「現地調査」・聞きとりの意味と方法
鄭惠瓊氏の「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共に行なった記憶探し」について
はじめに
一、紀州鉱山の真実を明らかにする会のあゆみと会の基本姿勢
二、証言者と聞きとり者との共同作業
三、軽率な事実誤認、不確かな記憶、あるいは虚言、あるいは誹謗・中傷
四、証言を聞いた人は、聞いた責任を問われる
五、証言の公開と共有
六、共同調査のあり方
おわりに
はじめに
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、これまで韓国で、2回(数日間)、鄭惠瓊氏と共に聞きとり調査をおこなったことがある。
その鄭惠瓊氏が、近著『日帝末期における朝鮮人強制連行の歴史――史料研究――』(景仁文化社、2003年9月)で、「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共におこなった記憶探し」と題する小節の末部に、こう書いている。
「筆者は、口述資料収集作業で、まちがった収集方法について言及するとき、かならず、2回の共同作業を例にあげる。録取文作成はもちろん、平昌と安東の作業が、‘口述者が冷蔵庫に入れた飲料水のようにいつでも必要なときに取り出して飲むことができる’式の収集方法であったという心残りを振り払うことができないためである」(309頁)。
「‘口述者が冷蔵庫に入れた飲料水のようにいつでも必要なときに取り出して飲むことができる’式の収集方法」という表現は、ほとんど意味不明だが、「口述者」の証言を「冷蔵庫に入れた飲料水」に例えることができる鄭惠瓊氏の感性(思想性といってもよい)が、ここには示されている。
わたしたちは、このような鄭惠瓊氏のことばを読んで、悲しくさえあった。
また、鄭惠瓊氏が同行していた時に証言をしてくださった方がた、そして、その方がたに出会うまで、協力と助言を惜しまなかった方がたに対し、たいへん申し訳なく思った。
紀州鉱山の真実を明らかにする会が、強制連行・強制労働の歴史的事実を明らかにしようとして、おこなった韓国での「現地調査」に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員ではなくとも、参加した仲間が、こう表現したことについては、会にも責任があるだろう。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、鄭惠瓊氏が同行した韓国での「現地調査」にさいして、証言をしてくださった方がた、世話になった方がたに、謝罪する。
そのうえで、「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共におこなった記憶探し」と題された文章に対する批判を、わたしたちは行なう。それは、日本による強制連行・強制労働の歴史解明と責任追及のための、韓国と日本での民衆の共同作業を少しでも深めるためである。
一、紀州鉱山の真実を明らかにする会のあゆみと会の基本姿勢
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年2月、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会を母体にして、結成された。この結成集会には、韓国から洪鍾泌氏が参加した。会創立は、『東亜日報』3月1日号でも報道された(「紀州鉱山強制労役明らかに 韓日学者市民20余名会結成」)。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会は、1926年1月3日、李基允氏と?相度氏が、木本町、木本警察が関与し、地域日本人住民によって虐殺された「事件」の真相を明らかにし、木本町(現、熊野市)に謝罪させ、ふたりの追悼碑を建立することなどを目的として、1989年6月に、大阪で、?相度氏の二男?敬洪氏を迎えて結成された民衆組織である(1)。
(1)‘木本事件’については、キム チョンミ「三重縣木本における朝鮮人襲撃・虐殺について(1926年1月)」、在日朝鮮人運動史?究会編『在日朝鮮人史研究』18號、アジア問題?究所、1988年、參照。
