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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「現地調査」・聞きとりの意味と方法 2

2006年11月20日 | 紀州鉱山
四、証言を聞いた人は、聞いた責任を問われる

 鄭惠瓊氏は、わたしたちについて、
   「口述資料収集にたいする専門的な教育の機会がなかった日本側面談者」(300頁)と述べている。
 「口述資料収集にたいする専門的な教育」とは、なにをさすのか?

 わたし達は、韓国でも、日本でも、海南島でも、多くの方から証言を聞かせていただくことができた。その証言によって、わたしたちは、隠され続けたであろう日本の歴史的犯罪を明らかにすることもできた。

 「口述資料収集作業で、まちがった収集方法について言及するとき、かならず、2回の共同作業を例にあげる」と、鄭惠瓊氏は言うが、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、これまで、文書資料を集めるように、「口述資料」の「収集作業」をおこなってきたのではない。 

 わたしたちは、会の「現地調査」が完璧だとはもちろん考えておらず、常に、方法的にも自己検証しつつ、試行を繰り返しながら、歴史の真実を明らかにしようとしてきた。

 鄭惠瓊氏は、こうも述べている。
  「もっとも問題になったのは、日本側面談者の頑固な態度であった。‘紀州鉱山の朝鮮人労働者はこうこうであった’という先入観で武装をしたために、望まない答弁が制限されることもあり、文献資料収集にたいする熱望が強かった。もちろん当時は、一般的に口述資料が文献資料の補完的な意味に局限されており、特に補償のための証拠確保のためには文献資料だけが実質的な効力があったためである」(300頁)。

 わたしたちは、韓国に文献資料を求めて行ったのではない。そのことは、鄭惠瓊氏も知っていることである。しかし、証言の過程で、証拠になる文書資料の存在が明らかになれば、その閲覧をお願いするのはあたりまえのことだろう。

 わたしたちは、平昌のキムヒョンイ氏が、石原産業の「募集チラシ」を持っているというので、石原産業が強制連行を認めておらず、認めさせるための証拠になるかもしれないので、見せてもらいたいとお願いしたが、拒否された。

 キムヒョンイ氏が拒否したのは、日本政府が強制連行・強制労働の責任を取っていないという状況のなかで、当時、裁判で日本政府に賠償金を支払わせると言って、犠牲者から裁判の「手付金」を詐取する韓国人がいて、キムヒョンイ氏がその詐欺の被害にあっていたからであった。

 わたしたちは、このとき、紀州鉱山の真実を明らかにするという意図を信じてもらえない以上、やむをえないことであり、韓国でこのような調査の意義が広く認められるようになれば、閲覧も可能になるだろうと考えた。

 鄭惠瓊氏は、「‘紀州鉱山の朝鮮人労働者はこうこうであった’という先入観で武装をしたために、望まない答弁が制限されることもあり……」というたぐいの虚言を繰り返している。

 韓国でも日本でも、歴史研究・歴史叙述の分野において、証言(oral testimony)は、軽視されている。わたしたちは、文書資料が廃棄・焼却・隠蔽されている日本の侵略犯罪を追及する際には、とくに証言を重視しなければならないと考えてきた。

 2001年12月に、ソウルで開かれたシンポジウム「口述資料で復元する強制連行の歴史」(主催:日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法制定推進委員会)に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員金靜美は、「近現代史認識と歴史変革――紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働の事実追求の過程で――」と題する報告を行なった。金靜美へのこのシンポジウム参加要請は、鄭惠瓊氏からきたのであり、このシンポジウムには、鄭惠瓊氏も参加していた。

 そのとき、金靜美は、「近現代史研究における聞きとり」や「強制連行・強制労働の経験を聞きとる意味」について、具体的に韓国や海南島での経験を総括しつつ、

  「聞きとりは、あらたな出会いと共闘のきずなを発見することであり、現在と過去をつなぐあらたな関係を築いていくことである」

と述べている。この考えは、金靜美個人のものではなく、紀州鉱山の真実を明らかにする会がそれまでの調査と研究の経験によって確信してきたことである。わたしたちは、証言者とそのような関係を築いていく努力を重ねてきた。

 わたしたちの力が足りないことは、わたしたち自身が痛感していることである。だからこそ、わたしたちは、話を聞かせていただいているときに、確認はすることはあっても、証言を「制限」するようなことはしない。もし、わたしたちが、そのような姿勢をもっているなら、これまでのわたしたちの活動はなりたってこなかっただろう。

 2001年12月のシンポジウムの際、金靜美は、つぎのようにも述べている。

  「強制連行され強制労働させられた人、残された家族……を訪問し、一人ひとりに話しを聞かせていただくとき、聞きとる主体のありかたが問われる。証言を聞くとき、聞く人は、聞いた責任を問われる。聞きとってどうするのか、なんのために聞きとりをするのか。
  聞いてどうするのか。その問いに応える姿勢をもたないで、聞きとりをすることは、証言者を傷つけることにもなりかねない。聞きとりをするとき、聞きとりをするひとは、自分のことを語らなければならないのではないか。自己のことを語ることなしに、一方的に他者の人生を聞こうとしてはならないのではないか。聞きとりすることは、会話することである。
  わたしたちが、日本に強制連行され故郷にかえった人、日本軍の性奴隷とされたことのある女性……から、その人生の経験を聞くことは、証言者の生きてきた軌跡と質問する自分たちの生きてきた軌跡をかさねあわせ、自分たちの未来をたしかめることなのだと思う。
  聞きとりとは、聞きとるものが自己を問うことであり、それは、主体の変革、社会の変革につながる行為である。この問は、歴史を学んでどうするのかという問につながっている」。