■4月7日
★海口市秀英区永興鎮儒東村と純雅村で
朝8時に海口市内を出発し、はじめに海口市秀英区永興鎮儒東村の王鎮寧さん(1932年生)を訪ねました。わたしが前回お会いしたのは、2004年12月でした。
王さんは、永興地域における日本軍の犯罪について、海南省瓊山市政協文史資料委員会編『侵略与反抗』(1995年10月)に「無情砍伐 瘋狂掠奪」、「殺人放火 無悪不作」、「日寇推行奴化教育明謀的破産」を発表しています(「紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』〈2005年5月。36頁〉を参照してください」)。
王鎮寧さんは国道に面した店でお茶を飲んでいましたが、肝臓病で入院して退院したばかりとのことでした。
自宅に戻られてから、王さんは
“日本軍は近くの洪王村、威来でも人を殺した。毎日、人を殺し、家を焼いた。今日
は、自分は退院したばかりなのでそれらの村に案内することができない”、
と残念そうに話しました。
ちょうどこの日は、永興鎮の56村のうちの17村がいっしょになった村祭りの日で、それぞれの村が自分の村の土神像を神輿に積んで練り歩く行列が国道道路を埋め、爆竹が鳴らされ、賑やかでした。
その行列がおわってから、ようやく国道を横断し、儒東村の反対側の純雅村を訪ねました。
広場の木の下で集まっている人が、“純雅村には自然洞窟がたくさんあり、日本軍が来たときそこに隠れた”、と話しました。日本軍は、その広場の近くに駐屯していたそうです。そこは、いまは、学校の広い校庭になっていました。
同行していた海口テレビ局のカメラマンが純雅村の95歳の人を知っているというので話を伺おうとしたのですが、祭りを見に行っていて不在だったので、今回は断念しました。
★澄邁県加楽鎮常樹村で
永興鎮を離れて、澄邁県の県庁所在地である金江鎮で昼食をとった後、午後2時20分ころに加楽鎮常樹村に到着しました。
この村の訪問は研究会としては4回目で、王川法さん(1933年生、83歳)のお宅を訪ねて、再会のあいさつを交わしました。
王さんには常樹村で日本軍に殺された人の名簿を作成していただくようお願いしていましたが、王さんは“名簿をつくって村の幹部に預けた、手元にメモが残っているはずだ”と言って探してくれましたが、見つかりませんでした。
その後、王さんから話を伺いました。王さんははじめに、“父のことを話そうと思うが、思い出すと涙が出てきてしまう”とつらそうに話し出しました。
“日本軍はこの村にも飛行機で3度爆弾を落とした。1940年6月のことだった。
あるとき飴売りが村に来た。その飴売りが帰った後にすぐに日本の飛行機がきて爆弾
を落とした。はじめに合図の信号の爆弾が落とされた。常樹村は国民党の拠点で、この
村の近くに国民党の幹部が駐在していたので、飴売りを装ったスパイがそれを突き止め、
攻撃してきたのではないか。爆撃は国民党幹部が駐屯していた家を狙って行なわれた。
この爆撃で村人の何十人かが死んで、家畜も殺された。
その後、日本軍が攻めてきた。国民党(文昌のほうから撤退してきた)は反撃したが、
弱かった。それで村人が逃げようとした時すでに日本軍に包囲され逃げられずに機関銃
で掃射された。村人が200人ほど殺された。銃剣で刺殺された人よりも銃殺された人が
多かった。近郊の村は抵抗せずに降参したので日本軍はひどいことはしなかったが、こ
の村は抗日部隊がこの村に駐留していたために、日本軍に降伏すると言えなかったので、
日本軍は多くの村人を虐殺した。
日本兵は軍帽をかぶり、軍帽に迷彩のための木の枝を挿していた。わたしの家に2~4
人の兵士が入ってきて、わたしの父を家の外に引っ張り出した。そして父を国民党と疑
ったのか、「国民党員をだせ」と命令したが、
父は「自分は農民だ、国民党の事は知らない」と言ったところ、家の近くの石のある
ところで両手両足を広げさせられて銃剣で両脇から剣を差し込まれて殺された。わたし
は目の前で父が殺されるところを見た。そのとき9歳だった。今でも父の話をすると涙が
出てくる。父は農業に熱心で、畑のことしか考えていなかった。
その後、学校も含めて村の家が焼かれた。
そのとき、兄は15歳で、姉はすでに嫁いでいた。母は解放後に60歳で亡くなった。母
が死んだ事を思い出しても涙が出ないのに、父のことを思い出すと涙が出てくる。
