三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島での証言を聴いて  問う側から問われる側へ

2019年02月11日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、おととい( 2019年2月9日)開催した海南島近現代史研究会第23回定例研究会(主題:証言、史料(文書・映像、音声、遺物、遺跡)での斉藤日出治の報告(海南島での証言を聴いて  問う側から問われる側へ)の要旨です。
 次回の海南島近現代史研究会第24回定例研究会・第13回総会は、今年8月24日に開催します。


■海南島での証言を聴いて  問う側から問われる側へ■
                               
1 <歴史研究>と<歴史実践>
 わたしたちは20年にわたって、海南島における日本の侵略犯罪についての証言を聴く活動を続けてきました。この活動は、日本の侵略犯罪に関する文書記録や証拠資料が意図的・組織的に隠されてしまっている状況のなかで、とりわけ重要な意義をもっています。証言者の証言を聴くことが、日本の侵略犯罪を示す最重要な証拠資料となっているからです。
 そのことの重要性を踏まえた上で、わたしたちがこの聞き取り作業を通して何を学ぶのかについて、あらためて考えてみたいと思います。
 歴史研究者が文書資料に依拠するのではなく、生身の人間の口述を聞き取り、その口述を手がかりとする研究の手法は「オーラル・ヒストリー(口述歴史)」と呼ばれます。この研究手法は1990年代以降注目されるようになりました。歴史研究では、文書資料の研究と口述歴史の研究が対比され、文書資料が存在しないか不十分なときにそれを補う意味で直接当事者から聞き取りをおこなう口述歴史の手法の意義が語られます。ただし、口述歴史は、話者の主観を交えるので、文書資料に比べて客観性に乏しいとも言われています。
 それでは、わたしたちが海南島で現地のかたがたから証言を聴く、という作業は、歴史研究者が「オーラル・ヒストリー」と呼んでいるものと同じ類いのものなのでしょうか。わたしたちの聞き取りの営みは、文書資料の研究も口述歴史の研究もふくめて、およそ歴史研究者がおこなう歴史研究とは異なる意味をもつものだということを考えてみたいと思います。
 わたしたちのこの営みを<歴史研究>と区別して<歴史実践>と呼びたいと思います。では、この両者はどのようにちがうのでしょうか。際だった違いは二つあります。
 一つは、<歴史研究>が、現在と切り離された過去の事実を記録することを主たる仕事とするのに対して、わたしたちの<歴史実践>は、現在の日々の営みであり、みずからの日常性を問い直し日常性に問いかける実践だ、ということです。<歴史研究>では、過去の事実の客観性は、現在から切り離される、ということによって保証されます。現在とは無関係に、過去の事実をそれ自体価値判断ぬきに考察するというのが実証主義的歴史研究の姿勢です。
 これに対して、わたしたちの<歴史実践>は、現在のわたしたちの日常性が過去の事実と向き合う、その向きあいかたによってつくりあげられていることを不断に問い続けます。ですから、歴史とは、過去のことではなく、過去と向き合う現在のありかたのことにほかなりません。その意味で、わたしたちは日々現在において歴史の営みを実践しているのです。歴史とは「歴史する」という日々の実践として位置づけるべきものなのです。
 わたしたちの日常の営みは、そのことごとくが「歴史する」という実践によってなりたっています。家族や友人と思い出話しをする、映画をみる、法事や追悼集会を催す、同窓会を開く、博物館を見学する、各地に旅行する、といった日々の営みのすべてが「歴史する」という行為です。
 したがって、そこから導き出される第二のちがいは、<歴史研究>において研究する主体が歴史研究者であるのに対して、<歴史実践>においては、「歴史する」主体が、この世に生きるすべてのひとびとだ、ということです。ここでも、歴史研究者と日常を生きるひとびとの「歴史する」営みのちがいが現われます。<歴史研究>の主体である歴史研究者は、記録文書であろうと、証言者であろうと、そのいずれをも歴史研究の素材であり対象とみなします。<歴史研究>においては、研究の主体と対象が厳格に分離されることが求められ、この分離によって歴史の客観性が保証されるものとみなされます。研究者はガラス張りの向こうある資料やひとに対して主観的な感情を移入したり、あるいは向こう側のひとから問いかけられたりすることをせずに、その資料や人を外部から観察します。
 これに対して、<歴史実践>においては、このガラス張りを取り払って、研究の主体と対象の関係を解体することが求められます。聞き取りをする側と口述をする側は、その両者の関係のありかたがあらためて問い直されます。<歴史実践>の主体とは、歴史研究者のような社会的・歴史的文脈から切り離された抽象的主体ではなく、「歴史する」営みにおいてかかわる他者との関係のなかでたえず自己の存在が問い直されるものなのです。
 したがって、歴史の史実の客観性は、現在の日々の営みや歴史する主体から分離された過去の事実によって保証されるのではなく、現在の日々の営みのあり方を問い直し、「歴史する」主体のありかたを問い直すことによってこそ、たしかに保証されるものとなっていくのです。

