ってそこで暮らすように
なった。洞窟は、尖った鉄の棒などを使って手で掘った。岩は硬く、兄の李守蕃
と二人で掘ってひと月あまりかかった。何十個もの洞窟があった。近くにきれい
な水が流れている川があったので水には困らなかった。山の中で芋などを掘っ
て食べたが、ときどきは村に戻って食料を運んだ」
と話しました。
美桃村には、3階建ての旧日本軍の望楼が残っており、それぞれの階の4方に銃口が作られていました。
■昌江黎族自治県海尾村で
5月27日に、邢越さんと瀋志成さんと3人で、海尾村に行きました。
海尾村で生まれ育った桂永昌さん(82歳)は、
「日本軍は、望楼と兵舎をつくった。わたしは、日本兵の兵舎で食事を作らされ
ていた。望楼には機関銃が大きいのと小さいのと、2台あった。海尾の日本兵で
はない日本兵が、村を襲ったことが何度もある。村人が2人、十字架のような木
に縛りつけられているのを見たことがある。その一人は、麦元堂だった。日本兵
は、2人を市場の入り口の道路に寝かせ、通る村人にむりやり足で踏ませた。村
人が2人を強く踏むことはなかった。日本兵は、最後に馬で2人を踏み潰して殺
した」
と話し、羊允国さん(83歳)は、「わたしの父は漁師だった。10歳になったころから、父といっしょに船にのった。日本軍の飛行機が漁船に爆弾を落としたことがある。日本軍のつくった学校で‘キミガヨ’を歌わされた」と話しました。
■昌江黎族自治県十月田鎮保平村で
5月27日午後、保平村に行きました。保平村は、石碌鉱山と日本海軍横須賀鎮守府第4陸戦隊司令本部のある北黎を結ぶ日本侵略期の幹線道路の中間に位置していおり、かつて82人の日本兵が常駐していました。
保平村委員会の建物の前で、王雲臣さん(81歳)は、
「日本軍の望楼と宿所がこの近くにあった。日本軍は学校もつくった。わたしも
通った。日本軍は、保平にたくさん人をつれてきて道路や橋を作らせていた。香
港などから連れてこられた人が多かった。マラリヤなどでたくさん死んだ。日本
軍は病気が広がるのを怖がって、病人をまだ生きているのに焼いた。日本兵
は、外地人に病気の外地人を火の中に入れさせた。仲間にそのようなことをし
ないという人は、その人も火の中に入れられた」
と話しました。邢康さん(60歳代)は、
「わたしが幼いころ、父がいなくなった。父は戻らなかった。わたしは、父の顔を
はっきり覚えていない。父といっしょに石碌の鉄鉱山に連れて行かれて戻った人
から、父は火葬されて埋められと聞いた。父が埋められている場所はわからな
い」
と話しました。
横須賀鎮守府第4特別陸戦隊保平分遣隊の望楼と宿所は、日本敗戦後まもなく国民党軍が破壊したそうです。
■海口市雲龍鎮玉仙村、海口市内南渡河望楼跡、海口市長流鎮傳桂村で
5月29日に、玉仙村、南渡河望楼跡に行きそこに住んでいる人から話しを聞かせてもらった後、傳桂村を訪ねました。傳桂村で、呉金用さん(77歳)は、「日本人は、ここで栽培をやっていた」と証言しました。このブログのカテゴリーに掲載した「海南島でのアヘン生産」を参照してください。
■広東省珠海市の三灶島(三竈島)で
5月30日と31日に三灶島(三竈島)に行きました。三灶島には万人墳と千人墳があります。万人墳には、大理石でつくられた高さ10メートルほどの「三灶島三・一三死難同胞紀念碑が建てられていました。碑文に、日本軍は、占領期に、「同胞二千八百九十一人」を殺害したと刻まれていました。
証言を聞かせてもらい、記録しているとき、これまでより、話をしてくれている人の人生や、語られる犠牲者の人生を、自分の人生と重ね合わせることが多くなりました。
佐藤正人
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