三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「韓国人元BC級戦犯 名誉回復と補償求め運動継続へ」

2022年12月15日 | 国民国家日本の侵略犯罪
『民団新聞』 2022年12月7日
■韓国人元BC級戦犯 名誉回復と補償求め運動継続へ
 「同進会」李鶴来会長を偲ぶ
 
【写真】李鶴来会長の遺志を継ぐと決意を新たにする「同進会を応援する会」の内海愛子代表 

 いわれなき戦犯の汚名を着せられたまま刑死した仲間の無念を晴らすために生涯をかけた韓国人元BC級戦犯、李鶴来さん(96、「同進会」会長)をしのぶ会が11月25日、東京・港区の韓国中央会館で営まれた。主催した韓国・朝鮮人元BC級戦犯者「同進会」、「同進会を応援する会」は李さんの遺志を継ぎ、名誉回復と補償を求める運動を継続していくことを遺影に誓った。

◆救済法案成立悲願に
 「同進会を応援する会」の内海愛子代表(恵泉女学園大学名誉教授)が「都合の良い時は日本人、都合の悪いときは朝鮮人。60年以上にわたって戦犯の汚名を着せられた同胞たちの名誉回復と補償を求めて闘ってきたが、不条理は解消されなかった。その李さんの思いを胸に名誉回復と補償を求める運動をこれからも継続していく」と決意を新たにしていた。
 李さんに代わり会長職を引き継いだ朴來洪さんは「今後とも一歩一歩階段を上っていきたい」と強調した。
 呂健二民団中央本部団長(鄭夢周副団長代読)は「李鶴来先輩になんと申し上げればいいのか、言葉が見つからない」と時折り声を詰まらせながら無念の思いを述べた
 第2次世界大戦後の戦犯裁判でBC級戦犯として裁かれ、日本政府に救済と名誉回復を求めていた在日韓国人の李鶴来さんは、戦時中、日本軍軍属として捕虜収容所の監視員を務めた。戦後、連合国の軍事裁判で「日本人戦犯」として死刑判決を受け、減刑後に仮釈放された。
 日本人の元戦犯に実施された恩給などの援護制度は日本国籍を失ったことを理由に対象外だった。生涯不条理を問い続けた李さんは日本政府を相手取って1991年に提訴。99年に敗訴したが、最高裁判決で立法による解決を促された。
 国会では08年に救済法案が提出されたがいまだ成立に至っていない。


「民団新聞」 2021年11月10日
■李鶴来さんを偲ぶ追悼文集『不条理を問い続けた生涯を偲ぶ』
 外国籍元BC級戦犯の名誉回復と補償を日本政府に訴え続け、今年3月に96歳で亡くなった李鶴来さん(「同進会」会長)を悼む文集『不条理を問い続けた生涯を偲ぶ』がまとまった。「韓国・朝鮮人元BC級戦犯者『同進会』を応援する会」が呼びかけたところ、メディア、法曹界、同進会・家族など100人以上から追悼文が寄せられた。
 河村建夫さんは2016年、日韓議員連盟幹事長として韓国人BC級戦犯の名誉回復、および補償問題の解決に向けて1人あたり支給額260万円で調整、法案も取りまとめた立役者の一人。しかし、党内手続きが滞り、李さんが生存中の立法化は間に合わなかった。
 河村さんは「この問題はやはりどう考えてみてもこのままで済ます問題ではない」(4月1日の院内集会での発言から収録)と述べた。
 民団中央本部の徐元喆事務総長は「(朝鮮人)BC級戦犯の名誉回復の運動は『無念(を晴らす)運動』でもある」と規定したうえで、「この間、多くの同胞も在日組織も、いたたまれない関心はあったが、自分たちの生活や優先順位、『対日・対韓感情』にかこつけて進んで関与してこなかった」と率直に詫びた。
 呂健二団長は弔電のなかで、同進会と共に法案の成立に向け、努力していくことをあらためて誓った
 李さんは北海道新聞の記者だった関正喜さんに「こっちが死んじゃっても、この問題は残る。日本民族が続く限り、永久にこの問題を負債として背負っていく」と語っていたという。
 関さんは「その『負債』の存在は、李さんたちが声をあげ、裁判を起こし、訴え続けてきたことで明らかになった。記録が残り、運動は続き、次世代に語り継がれる。これは、李さんたちの勝利ではないか」とつづった。
 有光健さん(「同進会」を応援する会世話人)は、李さんの墓に詣でても「さよならをいう気にはまだなれない」のだという。なぜなら「李さんの闘いは未完で宿題は終わっていない」からだ。その「宿題」とは立法だ。
 元BC級戦犯を祖父に持つ朴承夏さんは李さんから何年か前、「次はお前たちの世代だ」と希望を託されていた。追悼文では「しっかりとバトンを受け継ぎ、できることからやっていきたい」と誓った。問い合わせは大山さん(090・6548・7031)

◆刑死した仲間の無念訴え続ける
 李さんは1942年、17歳のとき日本軍最末端の軍属として「徴用」され、南方のタイで連合国捕虜の監視にあたった。日本の敗戦後、食糧や医薬品が十分いきわたらないなか、捕虜を過酷な労働に従事させたとして、日本軍が負うべき戦争責任を肩代わりさせられた。同じようにB級戦犯の指定を受けた同胞は合わせて148人にのぼり、このうちの23人が刑死した。李さん自身、死刑判決を受けたが、後に減刑され、日本の巣鴨プリズンで服役した。釈放後は、元戦犯として孤立無援なまま日本社会に放り出された仲間とともに「同進会」を結成し、刑死や自死に追い込まれた仲間たちの無念の思いを晴らそうと歴代首相に問題の解決を訴えてきた。
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