三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島「朝鮮村」の朝鮮人虐殺現場での証言

2019年02月10日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、きのう( 2019年2月9日)開催した海南島近現代史研究会第23回定例研究会(主題:証言、史料(文書・映像、音声、遺物、遺跡)での金靜美の報告(海南島「朝鮮村」の朝鮮人虐殺現場での証言)の要旨です。
 次回の海南島近現代史研究会第24回定例研究会・第13回総会は、今年8月24日に開催します。


■海南島「朝鮮村」の朝鮮人虐殺現場での証言■
  日本政府は、「朝鮮村虐殺」にかんする事実を隠しつづけている

※南丁村→「朝鮮村」→南丁村
 海南島三亜市街地から直線で約10キロ東北の地点に南丁嶺がある。その南麓に南丁村がある。この村には、朝鮮の刑務所から連行されて働かされ、殺された朝鮮人が埋められている。  
 この村の名は、一時期、「朝鮮村」であった。
 「朝鮮村」における朝鮮人虐殺の事実は、当然であるが南丁村やその周辺の住民、虐殺を実行した日本人(日本海軍海南警備府第16警備隊の将兵、朝鮮総督府の法務官僚や刑務官ら)は知っていた。しかし、日本では隠されつづけている。

※「朝鮮村」での朝鮮人虐殺にふれた文章
 三亜に住む羊杰臣さんが1992年に、陳作平さんが1995年に、「朝鮮村」での虐殺にふれた文章を、海南島で発表した。
 1998年3月2日の『朝鮮日報』に、朴雅蘭記者の「中国ハイナン島で韓国人虐殺 1945年」掲載された。これが韓国で発表された「朝鮮村」虐殺にかんするはじめての文章である。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「朝鮮村虐殺」のことを、1998年春にはじめて、羊杰臣さんと陳作平さんの記述で知り、6月に海南島に行った。この年8月8日~9日に石川県金沢市で開催された第9回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会で、紀州鉱山の真実を明らかにする会が「日本の海南島侵略と強制連行・強制労働」と題する報告のなかで「朝鮮村」虐殺にかんして述べ、10月に同会が「海南島 1998年夏――田独万人坑・石碌万人坑・八所万人坑・朝鮮村――」を発表した。これが日本で発表された「朝鮮村虐殺」にかんするはじめての文章である。
 韓国KBS取材班が、同年7月に海南島で、8
月に日本で取材し、「朝鮮村」虐殺にかんするドキュメンタリー『海南島に埋められた朝鮮の魂』を制作し、8月31日に放映した。このドキュメンタリー制作に紀州鉱山の真実を明らかにする会が協力した。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、南丁村に「駐屯」していた日本軍部隊にかんする文書を、防衛研究所図書館で見つけたが、虐殺に直接的に触れている文書は、発見していない。
1943年11月に編成された第7次「朝鮮報国隊」の隊長として1944年1月に海南島に行き1946年3月に日本に戻った衣笠一氏は『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記』を1990年代末に発表し、2001年に書いた「わが足跡 上」の「陵水時代」の章などで、「朝鮮報国隊」や「台湾報国隊」について記述している。かれは、海南島に行く前は朝鮮総督府大田刑務所の看守長だった。
 かれ以外の日本軍関係者、日本政府関係者、朝鮮総督府関係者は、まったく沈黙しつづけたままである。当時海南警備府第16警備隊司令官であった能美実(1948年10月に「横浜アメリカ合州国軍裁判所」で終身刑宣告)は、1945年の三亜におけるアメリカ合州国軍兵士殺害以外は海南島での犯罪を語ることなく死んだ。
 日本政府・日本軍・日本企業の国家犯罪・侵略犯罪にかかわる証拠文書は多くは焼却・廃棄されたか隠されたままである。したがって、その歴史的事実を解明するためには、犠牲者、加害者、目撃者からの聞きとりが重要である。