殺された村人の名簿は253名のリストを作った。各家を回って、殺された人の名前、殺
された場所と時間を聴いて作った。名簿を作ろうと思ったきっかけは、研究会の人たち
が村を訪ねてきた時だった。かつて大躍進の時代にも名簿を作ろうとしたことがあった
が、メモがどこかに行ってしまった。今回作った名簿は村長が携帯電話に写していった
が、もとの名簿がどこにあるかわからなくなってしまった。
わたしは日本軍の統治のために学校に行けず、解放後22歳になってようやく村の近く
の小学校に入学することができた。成績は一番だった。当時は、ほかに、同じように
小学校にいけなかった成人が多数いたが、全員を受け入れることができず、16歳までの
人に限って受け入れた”。
その後、家を出て、王さんの父が殺された石のある場所に行きました。横が1メートルほど、縦が40センチほどで、厚さが10センチほどの細長い石でした。
★澄邁県加楽鎮長嶺村で
その後、加楽鎮の長嶺村を訪れ、劉青進さん(81歳)と陳楊宣さん(1917年生)に話を伺いました。
劉青進さんの話。
“日本軍が来たときは9歳だった。飛行機が来て、爆弾を3個落とした。
日本軍は2回来て、家を焼いて、人を殺した。生活は大変だった。
おなかが痛くて山に逃げられなかった高齢の人がつかまって殺された。
日本軍が来たとき、わたしの家族は逃げることできたが、村に戻った時、家を焼か
れたのを見て、母は家の入口で悲しみのあまり気落ちして亡くなった。母の年齢は、
はっきり覚えていないが、40歳~50歳くらいだった。
暮らしは大変だった。父がわたしを連れて、よその村で物乞いをして生き延びた。
日本軍がいなくなった時はうれしかった”。
陳楊宣さんの話。
“1939年2月に、わたしが22歳の時に日本軍は海口に上陸した。それからこの村に日
本軍は飛行機で爆弾を落とした。爆弾が3個落ちて、一人の女性が殺された。孫をお
ぶっていた女性で、孫は助かったがその女性は死んだ。
その3日後に日本軍が村に侵入し、家に火を付けた。村人は山に逃げた。当時30軒
ほどの家があったが、日本軍によってほとんど焼かれて、残った家は6軒だけだった。
壁はレンガや石でも、屋根は木材を使っていたので、よく燃えた。米も燃やされた。
あの頃のことを思い出すと怖い。学校もすべて閉鎖された。日本軍がいない時は村
で塾を開いて自分もそこで勉強した。わたしは塾で勉強して成績が良く文字が書けた
ので、国民党に参加しないかと誘われたが、入隊すれば命はないので、断った。父は
参加をすすめたが、兄は反対した。おまえは家を放ったらかして国民党に入りたいの
か、と兄に言われた。父は賛成して国民党の服などを用意した。
村で国民党に入ったのは二人だった。わたしは国民党の兵士になったのではない。
国民党のためにお金や米を集める仕事をした。国民党からむりやり米や食糧を出すよ
うに言われたこともあった。
日本軍は村に何回も入ってきた。村で日本軍に殺されたのは4人だった。ひとりは爆
弾で殺されたおばあさん。
ひとりは日本軍が村に侵入してきたときおなかの具合が悪くて逃げられずに家の入
口で殺された。ひとりは国民党が発行した紙幣を使ったのを見つかって殺された。ひ
とりは家を燃やされた時に殺された。
日本軍をこの目で見たのは、最初に村から逃げた時に見たのと、そのあと村に戻っ
て良民証をもらったときに見た。日本兵はみな同じくらいの背丈だった。
日本軍の仕事は、自分の代わりに弟が行った。弟は12歳で、まだ子供だから、いじ
められないためだ。弟は10歳年下だった。大人が行くとひどく殴られた。仕事は道路
工事で、道を開く仕事だった。金は一切支払われず、食べ物が少し出ただけだった。
劉青進さんの父の弟は、昌江の石碌鉱山で働かされ、鉱山労働や道路工事をしたこ
とがある。また、村の人が臨高で塩の商売をしていた時に殺されたことがある。塩の
取引は当時禁止されていた。
日本軍がいた時は、飛行機が飛んできて、帰ったかと思うとまた飛んできて、逃げ
られず、本当にこわかった。
この村に国民党がいたために、この村が狙われて爆弾を落とされた。日本軍が来て
からは米を供出させられた。
日本軍がいなくなった時は本当にうれしかった。日本軍が帰った後、武器は国民党
に渡した。そのあと、国民党と共産党の争いがたくさんあった。
みんな死んでしまったので、昔のことを知っている人はほとんどいなくなってしま
った”。
斉藤日出治 記
