http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30747.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-06-01 09:37 修正:2018-06-01 15:39
■祖国解放の歓喜を海が飲み込んだ…壱峻島に眠る朝鮮人131人の遺骨
解放後に帰国船に乗り、台風遭遇で死亡
骨となり日本国内の寺を転々とし、
寺の保管拒否で倉庫→合祀されそうになったところ
壱岐島の小さな寺が「引き取りたい」申し出て
遺体の発見地の一つの玄海灘の島へ
故国に帰れないなら故郷により近いところに
法要式「いつか故国に帰らんことを…」
【写真】先月31日、長崎県壱岐島の天徳寺で朝鮮人犠牲者131人の魂を供養する法要式が行われた//ハンギョレ新聞社
「本来は母国に帰って幸せな生活をしなければならなかった人たちでした。いま故郷に帰れないならば、いったん遺体が漂流したここに安置するのがよいと思います」。
31日、日本の最西端長崎県壱岐島にある小さな寺の天徳寺で、1945年解放直後、故郷へ向かう船が沈没し空しく死亡した朝鮮人の遺骨131柱を祀った法要式が行われた。曹洞宗宗議会の池田大智議員は「大韓民国人芦辺港遭難者遺骨安座法要式典」の挨拶で「朝鮮人遺骨がいつか故国に帰ることを祈る」と話した。日本の厚生労働省は倉庫から朝鮮人遺骨131柱を白い箱39個に分けて入れて、この日島に移した。壱岐島は韓国人にとってなじみのある対馬よりもっと日本側寄りの朝鮮海峡の島だ。
1945年8月15日の解放後、日本に住んでいた朝鮮人のうち140万人が朝鮮半島に帰還した。船が出発する福岡博多港と山口県下関港に一日1万~2万人ずつ集まった。帰国用の船便ははるかに不足していた。少なからぬ朝鮮人が故郷に行くために業者に金を与え、粗末な「闇船」に乗った。
【写真】31日、長崎県壱岐島の天徳寺で行事の参加者らが朝鮮人犠牲者の遺骨を移している//ハンギョレ新聞社
小さな木船にぎっしり乗って故郷に向かった彼らを待っていたのは、台風だった。1945年9月17~18日に枕崎台風、10月11日に阿久根台風という大きな台風が九州地方を襲った。難破した船で犠牲となった朝鮮人の遺体は、潮流に乗って壱岐島と対馬の海岸に押し流された。地域住民が海岸に放置された遺体の一部を収拾して埋葬した。30年あまりが流れる間に、遺体の存在は世界で徐々に忘れられていった。
【地図】壱岐島の位置//ハンギョレ新聞社
壱岐島などに放置されていた朝鮮人の遺体の存在が注目されるようになったのは、深川宗俊という日本人のためだ。広島三菱重工業で朝鮮人労働者の労務管理をした深川氏は、広島駅で見送った朝鮮人労働者264人全員が帰国できなかったという事実を知り、行方を追跡してきた。深川氏は壱岐島に埋葬された朝鮮人の遺体が広島三菱重工業の強制徴用被害者たちと知り、1976年に埋葬地を掘り起こした。深川氏の予想と異なり、遺骨からは会社のバッジなど三菱重工業との関連性を示す手がかりは出なかった。その代わり、子どもを抱きしめた母親の遺体などが見つかった。続いて日本政府は1983年、自主的に対馬で朝鮮人遭難者の遺骨を発掘した。日本政府が自ら朝鮮人遺骨発掘に取り組んだ非常に珍しい事例だった。
この日再び壱岐島に帰ってきた遺骨は、このとき発掘された壱岐島の遺骨86柱と対馬の遺骨45柱だ。これらの遺骨はこれまで日本の寺4カ所を巡り巡って2003年に金乗院に安置された。最近、金乗院がこれ以上保管が難しいと言ったところ、壱岐島の寺の天徳寺が保管を申し出て壱岐への帰還が実現された。
厚生労働省は当初、遺骨を厚生労働省の倉庫に移した後、東京の戦没者墓地の千鳥が淵に合祀しようとした。だが、天徳寺が名乗り出ると遺骨を朝鮮半島に近いこの寺に安置することに同意した。天徳寺の西谷徳道住職はハンギョレに「一日も早く遺骨が故国に戻れるよう処置することを韓国と日本政府に求める」と話した。