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会は、1994年に、李基允氏と?相度氏を追悼するための碑を、熊野市に建て、その後、毎年11月に熊野市で、追悼集会と、‘木本事件’および紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真展を開催している。また、『会報』を39号(2003年12月25日付)まで出している。
三重県紀和町にある紀州鉱山には、1939年ころから当時日本の植民地とされていた朝鮮各地から、労働者として多くの人びとが働かされた。紀州鉱山で働かされた朝鮮人は、1000人以上と思われるが、そのうち、これまでわたしたちが氏名、本籍を把握しているのは、1946年に石原産業が三重県に提出した文書(「紀州鉱山1946年報告書」)に記載されている、1942年以後に強制連行された875人のみである。
紀州鉱山で命をうしなわされた朝鮮人の人数は、紀和町の寺院に残されている「過去帳」や石原産業の労働組合が作成した死亡者名簿(『忌辰録』)などによれば、30人を超える。
しかし、『紀和町史』(紀和町史編纂委員会編、紀和町発行、1993年)をはじめ、この地域の地方史では、朝鮮人の強制連行については、 ほとんど記述されてこなかった。紀和町ではいまも、当時紀州鉱山で朝鮮人が過酷な労働を強いられていたことを見聞した人が多数いるにも拘わらず(2)。
(2)日本軍がタイ人、ビルマ人、中国人、インドネシア人、マラヤ人のほか、イギリス軍・オーストラリア軍・オランダ軍・アメリカ軍捕虜に、過酷な労働を強制し、多くの人が死んだタイ―ビルマ間の「泰緬鉄道」工事で生き残ったイギリス軍捕虜300人が、1944年6月から紀州鉱山で強制労働させられた。
現在、紀和町には、紀州鉱山で死んだ16人のイギリス軍捕虜の墓があり、「紀和町指定文化財」とされている。『紀和町史』にも、イギリス軍捕虜については、詳細に記述されている。
紀州鉱山の真実を明らかにする会では、会の結成の準備段階から、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関して、紀和町での聞きとり調査や文書資料の収集を始めていた。
1996年10月に、佐藤正人は、紀州鉱山に連行された朝鮮人を訪ねて、江原道麟蹄郡に行った。その後、1996年12月18日~21日に、紀州鉱山に連行された朝鮮人を訪ねて、金静美と佐藤正人が江原道旌善郡に行った。
1997年2月の紀州鉱山の真実を明らかにする会結成後、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が、1997年5月1日~7日に江原道麟蹄郡に、同年8月8月6日~8月10日に江原道平昌郡に、1998年8月19日~23日に慶尚北道安東郡・軍威郡に、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人を訪ねた。
紀州鉱山の真実を明らかにする会が韓国に調査に行った理由のひとつは、紀州鉱山を経営していた石原産業と、紀州鉱山がある紀和町が朝鮮人強制連行という事実を認めていないからである。わたしたちは韓国で、実際に強制連行された方がたから、当時の状況を聞きたいと考えたのである。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、結成直後から、紀和町および紀和町教育委員会との話し合いを重ね、1998年11月には、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の事実を示す資料を紀和町の鉱山記念館に展示することを約束させた。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国でも日本でも、「現地調査」を、「口述資料収集」のためではなく、事実を明らかにし、歴史的犯罪の責任者に責任をとらせようとする民衆運動として行なってきた。
日本による強制連行・強制労働の歴史的事実の解明は、朝鮮人と日本人によって、意味がちがう。朝鮮人にとっては、自分たちの歴史を明らかにし、二度と侵略を繰り返させないための作業であり、日本人にとっては、日本政府と日本人の侵略責任を問い、自分たちの歴史的責任の一端を果たすための作業である。