※「朝鮮村」に埋められている人の名
  「朝鮮報国隊」は、1943年3月から1年ほどのあいだに、すくなくとも8回組織され、2000人以上の獄中者が、刑期を短縮するなどの条件を示され、朝鮮各地の監獄から、ソウルの刑務所に集められ、そこから、家族に連絡することも許されずに海南島に連行された。
 海南島では、三亜、陵水県三才鎭后石村、陵水県英州鎭大坡村、楽東県黄流鎮白極坡などで飛行場建設をさせられたり、田独鉱山や石碌鉱山で働かされたり、八所で港湾建設をさせられたり、三亜で道路建設をさせられたり、東方市感恩で橋梁建設をさせられた。
 そのときに、多くの人たちが、事故や病気で死亡した。死亡した人のうち、海南島で死亡したことが、故郷の家族に伝えられることもあった。採鉱や飛行場建設が中断されてから、そのうちの数百名(あるいは1000人、あるいはそれ以上)が、日本海軍が軍事施設を移転させようとしていた南丁村地域に連行され、道路工事、軍用洞窟開削などをさせられたのち、1945年夏に虐殺された。
  「朝鮮報国隊」とともに、台湾の刑務所から「台湾報国隊」として、台湾人獄中者が強制連行されていた。

※虐殺を目撃した「朝鮮村」の人たち
 死者は語らない、語れないのだから、目撃者の証言がなければ事実は隠されつづける。
 「朝鮮村」とその周辺の村に住む目撃証人;周学韓さん(1935年生)。林瑞章さん(1934年生)。符亜参さん(1918年生)。周亜細さん(1922年生)。符亜輪さん(1916年生)。蘇亜呑さん(1914年生)。林吉亜さん(1924年生)。芸亜文さん(洞窟など日本軍の施設跡がある新村に住む)。

※遺族の証言、帰国者の証言
 「朝鮮報国隊」に入れられたが帰国できた人の証言:朴萬重さん(1916年生。第1次「朝鮮報国隊」)。高福男さん(1917年生。第2次「朝鮮報国隊」)呂且鳳さん(1913年生。第7次「朝鮮報国隊」)。柳濟敬さん(1917年生)。

 韓琦錫さんは、1922年12月5日、京畿道楊平郡(現、楊平市)で生まれた。1943年ころ「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行され、1944年2月17日に海南島の陵水にあった「朝鮮報国隊」の宿所で死亡したと除籍簿に書かれている。
 金慶俊さん(1914年生)の戸籍簿には、漢字まじりの朝鮮語で、「西紀1943年11月1日午後11時30分、南支那海南島白沙県石碌朝鮮報国隊隊員兵舎で死亡。同年12月24日京城刑務所長朝鮮総督府典獄渡辺豊送付」と書かれている。
 2010年4月23日に韓光洙さん(韓琦錫さんの子息。1942年1月30日生)に、4月28日に李康姫さん(韓琦錫さんの妻。1922年10月22日生)に、ソウルで話を聞かせていただいた。
 その4か月後の8月22日の海南島近現代史研究会第4回総会・第6回定例研究会(主題:「朝鮮報国隊」の真相糾明)で、韓光洙さんに「アボヂは海南島から戻らなかった」と題する証言をしていただいた。
 その一年後、2011年8月28日の海南島近現代史研究会第5回総会・第8回研究会(主題:海南島における日本の侵略犯罪のいま)には、まもなく89歳になる李康姫さんに、韓光洙さんといっしょに韓国から出席していただいた。この日、李康姫さんは、「夫は海南島につれていかれた」という題で、韓光洙さんは「アボヂの跡を追いつづけて」という題で証言した。

※今後の課題
(一)事実と原因のさらなる究明
   なぜ、このようなことがおこったのか。
   なぜ、放置されつづけているのか。
(二)犠牲者の名を明らかにさせる。
   紀州鉱山の真実を明らかにする会は日本政府に「朝鮮報国隊」の名簿の公表を要求して
  いるが、日本政府は、いまなお、探索・公表しようとしていない。「朝鮮村」に埋められている
  人の名は、まだ、ひとりも明らかになっていない。
(三)「発掘」。「朝鮮村」の遺骸。死者の声。
   隠されつづけている「朝鮮報国隊」、「朝鮮村虐殺」にかかわる諸事実を明らかにするため
  には、聞きとりと「朝鮮村」で科学的で厳密な「発掘」をおこなうしかない。
(四)追悼。
(五)加害者の確定、責任追及。
(六)日本政府に事実を語らせ、謝罪させ、責任の所在を明確にさせ、責任者を処罰させ(死ん
  だからといって責任は免除されない)、賠償させる。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 証言の客観性を保証する聞き... | トップ | 海南島での証言を聴いて  ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

海南島近現代史研究会」カテゴリの最新記事