今も壱岐島と対馬には少なからぬ朝鮮人の遺骨が発掘すらされないまま眠っていると推定される。「壱峻日日新聞」を運営しながら長い間この問題を追跡してきた種田拓氏は、「1976年の発掘地近くのさまざまな状況を考慮すると、朝鮮人遺体76柱が埋められたところがもう1カ所あると思う」と話した。種田氏が指摘した埋葬推定地の近くには現在「大韓民国人慰霊碑」が立っている。韓国政府が直接連れ帰った遺骨は、東京の祐天寺に保管されていた朝鮮人軍人・軍属の遺骨423柱しかない。
韓国政府の無関心の中、天徳寺は故郷を目の前にして死亡した朝鮮人たちの魂を供養するため、20数年間慰霊祭を務めてきた。1976年に壱岐島の朝鮮人遺骨発掘に参加した正木峰夫氏は「韓国と日本政府は長年『今は困る』と言ってきた。この遺骨の最終目的地は天徳寺ではなく、彼らの故郷だ」と話した。
壱岐島/文・写真 チョ・ギウォン特派員
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/847163.html
韓国語原文入力:2018-05-31 22:49
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/30743.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-05-31 23:37 修正:2018-06-01 08:05
■[特派員コラム]彼らはいつ故郷へ帰ってくるだろうか
【写真】31日、長崎県の壱峻島の天徳寺で朝鮮人犠牲者131人の魂を追悼する法要が開かれている=壱峻島/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社
「このことを必ず書いてください。1945年、壱岐島と対馬付近で難波した帰国船に乗り、九死に一生を得て助かった方や、その方の子孫がいらっしゃれば私たちに必ず連絡を下さいということを」。
5月30日、福岡の祇園駅付近に朝鮮人遺骨奉還事業をしてきた韓国と日本の市民団体の人々が集まった。翌日の31日、埼玉県にある寺、金乗院にあった朝鮮人遺骨131具を長崎県の壱岐島にある寺、天徳寺に移す行事が開かれたが、この行事に参加するために集まった人々だった。壱岐島に移管される遺骨は、朝鮮半島が解放された直後の1945年秋、帰国船に乗ったが船が難波して壱岐島と対馬付近で命を失った朝鮮人の一部のものだ。相当数は徴用で連れて来られたと推定される。長い間遺骨を保管してきた金乗院が、これ以上は遺骨の保管が難しくなり、天徳寺が保管を申し出て移管された。
【写真】31日、長崎県の壱峻島の天徳寺で行事参加者らが朝鮮人犠牲者の遺骨を移している=壱峻島/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社
生存者や生存者家族の連絡を待っていると話した人は、北海道にある寺、一乗寺の住職で東アジア市民ネットワークの代表を務める殿平善彦氏だ。殿平氏が生存者を探す理由は、まだ壱岐島や対馬のどこかに発掘されていない朝鮮人の遺骨が残っている可能性が高く、遺骨発掘作業を始めるためには生存者や生存者家族の証言が緊要なためだ。生存者の一部は、死亡した朝鮮人同僚を埋葬する作業にも参加した可能性が高いので、埋めた場所を探すにも彼らの証言が重要な端緒になりうるということだ。殿平氏が朝鮮人の遺骨発掘、および奉還活動を始めたのは1970年代で、40年以上の長きにわたりこの活動に参加したわけだ。