2 アボリジニの歴史実践
 わたしが<歴史研究>とは区別された<歴史実践>の意義について気がついたのは、保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー-オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(岩波現代文庫、2018年)に出会ったことがきっかけでした。保苅は、オーストラリア北西部のグリンジ・カントリーというアボリジニの村を訪問し、長期に滞在して、村の長老から聞き取りをします。
 そのとき、保苅は「オーラル・ヒストリ-」の研究手法に対して、重大な疑義を抱くようになります。「オーラル・ヒストリー」は、研究者があらかじめ質問事項を用意して村のひとにインタビューをしてその話しを記録するわけですが、インタビューされるひとは、その場合たんなる情報提供者であって、歴史を研究するのは、そこで提供された情報を収集し整理する歴史研究者のほうです。
 これに対して、保苅はアボリジニの村に長期に滞在し現地のひとびとと暮らしをともにすることによって、アボリジニのひとびとがたんなる情報提供者ではなく、歴史する主体であることに気づきます。そこで、保苅は「一緒に生活していく中で彼らが具体的に行っている歴史実践を一緒に経験していく。コミュニティに暮らす人々と一緒になって『歴史する』」(5頁)ことをこころみます。
 ここで保苅は、歴史する主体と対象との仕切りを、そして現在と過去との仕切りを取り払っていることがわかります。「オーラル・ヒストリー」に付与された「ラディカル」の意味はそこにあります。
 保苅が村で出会ったジミーじいさんは、白人によるオーストラリアの植民地史についてつぎのような歴史実践をします。ジミーじいさんは地べたにすわり、全身の五感を使ってものを見、物音を聞き、ものを感じ取ろうとします。そうすると、大地の底からドリーミングという精霊の姿があらわれ、その声が聞こえてくる。ドリーミングは動植物や人間を、地形を、谷や川を創造し、社会の規範=法を創造した祖先神です。だから、全身の五感を使うことによって、この精霊による世界の創造という過去の出来事が現在にもたらされる。ジミーじいさんは五感を研ぎ澄ますことによって、この「世界創造の記憶を保持」(74頁)し、歴史をメンテナンスしている。アボリジニのひとびとにとって、歴史とは、自分の身体が五感を通して知覚するものであり、過去を現在に呼び起こす営みなのです。
 アボリジニのひとびとにとっては、身体が知覚し呼び起こす「大地の法」にしたがって生きるのが正しい道です。ところが、白人の植民地主義者は、この大地の法に背いてオーストラリア大陸を侵犯しました。そのために、大地の法を犯した白人は大地によって懲罰を与えられることになります。白人が死んだのは、「法を犯したあの白人に大地が懲罰を与えたからだ」(13頁)。1924年に起きた洪水は、グリンジの長老のひとりが、「大蛇に大雨で[白人の]ウェーブ昼牧場を流すように依頼した」(17頁)ためである。
 このようなジミーじいさんの歴史の語りは、オーストラリアの歴史を実証主義的に研究する歴史研究者にとっておよそ史実としては承認しがたいことです。しかし、保苅は、このアボリジニの語りこそ、貴重な<歴史実践>として承認すべきだ、と言います。グリンジ・カントリーのひとびとは、そのようにして過去と向き合い、歴史をメンテナンスして現在の世界を作り上げている。それは植民地主義という「過去の出来事が現在にもたらされる」(56頁)正当な手続きであり、「実証主義とは異なる、もうひとつの経験論」(45頁)にほかならない、と。アボリジニのひとびとは、そのようにして日々歴史を実践することによって世界を創造し歴史をつくりあげているのです。

3 海南島における侵略犯罪の証言と日本人の<歴史実践>
 わたしたちが日本人として、つまりかつての植民地主義者であり侵略者であった者に属する人間として、海南島を訪問し日本の海南島侵略の犠牲となった被害者のかたがたから当時の証言を聴く行為は、歴史研究者による<歴史研究>ではなく、ひとつの<歴史実践>でなければならない。わたしたちは海南島での証言を「オーラル・ヒストリー」のようにいしてたんに過去の事実に関する知識や情報として聞き取るのではなく、「過去の出来事が現在にもたらされる」正当な手続きとして受け止める必要があるのではないか。それは証言者の声を聴く主体が証言者との関係において自己を問い直されることを意味します。

