三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「全羅道屈指の国宝級古墳、被葬者は倭人?百済人?」

2021年10月05日 | 朝鮮史
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/41289.html
「The Hankyoreh」 2021-10-05 10:14
■全羅道屈指の国宝級古墳、被葬者は倭人?百済人?
 [ノ・ヒョンソクの時事文化財] 国立光州博物館「新徳古墳特別展」

【写真】全羅南道の咸平礼徳里にある新徳古墳の1990年代の調査当時の姿。前方が四角で後方が丸い古代日本特有の前方後円墳(長鼓型墳墓)を示している。墳墓の各部分に割れた石を敷きつめた跡(葺石)が見え、墓の周囲を溝で囲むのも倭式の前方後円墳の特徴だ//ハンギョレ新聞社

 「調査に行った墓が盗掘されていました!」。
 学芸員のソン・ナクチュン氏は青ざめて電話をとり報告した。彼の頭の中は、少し前に目撃した、古代の墳墓の片側に開けられた盗掘の穴の惨状でいっぱいだった。30年前の1991年3月26日午後、ソン氏を始めとする国立光州(クァンジュ)博物館の職員たちは、全羅南道の咸平礼徳里(ハムピョン・イェドクリ)の丘にある6世紀初めの大型墳墓を測量するために向かった。7年前の1984年に発見された新徳古墳1号墳だった。古代日本特有の前方後円墳、つまり前方は四角で後方は丸い、鍵穴あるいは長鼓型の墳墓形式であり、その年の朝鮮半島における前方後円墳の最初の発見事例として報告された海南長鼓峰古墳とあわせて、学界の特別な注目を集めた。しかし、7年が経過しても実測さえ行われずに放置され、学界では正体をめぐる噂だけが広がった。事情を知る博物館の人々が溜まった宿題をするかのように実測を行うために向かうと、数日前に暴かれた盗掘の穴を見つけたのだ。
 
【写真】1990年代に新徳古墳1号墳の内部を調査した際に床で発見された木棺の材料。日本産と見られるコウヤマキだ。墓の内部にコウヤマキ製の木棺があるのは武寧王陵や益山双陵など百済高位層の葬法であり、被葬者が現地人や百済系の人物であることを示す根拠となる遺物だ//ハンギョレ新聞社

 墓の中は悲惨だった。盗掘犯は石室の南西側の壁を突き破っていた。内部の遺物をむやみに動かし、金属付きの工芸品や大きな土器類などのみを持ち出し、残りは放り投げてあった。その弾みで石室の壁が損なわれ、床の遺物は踏まれて砕けていた。遺体を収めていた木棺の棺材などと頭骨や歯などの遺骨は混じりあい、盗掘の穴の近くには、鉄器片や陶磁片が散らばっていた。副葬品は尋常ではなかった。つぶれはしていたが、冠帯に木の葉の装飾が珠の荘厳とともに付いていた金銅冠の破片は孤高だった。環頭大刀や緑色や黄色のガラス板を重ねて付けていた外国産の練理紋の珠などは、公州(コンジュ)の武寧王陵を思いださせるほどの東南アジア産の高級品だった。石室の入口の羨道(墓道)の床からは、祭祀で使われた真鯉の骨が入った壺や様々な供え物を入れたふた付きの皿(蓋杯)も大量に発見された。全羅道屈指の国宝級古墳が盗掘されたという急報は政府を驚かせた。国立中央博物館のハン・ビョンサム館長(当時)から直接の報告を受けたイ・オリョン初代文化部長官は、検察総長にすぐ電話をかけて緊急捜査を要請した。

【写真】新徳古墳1号墳の石室から出た金銅冠の破片。六角形の模様の中に花模様が刻まれた細長い土台の上に木の枝の形の装飾を付けた構造で、九州や畿内地域の高級古墳から出土する冠とほとんど同じだ。被葬者が倭人とする説の有力な根拠の一つだ//ハンギョレ新聞社