教師として仕事をして退職した正木峰夫氏は、朝鮮人遺骨発掘と奉還に青春を捧げた人物だ。その契機は「広島三菱重工業朝鮮人強制徴用被害者失踪事件」だった。1945年9月、広島三菱重工業徴用被害朝鮮人が、帰国船に乗って失踪したが、30余年後になって彼らが船の難波で亡くなり、遺体は壱岐島に埋葬されたという推定が出てきた。結局1976年、壱岐島で朝鮮人遺骸発掘事業が行われ、正木氏も発掘作業に参加した。正木氏は「壱岐島で朝鮮人遺体埋葬地を見つけたが、諸般の状況から見て三菱重工業徴用被害者ではないと判断した。だが、朝鮮人の遺体が故郷へ帰れずにいるのは正しい戦後処理ではないと考え、この活動を継続している」と話した。
市民団体「戦没者遺骨を家族の元へ」の活動家である上田慶司氏も、朝鮮人遺骨奉還活動をして30年を超えた。朝鮮人強制労働問題に関連する運動をして、遺骨だけでも送りかえしてほしいという韓国人遺族の話を聞き、遺骨奉還運動に集中し始めた。上田氏は、日本の厚生労働省が朝鮮人遺骨奉還に積極的に取り組むべきだと鋭く責任を追及してきた。上田氏は「最近ではないが、4~5年前に右翼と思われる人物が家に(強迫の意味で)ライターを送りつけてきたこともある」とも話した。
【写真】31日、長崎県の壱峻島の天徳寺で行事参加者らが朝鮮人犠牲者の遺骨を移している=壱峻島/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社
解放後73年が過ぎた今でも、日本には故郷に帰れずにいる朝鮮人遺骨が各地に残っている。日本の市民団体が朝鮮人の遺骨を絶えず探して故郷へ送りかえそうとする努力を数十年間続けているのを見れば、複雑な思いを隠せない。日本の市民団体は「韓国政府が積極的に乗り出さなければ、日本政府に要請することも簡単ではない」と話す。日本の市民団体の努力も重要だが、結局この問題の最大の当事者は私たち韓国人と韓国政府だ。
チョ・ギウォン東京特派員
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/847169.html
韓国語原文入力:2018-05-31 18:21
「The Hankyoreh」 登録:2018-06-01 09:37 修正:2018-06-01 15:39
■祖国解放の歓喜を海が飲み込んだ…壱峻島に眠る朝鮮人131人の遺骨
解放後に帰国船に乗り、台風遭遇で死亡
骨となり日本国内の寺を転々とし、
寺の保管拒否で倉庫→合祀されそうになったところ
壱岐島の小さな寺が「引き取りたい」申し出て
遺体の発見地の一つの玄海灘の島へ
故国に帰れないなら故郷により近いところに
法要式「いつか故国に帰らんことを…」
【写真】先月31日、長崎県壱岐島の天徳寺で朝鮮人犠牲者131人の魂を供養する法要式が行われた//ハンギョレ新聞社
「本来は母国に帰って幸せな生活をしなければならなかった人たちでした。いま故郷に帰れないならば、いったん遺体が漂流したここに安置するのがよいと思います」。
31日、日本の最西端長崎県壱岐島にある小さな寺の天徳寺で、1945年解放直後、故郷へ向かう船が沈没し空しく死亡した朝鮮人の遺骨131柱を祀った法要式が行われた。曹洞宗宗議会の池田大智議員は「大韓民国人芦辺港遭難者遺骨安座法要式典」の挨拶で「朝鮮人遺骨がいつか故国に帰ることを祈る」と話した。日本の厚生労働省は倉庫から朝鮮人遺骨131柱を白い箱39個に分けて入れて、この日島に移した。壱岐島は韓国人にとってなじみのある対馬よりもっと日本側寄りの朝鮮海峡の島だ。
1945年8月15日の解放後、日本に住んでいた朝鮮人のうち140万人が朝鮮半島に帰還した。船が出発する福岡博多港と山口県下関港に一日1万~2万人ずつ集まった。帰国用の船便ははるかに不足していた。少なからぬ朝鮮人が故郷に行くために業者に金を与え、粗末な「闇船」に乗った。
【写真】31日、長崎県壱岐島の天徳寺で行事の参加者らが朝鮮人犠牲者の遺骨を移している//ハンギョレ新聞社