わたしたちの会では、日本の侵略犯罪の歴史的事実を解明するという点で一致し、朝鮮人と日本人の共同作業が可能となっている。会員は自主的に会の活動に参加し、会の活動は、基本的に会員の合意をもって進められる。このことは、会のありかたの基本原則である。
わたしたちの会では、国民国家日本の侵略責任を、植民地支配責任、戦争責任、戦後責任の3つに分けて考えている。
戦後責任とは何か。日本のアジア太平洋侵略の第一責任者、天皇の侵略犯罪を徹底的に追及できず、天皇制を存続させている責任。「ヒノマル」「キミガヨ」「元号」を存続させている責任。日本政府に、植民地支配責任と侵略責任をとらせ、謝罪させ、賠償させることができない責任。日本のさらなる他地域・他国侵略を阻止できない責任などである。
二、証言者と聞きとり者との共同作業
これまで、「紀州鉱山1946年報告書」に記された人たちのうち、韓国に本籍がある方がたの消息は、ほぼたどることができたが、韓国でのわたしたちの「調査」は、まだまだ不十分なものである。
わたしたちは、話を聞かせていただいた何人もの方がたから、「話を聞いてどうするのか」と問われた。わたしたちは、日本では、日本の朝鮮侵略史が正確に伝えられていなかったり、歪曲されたり、さらには、隠されていること、を説明し、私たちの力量では、いますぐに具体的に裁判提起などはできないが、まず事実を明らかにしたいのだ、事実を明らかにすることによって、日本の地域のすみずみにまで浸透している、侵略史観を変革したい、それが、日本政府・軍・企業・民衆のアジア太平洋の民衆に与えた侵略犯罪にたいする、きちんとした謝罪・賠償につながると思うと述べ、協力をお願いした。
わたしたちは、証言を聞かせていただくとき、証言してくださる方が、積極的に話してくださることを願っている。証言者がわたしたちを信頼してくれなければ、そのようなことは不可能である。
わたしたちの聞き取りの態度について、鄭惠瓊氏は、こう書いている。
「さきに現地調査を始めていた佐藤先生が尹老人に会って、強硬な口調で“かならず補償を受け取らなければなりません”と力説した結果、一行が到着したとき、証言は不可能な状況に置かれていた」(301頁)
「まるで“なぜお前だけ殴られなかったのか”という叱責を超えて、“殴られた”といわなければ終わらない態勢は、追及に近かった」(302頁)
これらの鄭惠瓊氏の「証言」は、すべて虚言である。
「佐藤先生が尹老人に会って、強硬な口調で“かならず補償を受け取らなければなりません”と力説した」と、鄭惠瓊氏は自分が見ていたかのように書いているが、佐藤正人のそのような発言を、鄭惠瓊氏はどのようにして確認したのか。そもそもここで鄭惠瓊氏が言っている「尹老人」とは、誰のことか。
なぜ、鄭惠瓊氏がこのような虚言を繰り返すのかはは、いまのところ、わたしたちには、わからない。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年8月に韓国で聞き取りする2か月前に、海南島の「朝鮮村」などではじめて聞き取りを行なった。その際にも、わたしたちは、証言者との信頼関係を深めることを当然だと考えていた。それは、証言を聞かせていただくかどうかという以前の、モラルの問題である。聞き手が「望まない答弁を制限」したり、「強硬な口調」で語るならば、証言をきちんと聞かせていただけないのは当然である。
聞きとりは、証言者と聞きとり者との共同作業である。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年6月以後これまで、海南島各地で、同じ人から2回~6回、証言を聞かせていただいている。それは、証言者との信頼関係がなければできない事である。
証言してくださる方との信頼関係は、その方が生活している地域の人びととの信頼関係なしには深まらない。1996年10月に、佐藤正人がひとりで、はじめて江原道の麟蹄郡に行ったとき、麟蹄邑事務所の張貴男氏と麒麟面事務所の安浩烈氏は、自分の父親のことであるかのように、熱心に、紀州鉱山に連行された人を探して、案内してくださった。3泊4日の短い間だったが、地域のおおくの人びとに助けられて、このとき佐藤正人は、紀州鉱山に強制連行された4人の方や、九州、福島、岡山の炭鉱や造船所に強制連行された4人の方から話を聞かせていただくことができた。