 このような内容が報道されると、怖気づいた盗掘犯たちは、旧朝鮮総督府の建物にあった国立中央博物館の東門に盗掘した鉄器類の箱を預けて去っていった。回収した箱の中にあった遺物は、鉄器の刀の柄だった。墓の内部に残っていた刀の刃と合わせてみるとぴたりと合い、副葬品だと確認された。犯人は1993年9月に捕まった。土器や兜など65点の「百済の遺物」を持ち去っていたことが明らかになった。
 新徳古墳には、朝鮮半島の前方後円墳のなかでは最も多くの副葬品が残っていた。博物館も盗掘後の9年間に体系的な調査を行い、相当な研究成果を確保した。しかし、30年間も報告書を出さず、出土品の展示もなかった。理由はいわゆる「倭色」のためだ。二つの山の形の模様を立てる土台を着せた金銅冠や環頭大刀、三角形の鉄帽など、韓国と日本の学界ですぐに倭系だと同意する遺物が続々と明らかになると、4~6世紀に日本を統一したヤマト政権が任那日本府を設置し朝鮮半島南部を支配したとする植民地史観の歴史家や日本の極右の主張の根拠として悪用されるだろうという懸念が生じた。朝鮮半島の前方後円墳の研究も不十分な状況であり、公開した場合、日本の学界と論戦する相手になるのは難しいという心配もあった。

【写真】新徳1号墳の石室から出た環頭大刀(一番上)。鉄棒の上に銀を被せてより合わせて作った輪で刀先を飾ったこの刀は、朝鮮半島にはなく日本列島の支配層の墓からのみ出土する最高級の遺物だ。金銅冠と共に新徳古墳の被葬者が倭人とする説を裏付ける根拠となる遺物だ//ハンギョレ新聞社

 そのような事情を考えると、7月19日から国立光州博物館で行われている新徳古墳特別展「秘密の空間、隠された鍵」(24日まで)と一歩遅れての報告書の発刊は、時すでに遅しだが、嬉しい知らせだ。朝鮮半島の前方後円墳についての初の企画展を設け、出土品を学界に全面公開する場まで用意したのは、考古学史上、意義深い事件だ。学界の研究能力が成熟したことを教えてくれるものだ。
 日本に4000基以上残っている前方後円墳は、歴史的な誇りが込められたシンボルだ。3世紀中頃から7世紀初めまでの古墳時代に、現在の大阪一帯の近畿地域に拠点を置いたヤマト政権が、各地の首長と連合して統一国家を建てた歴史的な指標だとされている。近畿から始まった前方後円墳が九州や関東など全国各地で広がっていく過程が、列島統一の過程を端的に示しているというのが定説だ。

【写真】奈良にある6世紀中頃の丸山古墳。日本の古墳時代末期の最後の前方後円墳といわれている//ハンギョレ新聞社

 そのような前方後円墳が、全羅道の西南海岸で現在までに14基確認されており、中心格である新徳古墳から、なぜ倭系の金銅冠や最高級品の刀が中心的な副葬品として出てきたのかについては、論争になっている。数が少なく期間も5世紀末から6世紀初めの50年に過ぎないが、被葬者が倭系の実力者だと解釈する余地が大きい。日本の学界で、ヤマト政権が朝鮮半島に影響を行使したという推論に飛躍されることもありうる。廃棄された任那日本府説をあえて提起する学者はいないが、長鼓型墳墓の研究成果の公開は、日本の学界との解釈の摩擦を呼ぶ可能性が高い。韓国内の学界も墓被葬者をめぐり、倭人説と現地人説、百済人説が交錯している。墳墓の形と構造、中心的な副葬品は倭系だが、もう一つの手がかりであるコウヤマキ製の木棺の遺物は、百済高位層の葬法だからだ。
 博物館の展示は、もっと積極的な解釈と説明の場を設けられなかった限界も示している。金銅冠と刀と大量の土器、棺材をずらりと並べて置いている遺物報告の形式に留まっているという話だ。前方後円墳については、韓国と日本の学界での議論がなぜ大きくなったのか、任那日本府が及ぼした影響は何であるのかなどについて、歴史的な経緯を詳細に解き明かし説明していない点がぎこちない。史料不足もあるが、長期的に落ち着いてファクトを蓄積し論議していくには、大衆に前方後円墳の歴史的実情を十分に伝え、被葬者の議論を進めていくべきではないだろうか。近代の民族感情による制約を受ける韓国と日本の学界は、今後互いに交流し、共同理解を探る求同存異の姿勢で会うしかない。
光州/文・写真、ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1013853.html
韓国語原文入力:2021-10-05 04:59


http://japan.hani.co.kr/arti/culture/40411.html
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/40412.html
「The Hankyoreh」 2021-06-30 10:10
■倭乱の被害が土中から…ソウル都心で600年ぶりに発掘された「世宗の遺物」
 旧漢陽中心部から世宗時代の天文時計など科学遺物も見つかる

