三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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アボヂの魂を自由にするたたかい 1

2010年06月29日 | 個人史・地域史・世界史
 太平洋戦争被害者補償推進協議会のイ ヒジャ(李煕子)さんが8月21日の遺族の証言を聞くつどい(戻らなかったアボヂ)と8月22日の海南島近現代史研究会第4回総会で話をしてくれます。
 以下に、海南島近現代史研究会『会報』第2号(2009年2月10日発行)に掲載されたイ ヒジャさんの「ヤスクニに閉じこめられているアボヂの魂を自由にするたたかい」(キ ムチョンミ訳)を5回にわけて連載します。

■■ヤスクニに閉じこめられているアボヂの魂を自由にするたたかい■■
        日帝強占期強制動員被害者活動             
        アボヂの痕跡を探し求める
        戦死者名簿確認
        合祀そして供託金
        これほど詳細だとは……
        「日帝強占下強制動員被害真相糾明等にかんする特別法」制定
        国会議員会館での真相糾明特別法公聴会のようす
        被害者支援がこのように遅れた理由
        靖国無断合祀反対運動

■日帝強占期強制動員被害者活動
 1944年2月15日、「国民徴用令」によって京畿道江華郡松海面卒丁里519番地の自宅からアボヂ、イ サヒョン(李思)は、戦場に連行された。その後、アボヂは戻ってこなかった。
そのときわたしは一歳を過ぎたばかりで、その後、生涯アボヂを想いつつ生きてきた。
 生き別れたアボヂを探すために、1989年から、韓国の強制動員被害者団体で活動をはじめた。そして、わたしのような被害者たちとともに活動してきた歳月が、いつのまにか20年になった。
 アボヂの記録を探すために、他の被害者たちの強制動員の事実を究明するために、日本政府に謝罪と補償をさせるために、努力してきたが、ようやく手に入れた成果におとらず、挫折の瞬間が多かったのも事実である。
 なぜ被害者が、植民地から解放されて60年が過ぎたいま、じぶんの古い過去の被害をみずから解明しなければならないのかを話そうと思う。

■アボヂの痕跡を探し求める
 朝鮮人は、「募集」、「官斡旋」、「徴用」の方法で、労務者や勤労挺身隊として強制動員されたり、さらには、軍人、軍属、日本軍慰安婦として、日本と海外各地に連行された。
 日帝によって強制動員されたという被害の事実を立証するためには、日本政府のみならず、日本企業が保有している資料、海外に散在している関連記録を収集、整理しなければ、正確な根拠を確認することができない。
 日帝によって強制動員された人数がどれほどなのか、何人死んだのか、いまだ、その全体的な規模については正確に知ることができない。強制動員された人たちの名前を確認することができる名簿が部分的に国内に入りはじめたのは、日本政府が『被徴用死亡者名簿』を最初に韓国政府に引き渡した1971年だった。
 そして、日本政府は、間歇的に、1991~1993年に約47万名の名簿を引き渡したが、これもきわめて部分的な資料に過ぎない。
李承晩政権時代に作成された『倭政時被徴用者名簿』と、独立紀念館や民間で保有している名簿など82万名分の資料は、国家記録院でデータ化し、ホームページを通じて照会することができる。
 国家記録院が日本政府から引き渡され保管している日帝下被徴用・徴兵朝鮮人名簿は、つぎのものである。

   引き渡し年月   種類          人数
   1971年10月   軍人、軍属戦死者名簿  21,699人
   1991年3月   被徴用者(労務者)名簿  90,804人
   1992年12月   被徴用者(労務者)名簿  17,107人
   1993年10月   軍人、軍属名簿     243,992人分(1971年引渡し分と重複)
                                                  イ ヒジャ
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