三、軽率な事実誤認・不確かな記憶、あるいは虚言、あるいは誹謗・中傷
鄭惠瓊氏は、金靜美が紀州鉱山の真実を明らかにする会の「会長」だと書いているが、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「会長」を置いていない。「会長」を置くか否かは、会の組織原則にかかわることである。紀州鉱山の真実を明らかにする会が「会長」や「代表」を置かないのは、会員の一人ひとりが、会に対して平等に責任を負うという原則に基づいている。
わたしたちはひとつの民衆組織を形成して、日本に活動基盤を置いているために、韓国に行き、すべての方がたから、強制連行・強制労働の体験を聞くことは不可能である。
わたしたちは、韓国に住んでいて、強制連行・強制労働に関心を持つ人に、継続的な調査を自主的にすすめてくれることを期待して、鄭惠瓊氏にも歴史的な事実を明らかにするための共同調査を提案した。
それに応じて、鄭惠瓊氏は、1997年8月と、1998年8月に、わたしたちの「現地調査」に参加した。
鄭惠瓊氏は、「まちがった収集方法について言及するとき、かならず、2回の共同作業を例にあげる」と言っているが、鄭惠瓊氏が参加したのは、わたしたちの韓国での5回の「現地調査」のうちの2回であり、2回とも全行程には参加していない(1997年8月4日~10日のうち7日~9日まで、1998年8月19日~23日のうち、19日~20日まで)。
鄭惠瓊氏は、いっしょに2回、「現地調査」をした紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員である佐藤正人について、こう書いている。
「佐藤先生は、自分の考えと原則をかんたんには変えない人で、筆者は常に不平を感じていた。そこへ、時々出す韓国社会にたいする不信感(韓国人はよくウソをつき、信頼できない存在だという考えから出てくるいろいろな表現)は、程度が過ぎており、一行に親和感に阻害要素となっていた」(303頁)。
もし、鄭惠瓊氏が書いているような言動を、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員の誰かが取ったなら、まず、会で問題にしなければならない。その前に、現場で問題になっていただろう。しかし、日本からの他の参加者は佐藤正人がこういう言動を取ったことは見聞していない。そのようなことは、ありえないことである。
鄭惠瓊氏の「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共におこなった記憶探し」での佐藤正人に対する記述は、動機不明の誹謗・中傷であるが、ここで鄭惠瓊氏は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、民族差別をする日本人を会員とし、そのような差別者と共に活動していると言っているのである。
紀州鉱山の真実を明らかにする会には、数人の朝鮮人会員がいる。日本に定住する朝鮮人会員は、日常的に絶え間なく日本への同化攻勢があるなかで、日本の侵略犯罪を明らかにする活動をおこなっている。
紀州鉱山の真実を明らかにする会の日本人会員が、朝鮮人差別者であると主張することは、その日本人と共に活動する朝鮮人会員を、日本人の朝鮮人差別を批判できない“親日派”だと中傷することである。
鄭惠瓊氏が、どうしてこのような発言ができたのか、不思議である。鄭惠瓊氏は、自分の発言の意味を理解できないで発言したとも思われる。わたしたちは、要求はしないが、鄭惠瓊氏は、もし自分の社会的発言には責任をとるべきだと考えることできるなら、自発的に謝罪したほうがいいだろう。
朝鮮人会員李在一や金靜美は、これまで、さまざまの場や文書で、日本人歴史研究者や知識人のナショナリズムを分析し、批判している。
わたしたちは、韓国でも、海南島でも、じつに多くの地域の人びとに助けられて、「現地調査」をすすめてきたが、とくに、朴東洛氏との出会いと別れは、心に刻まれている。
1997年8月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、江原道平昌郡にいった。「紀州鉱山1946年報告書」には平昌郡から160人が紀州鉱山に強制連行され、そのうち59人が「逃亡」していた。このとき、佐藤正人は、あらかじめ、他のメンバーが来る2日前に平昌邑に着き、一人で、邑事務所や郡図書館などのほか、珍富面、蓬坪面、美灘面、道岩面・龍坪面の面事務所や老人会館を訪ねて、そこで出会った方がたから、たいへん助けられた。