小さな木船にぎっしり乗って故郷に向かった彼らを待っていたのは、台風だった。1945年9月17~18日に枕崎台風、10月11日に阿久根台風という大きな台風が九州地方を襲った。難破した船で犠牲となった朝鮮人の遺体は、潮流に乗って壱岐島と対馬の海岸に押し流された。地域住民が海岸に放置された遺体の一部を収拾して埋葬した。30年あまりが流れる間に、遺体の存在は世界で徐々に忘れられていった。
【地図】壱岐島の位置//ハンギョレ新聞社
壱岐島などに放置されていた朝鮮人の遺体の存在が注目されるようになったのは、深川宗俊という日本人のためだ。広島三菱重工業で朝鮮人労働者の労務管理をした深川氏は、広島駅で見送った朝鮮人労働者264人全員が帰国できなかったという事実を知り、行方を追跡してきた。深川氏は壱岐島に埋葬された朝鮮人の遺体が広島三菱重工業の強制徴用被害者たちと知り、1976年に埋葬地を掘り起こした。深川氏の予想と異なり、遺骨からは会社のバッジなど三菱重工業との関連性を示す手がかりは出なかった。その代わり、子どもを抱きしめた母親の遺体などが見つかった。続いて日本政府は1983年、自主的に対馬で朝鮮人遭難者の遺骨を発掘した。日本政府が自ら朝鮮人遺骨発掘に取り組んだ非常に珍しい事例だった。
この日再び壱岐島に帰ってきた遺骨は、このとき発掘された壱岐島の遺骨86柱と対馬の遺骨45柱だ。これらの遺骨はこれまで日本の寺4カ所を巡り巡って2003年に金乗院に安置された。最近、金乗院がこれ以上保管が難しいと言ったところ、壱岐島の寺の天徳寺が保管を申し出て壱岐への帰還が実現された。
厚生労働省は当初、遺骨を厚生労働省の倉庫に移した後、東京の戦没者墓地の千鳥が淵に合祀しようとした。だが、天徳寺が名乗り出ると遺骨を朝鮮半島に近いこの寺に安置することに同意した。天徳寺の西谷徳道住職はハンギョレに「一日も早く遺骨が故国に戻れるよう処置することを韓国と日本政府に求める」と話した。
今も壱岐島と対馬には少なからぬ朝鮮人の遺骨が発掘すらされないまま眠っていると推定される。「壱峻日日新聞」を運営しながら長い間この問題を追跡してきた種田拓氏は、「1976年の発掘地近くのさまざまな状況を考慮すると、朝鮮人遺体76柱が埋められたところがもう1カ所あると思う」と話した。種田氏が指摘した埋葬推定地の近くには現在「大韓民国人慰霊碑」が立っている。韓国政府が直接連れ帰った遺骨は、東京の祐天寺に保管されていた朝鮮人軍人・軍属の遺骨423柱しかない。
韓国政府の無関心の中、天徳寺は故郷を目の前にして死亡した朝鮮人たちの魂を供養するため、20数年間慰霊祭を務めてきた。1976年に壱岐島の朝鮮人遺骨発掘に参加した正木峰夫氏は「韓国と日本政府は長年『今は困る』と言ってきた。この遺骨の最終目的地は天徳寺ではなく、彼らの故郷だ」と話した。
壱岐島/文・写真 チョ・ギウォン特派員
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/847163.html
韓国語原文入力:2018-05-31 22:49
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/30743.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-05-31 23:37 修正:2018-06-01 08:05
■[特派員コラム]彼らはいつ故郷へ帰ってくるだろうか
【写真】31日、長崎県の壱峻島の天徳寺で朝鮮人犠牲者131人の魂を追悼する法要が開かれている=壱峻島/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社
