1945年8月以前に、日本・台湾・朝鮮・中国・モンゴル……で司法犯罪をくりかえしていた日本人裁判官のほとんどは、1945年8月以後も、継続して裁判官になった。
たとえば、飯守重任は、「満洲国」で裁判官をやり、司法犯罪をくりかえし、1945年8月以後、戦犯として撫順に抑留され、「反省文」を書いて帰国してから、東京地裁の裁判官などをやり、「反省文」を「あれは偽装の作文だった」と言った。
1945年8月以前に、「満洲国」でも日本でも、日本人裁判官は、抗日反日闘争をたたかう中国民衆に死刑「判決」をだしたが、中国東北部における日本軍の犯罪を裁くことはなかった。
朝鮮でも日本でも、日本人裁判官は、抗日反日闘争をたたかう朝鮮民衆に死刑「判決」をだしたが、朝鮮・中国東北部における日本軍の犯罪を裁くことはなかった。
安重根は、1909年10月にハルビンで戦い、1910年3月に旅順で処刑された(裁判長真鍋十蔵)。
1911年1月に、幸徳秋水、大石誠之助、成石平四郎、内山愚童、管野スガら12人が、天皇暗殺を計画したという事実ではないことを理由にした判決(裁判長鶴丈一郎)によって東京で処刑された。
李奉昌は、1932年1月に桜田門外で天皇の暗殺を試み、10月に東京で処刑された(裁判長和仁貞吉)。
尹奉吉は、1932年4月に上海で戦い、12月に日本の金沢で処刑された。
1941年10月に逮捕されたゾルゲと尾崎秀実は、東京地裁の裁判官(裁判長高田正、裁判官樋口勝、満田文彦)に死刑を宣告され、1944年11月に東京で処刑された。高田は1946年に奈良地方検察庁検事正になった。
731部隊の犯罪、毒ガス弾遺棄・放置という犯罪を追及する中国民衆と日本民衆の訴訟(「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟訟」、「遺棄毒ガス・砲弾訴訟損害賠償請求訴訟」)においては、これまで、日本人裁判官はこの重大な犯罪事実は認めながら歴史的責任を根本問題とすることはなく、そのことによって過去の日本の侵略犯罪に加担してきた。
日本軍の性暴力犯罪の国家責任と謝罪を要求する訴訟においても、日本の裁判官は、山口地裁下関支部の坂下秀明裁判官をのぞいて根本問題を避け続けた。
紀州鉱山の真実を明らかにする会の訴訟は、日本政府と日本企業による朝鮮人強制連行・強制労働の歴史的責任を追及する訴訟である。
しかし、紀州鉱山の真実を明らかにする会の第一次訴訟のときに、津地裁の裁判官も、名古屋高裁の裁判官も、最高裁の裁判官も、この根本問題を「審理」しようとせず、「判決」においても行政・企業の歴史責任を問題としなかった。津地裁の裁判官も、名古屋高裁の裁判官も、最高裁の裁判官も、自己の歴史責任と日本の司法責任を回避し、朝鮮人強制連行・強制労働に加担した。
日本人裁判官のほとんどは、1945年8月以前も以後も、日本国家と日本軍と日本企業の侵略犯罪に加担し、民衆運動を弾圧している。
佐藤正人
たとえば、飯守重任は、「満洲国」で裁判官をやり、司法犯罪をくりかえし、1945年8月以後、戦犯として撫順に抑留され、「反省文」を書いて帰国してから、東京地裁の裁判官などをやり、「反省文」を「あれは偽装の作文だった」と言った。
1945年8月以前に、「満洲国」でも日本でも、日本人裁判官は、抗日反日闘争をたたかう中国民衆に死刑「判決」をだしたが、中国東北部における日本軍の犯罪を裁くことはなかった。
朝鮮でも日本でも、日本人裁判官は、抗日反日闘争をたたかう朝鮮民衆に死刑「判決」をだしたが、朝鮮・中国東北部における日本軍の犯罪を裁くことはなかった。
安重根は、1909年10月にハルビンで戦い、1910年3月に旅順で処刑された(裁判長真鍋十蔵)。
1911年1月に、幸徳秋水、大石誠之助、成石平四郎、内山愚童、管野スガら12人が、天皇暗殺を計画したという事実ではないことを理由にした判決(裁判長鶴丈一郎)によって東京で処刑された。
李奉昌は、1932年1月に桜田門外で天皇の暗殺を試み、10月に東京で処刑された(裁判長和仁貞吉)。
尹奉吉は、1932年4月に上海で戦い、12月に日本の金沢で処刑された。
1941年10月に逮捕されたゾルゲと尾崎秀実は、東京地裁の裁判官(裁判長高田正、裁判官樋口勝、満田文彦)に死刑を宣告され、1944年11月に東京で処刑された。高田は1946年に奈良地方検察庁検事正になった。
731部隊の犯罪、毒ガス弾遺棄・放置という犯罪を追及する中国民衆と日本民衆の訴訟(「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟訟」、「遺棄毒ガス・砲弾訴訟損害賠償請求訴訟」)においては、これまで、日本人裁判官はこの重大な犯罪事実は認めながら歴史的責任を根本問題とすることはなく、そのことによって過去の日本の侵略犯罪に加担してきた。
日本軍の性暴力犯罪の国家責任と謝罪を要求する訴訟においても、日本の裁判官は、山口地裁下関支部の坂下秀明裁判官をのぞいて根本問題を避け続けた。
紀州鉱山の真実を明らかにする会の訴訟は、日本政府と日本企業による朝鮮人強制連行・強制労働の歴史的責任を追及する訴訟である。
しかし、紀州鉱山の真実を明らかにする会の第一次訴訟のときに、津地裁の裁判官も、名古屋高裁の裁判官も、最高裁の裁判官も、この根本問題を「審理」しようとせず、「判決」においても行政・企業の歴史責任を問題としなかった。津地裁の裁判官も、名古屋高裁の裁判官も、最高裁の裁判官も、自己の歴史責任と日本の司法責任を回避し、朝鮮人強制連行・強制労働に加担した。
日本人裁判官のほとんどは、1945年8月以前も以後も、日本国家と日本軍と日本企業の侵略犯罪に加担し、民衆運動を弾圧している。
佐藤正人