★海口市秀英区永興鎮儒東村と純雅村で
朝8時に海口市内を出発し、はじめに海口市秀英区永興鎮儒東村の王鎮寧さん(1932年生)を訪ねました。わたしが前回お会いしたのは、2004年12月でした。
王さんは、永興地域における日本軍の犯罪について、海南省瓊山市政協文史資料委員会編『侵略与反抗』(1995年10月)に「無情砍伐 瘋狂掠奪」、「殺人放火 無悪不作」、「日寇推行奴化教育明謀的破産」を発表しています(「紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』〈2005年5月。36頁〉を参照してください」)。
王鎮寧さんは国道に面した店でお茶を飲んでいましたが、肝臓病で入院して退院したばかりとのことでした。
自宅に戻られてから、王さんは
“日本軍は近くの洪王村、威来でも人を殺した。毎日、人を殺し、家を焼いた。今日
は、自分は退院したばかりなのでそれらの村に案内することができない”、
と残念そうに話しました。
ちょうどこの日は、永興鎮の56村のうちの17村がいっしょになった村祭りの日で、それぞれの村が自分の村の土神像を神輿に積んで練り歩く行列が国道道路を埋め、爆竹が鳴らされ、賑やかでした。
その行列がおわってから、ようやく国道を横断し、儒東村の反対側の純雅村を訪ねました。
広場の木の下で集まっている人が、“純雅村には自然洞窟がたくさんあり、日本軍が来たときそこに隠れた”、と話しました。日本軍は、その広場の近くに駐屯していたそうです。そこは、いまは、学校の広い校庭になっていました。
同行していた海口テレビ局のカメラマンが純雅村の95歳の人を知っているというので話を伺おうとしたのですが、祭りを見に行っていて不在だったので、今回は断念しました。
★澄邁県加楽鎮常樹村で
永興鎮を離れて、澄邁県の県庁所在地である金江鎮で昼食をとった後、午後2時20分ころに加楽鎮常樹村に到着しました。
この村の訪問は研究会としては4回目で、王川法さん(1933年生、83歳)のお宅を訪ねて、再会のあいさつを交わしました。
王さんには常樹村で日本軍に殺された人の名簿を作成していただくようお願いしていましたが、王さんは“名簿をつくって村の幹部に預けた、手元にメモが残っているはずだ”と言って探してくれましたが、見つかりませんでした。
その後、王さんから話を伺いました。王さんははじめに、“父のことを話そうと思うが、思い出すと涙が出てきてしまう”とつらそうに話し出しました。
“日本軍はこの村にも飛行機で3度爆弾を落とした。1940年6月のことだった。
あるとき飴売りが村に来た。その飴売りが帰った後にすぐに日本の飛行機がきて爆弾
を落とした。はじめに合図の信号の爆弾が落とされた。常樹村は国民党の拠点で、この
村の近くに国民党の幹部が駐在していたので、飴売りを装ったスパイがそれを突き止め、
攻撃してきたのではないか。爆撃は国民党幹部が駐屯していた家を狙って行なわれた。
この爆撃で村人の何十人かが死んで、家畜も殺された。
その後、日本軍が攻めてきた。国民党(文昌のほうから撤退してきた)は反撃したが、
弱かった。それで村人が逃げようとした時すでに日本軍に包囲され逃げられずに機関銃
で掃射された。村人が200人ほど殺された。銃剣で刺殺された人よりも銃殺された人が
多かった。近郊の村は抵抗せずに降参したので日本軍はひどいことはしなかったが、こ
の村は抗日部隊がこの村に駐留していたために、日本軍に降伏すると言えなかったので、
日本軍は多くの村人を虐殺した。
日本兵は軍帽をかぶり、軍帽に迷彩のための木の枝を挿していた。わたしの家に2~4
人の兵士が入ってきて、わたしの父を家の外に引っ張り出した。そして父を国民党と疑
ったのか、「国民党員をだせ」と命令したが、
父は「自分は農民だ、国民党の事は知らない」と言ったところ、家の近くの石のある
ところで両手両足を広げさせられて銃剣で両脇から剣を差し込まれて殺された。わたし
は目の前で父が殺されるところを見た。そのとき9歳だった。今でも父の話をすると涙が
出てくる。父は農業に熱心で、畑のことしか考えていなかった。
その後、学校も含めて村の家が焼かれた。
そのとき、兄は15歳で、姉はすでに嫁いでいた。母は解放後に60歳で亡くなった。母
が死んだ事を思い出しても涙が出ないのに、父のことを思い出すと涙が出てくる。