「このことを必ず書いてください。1945年、壱岐島と対馬付近で難波した帰国船に乗り、九死に一生を得て助かった方や、その方の子孫がいらっしゃれば私たちに必ず連絡を下さいということを」。
5月30日、福岡の祇園駅付近に朝鮮人遺骨奉還事業をしてきた韓国と日本の市民団体の人々が集まった。翌日の31日、埼玉県にある寺、金乗院にあった朝鮮人遺骨131具を長崎県の壱岐島にある寺、天徳寺に移す行事が開かれたが、この行事に参加するために集まった人々だった。壱岐島に移管される遺骨は、朝鮮半島が解放された直後の1945年秋、帰国船に乗ったが船が難波して壱岐島と対馬付近で命を失った朝鮮人の一部のものだ。相当数は徴用で連れて来られたと推定される。長い間遺骨を保管してきた金乗院が、これ以上は遺骨の保管が難しくなり、天徳寺が保管を申し出て移管された。
【写真】31日、長崎県の壱峻島の天徳寺で行事参加者らが朝鮮人犠牲者の遺骨を移している=壱峻島/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社
生存者や生存者家族の連絡を待っていると話した人は、北海道にある寺、一乗寺の住職で東アジア市民ネットワークの代表を務める殿平善彦氏だ。殿平氏が生存者を探す理由は、まだ壱岐島や対馬のどこかに発掘されていない朝鮮人の遺骨が残っている可能性が高く、遺骨発掘作業を始めるためには生存者や生存者家族の証言が緊要なためだ。生存者の一部は、死亡した朝鮮人同僚を埋葬する作業にも参加した可能性が高いので、埋めた場所を探すにも彼らの証言が重要な端緒になりうるということだ。殿平氏が朝鮮人の遺骨発掘、および奉還活動を始めたのは1970年代で、40年以上の長きにわたりこの活動に参加したわけだ。
教師として仕事をして退職した正木峰夫氏は、朝鮮人遺骨発掘と奉還に青春を捧げた人物だ。その契機は「広島三菱重工業朝鮮人強制徴用被害者失踪事件」だった。1945年9月、広島三菱重工業徴用被害朝鮮人が、帰国船に乗って失踪したが、30余年後になって彼らが船の難波で亡くなり、遺体は壱岐島に埋葬されたという推定が出てきた。結局1976年、壱岐島で朝鮮人遺骸発掘事業が行われ、正木氏も発掘作業に参加した。正木氏は「壱岐島で朝鮮人遺体埋葬地を見つけたが、諸般の状況から見て三菱重工業徴用被害者ではないと判断した。だが、朝鮮人の遺体が故郷へ帰れずにいるのは正しい戦後処理ではないと考え、この活動を継続している」と話した。
市民団体「戦没者遺骨を家族の元へ」の活動家である上田慶司氏も、朝鮮人遺骨奉還活動をして30年を超えた。朝鮮人強制労働問題に関連する運動をして、遺骨だけでも送りかえしてほしいという韓国人遺族の話を聞き、遺骨奉還運動に集中し始めた。上田氏は、日本の厚生労働省が朝鮮人遺骨奉還に積極的に取り組むべきだと鋭く責任を追及してきた。上田氏は「最近ではないが、4~5年前に右翼と思われる人物が家に(強迫の意味で)ライターを送りつけてきたこともある」とも話した。
【写真】31日、長崎県の壱峻島の天徳寺で行事参加者らが朝鮮人犠牲者の遺骨を移している=壱峻島/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社
解放後73年が過ぎた今でも、日本には故郷に帰れずにいる朝鮮人遺骨が各地に残っている。日本の市民団体が朝鮮人の遺骨を絶えず探して故郷へ送りかえそうとする努力を数十年間続けているのを見れば、複雑な思いを隠せない。日本の市民団体は「韓国政府が積極的に乗り出さなければ、日本政府に要請することも簡単ではない」と話す。日本の市民団体の努力も重要だが、結局この問題の最大の当事者は私たち韓国人と韓国政府だ。
チョ・ギウォン東京特派員
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/847169.html
韓国語原文入力:2018-05-31 18:21