【写真】15世紀に作られたハングルの金属活字、これまで記録でのみ伝えられていたが今回の発掘で初めて実物が確認された=写真:首都文物研究院提供//ハンギョレ新聞社

「これは小石ではなく金属活字です!」。
 今月初め、ソウル都心の文化地区である仁寺洞(インサドン)のピマッコル再開発地区遺跡を発掘した首都文物研究院(院長 オ・ギョンテク)調査チームは、16世紀の建物跡から出た陶器壷の一部の内容物を確認して驚いた。壷の側面の穴から出てきた小石形の遺物のいくつかを洗浄してみると、金属活字であることが分かったからだ。興奮した調査チームは、壷内の土砂をすべて取り出して集中分析作業を実施した。結果は驚くべきものだった。壷の内部には何と1600個余りの金属活字が詰まっていた。
 専門家たちが調べると、15世紀、世宗(セジョン)大王の『訓民正音』創製当時に使われたと考えられる朝鮮初期の世宗~世祖(セジョ)代のハングル金属活字実物と、世宗が造った漢字金属活字である甲寅字と推定される活字が初めて発見されたとの判読結果が出た。この金属活字のうち一部は、ドイツ人グーテンベルクが1450年代に西洋初の金属活字活版印刷を始めた時より製作時期が数十年早いと推定される。

【写真】ハングル金属活字の細部=写真:首都文物研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】ハングル連鋳活字=写真:首都文物研究院提供//ハンギョレ新聞社

 文化財庁は29日、首都文物研究院が発掘調査中であるソウル市仁寺洞79番地の「公平区域15・16地区都市環境整備事業敷地内の遺跡(ナ地域)」の16世紀建物跡から、壷に入れられた朝鮮前期の世宗~中宗(チュンジョン)時の金属活字1600点余りを発見したと発表した。文化財庁はさらに、世宗~中宗時代に製作し使用したと見られる自動水時計の時報装置部品である籌箭(チュジョン)と、世宗時期のものと推定される天文時計「日星定時儀」の部品、中宗~宣祖(ソンジョ)の時代に作った武器である銃筒類8点、銅鐘1点などの金属遺物も同じ遺跡から一緒に埋められた形態で発掘されたと述べた。

【写真】世宗の時に造った甲寅字と推定される漢字金属活字。大きさから見て小字に該当する=写真:首都文物研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】世宗の時に造った甲寅字と推定される漢字金属活字。大きさから見て小字に該当する=写真:首都文物研究院提供//ハンギョレ新聞社

 まず目を引くのは世宗の時に製作された最も早い時期のハングル金属活字だ。一括出土した金属活字は、ハングルの金属活字を構成する大字、中字、注釈などに使われた小字、特小字がそろって出土した。特に『訓民正音』創製時期の15世紀に限定されて使われた「東国正韻式表記法」を使った金属活字が実物で確認され、ハングル金属活字を構成した様々な大きさの活字がそろって出土した点は画期的な成果と評価される。「東国正韻」は、世宗の命により申叔舟(シン・スクチュ)、朴彭年(パク・ペンニョン)などが朝鮮漢字音を正すために刊行した韓国初の標準音に関する本で、中国漢字音を表記するために使われた字素類を記録したのが特徴だ。この他にも、二つの文字を一つの活字に連結表記して、助詞の役割をした貴重本の連鋳活字が10点余り見つかった。

【写真】「日星定時儀」の主要部品である「周天度分環」=写真:首都文物研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】水時計の重要部品である籌箭の初めて確認された実物=写真:首都文物研究院提供//ハンギョレ新聞社