殺された村人の名簿は253名のリストを作った。各家を回って、殺された人の名前、殺
された場所と時間を聴いて作った。名簿を作ろうと思ったきっかけは、研究会の人たち
が村を訪ねてきた時だった。かつて大躍進の時代にも名簿を作ろうとしたことがあった
が、メモがどこかに行ってしまった。今回作った名簿は村長が携帯電話に写していった
が、もとの名簿がどこにあるかわからなくなってしまった。
わたしは日本軍の統治のために学校に行けず、解放後22歳になってようやく村の近く
の小学校に入学することができた。成績は一番だった。当時は、ほかに、同じように
小学校にいけなかった成人が多数いたが、全員を受け入れることができず、16歳までの
人に限って受け入れた”。
その後、家を出て、王さんの父が殺された石のある場所に行きました。横が1メートルほど、縦が40センチほどで、厚さが10センチほどの細長い石でした。
★澄邁県加楽鎮長嶺村で
その後、加楽鎮の長嶺村を訪れ、劉青進さん(81歳)と陳楊宣さん(1917年生)に話を伺いました。
劉青進さんの話。
“日本軍が来たときは9歳だった。飛行機が来て、爆弾を3個落とした。
日本軍は2回来て、家を焼いて、人を殺した。生活は大変だった。
おなかが痛くて山に逃げられなかった高齢の人がつかまって殺された。
日本軍が来たとき、わたしの家族は逃げることできたが、村に戻った時、家を焼か
れたのを見て、母は家の入口で悲しみのあまり気落ちして亡くなった。母の年齢は、
はっきり覚えていないが、40歳~50歳くらいだった。
暮らしは大変だった。父がわたしを連れて、よその村で物乞いをして生き延びた。
日本軍がいなくなった時はうれしかった”。
陳楊宣さんの話。
“1939年2月に、わたしが22歳の時に日本軍は海口に上陸した。それからこの村に日
本軍は飛行機で爆弾を落とした。爆弾が3個落ちて、一人の女性が殺された。孫をお
ぶっていた女性で、孫は助かったがその女性は死んだ。
その3日後に日本軍が村に侵入し、家に火を付けた。村人は山に逃げた。当時30軒
ほどの家があったが、日本軍によってほとんど焼かれて、残った家は6軒だけだった。
壁はレンガや石でも、屋根は木材を使っていたので、よく燃えた。米も燃やされた。
あの頃のことを思い出すと怖い。学校もすべて閉鎖された。日本軍がいない時は村
で塾を開いて自分もそこで勉強した。わたしは塾で勉強して成績が良く文字が書けた
ので、国民党に参加しないかと誘われたが、入隊すれば命はないので、断った。父は
参加をすすめたが、兄は反対した。おまえは家を放ったらかして国民党に入りたいの
か、と兄に言われた。父は賛成して国民党の服などを用意した。
村で国民党に入ったのは二人だった。わたしは国民党の兵士になったのではない。
国民党のためにお金や米を集める仕事をした。国民党からむりやり米や食糧を出すよ
うに言われたこともあった。
日本軍は村に何回も入ってきた。村で日本軍に殺されたのは4人だった。ひとりは爆
弾で殺されたおばあさん。
ひとりは日本軍が村に侵入してきたときおなかの具合が悪くて逃げられずに家の入
口で殺された。ひとりは国民党が発行した紙幣を使ったのを見つかって殺された。ひ
とりは家を燃やされた時に殺された。
日本軍をこの目で見たのは、最初に村から逃げた時に見たのと、そのあと村に戻っ
て良民証をもらったときに見た。日本兵はみな同じくらいの背丈だった。
日本軍の仕事は、自分の代わりに弟が行った。弟は12歳で、まだ子供だから、いじ
められないためだ。弟は10歳年下だった。大人が行くとひどく殴られた。仕事は道路
工事で、道を開く仕事だった。金は一切支払われず、食べ物が少し出ただけだった。
劉青進さんの父の弟は、昌江の石碌鉱山で働かされ、鉱山労働や道路工事をしたこ
とがある。また、村の人が臨高で塩の商売をしていた時に殺されたことがある。塩の
取引は当時禁止されていた。
日本軍がいた時は、飛行機が飛んできて、帰ったかと思うとまた飛んできて、逃げ
られず、本当にこわかった。
この村に国民党がいたために、この村が狙われて爆弾を落とされた。日本軍が来て
からは米を供出させられた。
日本軍がいなくなった時は本当にうれしかった。日本軍が帰った後、武器は国民党
に渡した。そのあと、国民党と共産党の争いがたくさんあった。
みんな死んでしまったので、昔のことを知っている人はほとんどいなくなってしま
った”。
斉藤日出治 記