 1) 「聴いてどうする」?
 わたしたちが海南島の村を訪問して、日本軍が侵入した時代の話しを聴きたいと切り出すと、逆に、「聴いてどうする」と問いかけられることがしばしばあります。そのとき、わたしたちは「ここで聴いたことを、その事実を知らない日本のとくに若いひとたちに伝えたいのです」と答えます。村のひとが訪問した日本人に発するこの問いは、たんにインタビューの理由を説明する、といった次元を超えた、聴く者と聞かれる者とのあいだにある深い溝に対する問いかけでもあることをわたしたちは強く感じます。
 日本軍は村人を無差別に殺害し、日本軍のための過酷な労働に駆り立て、村の食糧や家財道具を奪い取り、女性に性暴力を振るいました。そのために、村人は自分の村に住むことさえできずに山中や各地に流浪を余儀なくされ、日本軍がいなくなった後も貧しく孤独な苦難の人生を強いられました。日本人は、この苦難を強いられたかたがたの苦悩を聞き取るとき、あらためて自分が日本人であることの自覚と内省を迫られます。つまり、証言をしそれを聴くという行為は、証言を聴く側と証言を話す側との関係のなかに、殺した側と殺された側との関係を、奪った側と奪われた側との関係を、犯した側と犯された側との関係を見いだすことを意味します。聞き手の日本人は、その関係のなかで改めて自分が日本人であることの意味を問われます。日本人は、殺した側、奪った側、犯した側に立つものとしての自己の存在を否が応でも気づかされます。証言を聴くとき、日本人は証言者の話をたんなる知識や情報として聴くのではなく、みずからの身体になかに侵略という日本人の行為を刻みつける経験をしているのです。

 2) 「あなたはこのことを信ずるか」?
 1945年4月12日(農歴3月1日)、瓊海市九曲江郷長仙村など九村が佐世保第八特別陸戦隊に襲われ、多数の村民が殺されました。とくに中原の燕嶺坡では、600人もの村民が1箇所で惨殺されました。日本軍は「良民証」を「験証」すると言って村人を集め、服を脱がせて裸にして並ばせたうえ、数人単位で殺害現場につれて行って、ひとりひとりを銃剣で刺し殺しました。銃剣を使ったのは、銃で殺害すると、村人に知れてしまうからです。遺体は村人に掘らせた穴に埋められました。まだ生きていて、「助けてくれ」といううめき声が聞こえたそうです。その600人が埋められた場所には、「三・一被難公塚」が建立されていて、その前で毎年農歴3月1日に追悼集会が開催されています。
 当時、そこに住んでいてかろうじて生き延びた曹靖さんは、生き残った村人から証言を聴き、『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』(2000年、初版)という書物を刊行しました。その抄訳が『海南島近現代史研究』第2・3号で紹介されています。
 曹靖さんはわたしたちを村人が殺害された現場に案内してくださり、当時の様子を詳しく話した後、私に向かってじっとわたしの眼を見つめ、「あなたはこのことを信ずるか」と問いかけました。わたしはこの言葉を聴いたとたんに、「ああ、自分は殺した側にいる人間なのだ」という思いがからだを貫きました。この言葉はたんなる事実を確認するための問いではありません。殺された側が殺した側にその関係を問う言葉なのです。自分がたんに日本人であるというのではなく、海南島で虐殺を行った集団であり、その集団の虐殺という過去の事実とのかかわりが現在を生きるわたしに問いかけられている、このことを突きつけられる問いでした。殺した側と殺された側との関係のなかに置かれ、その関係から逃げられない自己の存在を深いところから問われたという思いです。

むすび 日本の侵略犯罪を否認する歴史実践
 今日の日本社会で支配しているのは、わたしたちの<歴史実践>とは正反対の、侵略犯罪の事実を否認しその事実と向き合うことを回避する<歴史実践>です。
 侵略犯罪の事実が意図的に隠されたことによってこの<歴史実践>が正当化され、そのために侵略犯罪の事実の究明が押しとどめられるという悪循環が戦後日本の社会を支えてきたといえます。海南島における「朝鮮村」の朝鮮人虐殺も、旦場村、長仙聯村、月塘村の村民虐殺も、戦時性暴力も、強制労働も、略奪も、そのいっさいの事実が日本の社会ではなかったことにされているのです。
 日本政府は、この事実をあきらかにする責任を負っているにもかかわらず、事実をなかったことにし、その責任を回避し、被害者に対する謝罪も、賠償も、拒んでいます。そして日本政府のこの対応が日本社会における国家犯罪の否認を強化しています。わたしたちはこのような欺瞞に満ちた世界を生きているのです。
 そのために、日本の民衆は、戦前の植民地主義の意識を保持したまま過去の侵略犯罪を継承する<歴史実践>をいまもなおくりかえしています。1939年2月から1945年8月のあいだに海南島に侵入した日本軍兵士は、当時の体験を回想するときに、海南島での行動を「討伐」とか「掃討」と表現し、いまもなおそのことに何の疑問も抱きません。「討伐」とは悪い者を懲らしめる行為であり、「掃討」とは残らず一掃するという行為です。海南島で村々を襲撃し、村人を殺害し、性暴力を振るい、食糧や家財を奪い、ひとびとを奴隷労働にかりたてる行動が、戦後70年以上が経過した現在においてもなお、「悪い者をこらしめる」行為として、「残らず一掃する」行為として記憶され、受け止められているのです。
 この日本人の<歴史実践>と日本政府の責任回避の対応は相互に依存し合っています。
 わたしたちは、過去の事実と向き合う正当な手続きとしての<歴史実践>を着実に積み重ねていくことが求められているのです。
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