 漢字活字も、現在まで伝えられた最も早い朝鮮金属活字である世祖時代の「乙亥字」(1455年・国立中央博物館所蔵)より20年早い世宗時代の「甲寅字」(1434年)と推定される活字が大量に確認され、学界を興奮させている。朝鮮前期の多種多様な金属活字が一カ所で出土した初めての事例といえる。ペク・トゥヒョン慶北大学教授とオク・ヨンジョン韓国学中央研究院教授は、「『訓民正音』創製当時の姿を確認できる国内最高のハングル活字と、世宗が造った漢字金属活字である甲寅字の実物が初めて見つかったという点で、韓国印刷文化史に名を残す発見だ。ハングル創製の実際の余波とともに活発化した当時の印刷活動を調べることができる重要な資料」だと評価した。調査チーム側は、金属活字の種類が多様で朝鮮前期の印刷本にのみ確認できた多くの活字の実物が追加で確認される可能性があるとみている。
 陶器壷からは金属活字とともに世宗~中宗の時に製作された自動水時計の籌箭(チュジョン)と見られる銅製品が細かく切られた状態で出土した。銅製品は、銅板と玉放出器具に区分される。銅板にはいくつかの円い穴と「一箭」という文字が彫られている。玉放出器具は、円筒形の銅製品の両側にそれぞれかすがいとイチョウの葉形態の鉤が結びついているのが特徴だ。このような部品の形は、『世宗実録』において小さな玉を貯蔵し放出することで自動水時計の時報装置を作動させた装置である籌箭の記録と一致する。籌箭は、1438年(世宗20年)に製作された欽敬閣(フムギョンガク)玉漏(水時計)や1536年(中宗31年)昌徳宮(チャンドクグン)に設置した報漏閣の自撃漏と推定される。これまで記録のみで伝えられてきた朝鮮時代の自動水時計の籌箭実体が初めて確認されたわけだ。
 活字が入れらていた壷の隣からは、昼夜間の天文時計である「日星定時儀」が見つかった。昼間には日時計、夜間には太陽を利用できない短所を補完するために星座を利用して時間を計った時計だ。『世宗実録』によれば、1437年(世宗19年)に4個の日星定時儀を作ったと伝えられる。出土遺物は、周天度分環、日キ(日陰)百刻環、星キ百刻環など日星定時儀の主要部品で、時計の輪の上面の三輪と見られる。現存する資料がなく、記録のみで伝えられてきた世宗時代の科学技術の実体を確認したという意味が大きいという評価だ。

【写真】天文時計の日星定時儀と銅鐘が土中からあらわれた姿=写真:首都文物研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】出土した勝字銃筒=写真:首都文物研究院提供//ハンギョレ新聞社

 小型火器で銃口に火薬と鉄丸(弾丸)を装填し火種を付けて発射する銃筒は、勝字銃筒1点、小勝字銃筒7点が出てきた。復元された大きさはおよそ50~60センチだ。彫られた銘文を判読した結果、癸未年勝字銃筒(1583年)と万暦戊子年小勝字銃筒(1588年)と推定される。職人の希孫(ヒソン)、末叱同(マルドン)として製作者が記録されているが、希孫は宝物に指定されたソウル大学博物館所蔵の「次勝字銃筒」の銘文でも確認される名前だ。万暦戊子年と彫られた勝字銃筒は、鳴梁海域でも確認されたことがある。銅鐘は、日星定時儀の下の部分で、数点の小片に分かれて発見された。砲弾をひっくり返した鐘形で、2匹の龍の形をした取っ手、龍紐がついている。隅花模様と蓮のつぼみ、小波装飾など朝鮮15世紀に製作された王室起源の銅鐘様式を継承していることが特徴だ。鐘の本体上部に「嘉靖十四年乙未四月日」という隷書体の銘文が彫られていて、1535年(中宗30年)4月に製作されたことがわかる。
 調査地域は、鍾路(チョンノ)2街交差点の北西側で、漢陽都城(ハニャントソン)の中心部だ。朝鮮前期まで漢城府中部の堅平坊に属した所だ。堅平坊は、朝鮮前期漢城府中部8坊の一つで、司法機関の義禁府と王室宮家である順化宮、竹洞宮と商業施設の雲從街が位置した都城内の経済文化の中心地であった。遺跡では朝鮮前期から近代までの合計6個の文化層(2~7層)が確認される。金属活字などが出土した層位は、現在の地表面から3メートル下である6層(16世紀中心)部分で、建物跡の遺構と朝鮮前期と推定される磁器片や瓦片なども一緒に出てきた。

【写真】金属活字が大量出土した仁寺洞79番地のピマッコル朝鮮初期建物跡遺跡の全景//ハンギョレ新聞社

 金属活字を除く残りの遺物は、細かく切って破片にして陶器の壷の中と付近に埋めたと推定される。また、活字はおおかた完全だったが、熱で溶けて固着したものもある。製作年代が分かる出土品の中で最も時期が遅い遺物が、1588年を意味する万暦戊子年と彫られた小勝字銃筒なので、少なくとも1588年以後に埋められたことが確実だ。オ・ギョンテク研究院長は「1592年に勃発した壬辰倭乱(文禄の役)と時期が近く、当時戦乱が起きたため遺物を壷に入れて地中に埋め、避難させた可能性がある」と推定した。出土遺物は現在1次整理を終え、国立古宮博物館に移して保管されている。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1001298.html
韓国語原文入力:2021-06-29 21:36
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