8月6日のことだった。蓬坪面の副面長康基龍氏は、村の各家に電話し、紀州鉱山に強制連行された秋教華氏の住所を教えてくれた。その康基龍氏に案内された食堂で、佐藤正人は、朴東洛氏に出会った。朴東洛氏は、翌7日朝から、大和面と珍富面の老人会などを案内してくださった。
その朴東洛氏に関して、鄭惠瓊氏は、『日帝末期における朝鮮人強制連行の歴史』に「朴東洛先生と平昌」と題する節を設けて、次のように書いている。
「佐藤先生は生存者確認のために立ち寄った面事務所で偶然に朴東洛先生に会ったという。朴東洛先生は、おぼつかない韓国語で名簿の照会を頼んでいる佐藤先生を見て、平素学んできた日本語の実力を発揮し、名簿確認作業を助けるようになったのである」(320頁)。
「‘韓国人がしなければならないことを、日本人がしてくれるので、とてもありがたい’という純粋な熱情から、調査作業を助けてくれた。強制連行の被害者を探すことがなぜ`韓国人が‘しなければならないこと’で、こうしたことをする‘日本人’に感謝を覚えるのがまちがったことではないのかと考えるのに先立って、作業が少しでも楽に進行できるという安堵感がすこしより強かったのは事実である」(320~321頁)。
「その年(1997年)の末……(朴東洛先生が)‘交通事故で亡くなって何日もたっていない’と聞いた」(321頁)。
この鄭惠瓊氏の説明は、朴東洛氏の真意を傷つけるものである。たしかに佐藤正人の朝鮮語の力は、不十分なものではあるが、朴東洛氏は、紀州鉱山の真実を明らかにする会の「現地調査」に、「平素学んできた日本語の実力」によって協力しようとしたのではない。また、「‘韓国人がしなければならないことを、日本人がしてくれるので、とてもありがたい’という純粋な熱情から、調査作業を助けてくれた」というのも、非論理的な推量である。
朴東洛氏は、もちろん、紀州鉱山の真実を明らかにする会が朝鮮人と日本人とによって結成された民衆組織であることを知っていた。朴東洛氏は、わたしたちの会の運動に共感し、協働者として、協力してくれたのである。
わたしたちと朴東洛氏は、1997年8月以後も、ソウルや平昌でなんども会って友情を深め合った。朴東洛氏は、大企業がスキー場造成などで自然を破壊することを怒り、反対していた。朴東洛氏は、蓬坪面を故郷とする李孝石の「そばの花」をわたしたちが読んだことがあると言ったとき、とても嬉しそうだった。その後11月が近づくと、李基允氏とペ相度氏の追悼集会を心にかけて、電話をくださった。紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人の追悼式を、紀州鉱山で行なおうと相談しあってもいた。朴東洛氏は、1999年1月に、交通事故で突然亡くなられた。
鄭惠瓊氏の「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共に行なった記憶探し」について
はじめに
一、紀州鉱山の真実を明らかにする会のあゆみと会の基本姿勢
二、証言者と聞きとり者との共同作業
三、軽率な事実誤認、不確かな記憶、あるいは虚言、あるいは誹謗・中傷
四、証言を聞いた人は、聞いた責任を問われる
五、証言の公開と共有
六、共同調査のあり方
おわりに
はじめに
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、これまで韓国で、2回(数日間)、鄭惠瓊氏と共に聞きとり調査をおこなったことがある。
その鄭惠瓊氏が、近著『日帝末期における朝鮮人強制連行の歴史――史料研究――』(景仁文化社、2003年9月)で、「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共におこなった記憶探し」と題する小節の末部に、こう書いている。
「筆者は、口述資料収集作業で、まちがった収集方法について言及するとき、かならず、2回の共同作業を例にあげる。録取文作成はもちろん、平昌と安東の作業が、‘口述者が冷蔵庫に入れた飲料水のようにいつでも必要なときに取り出して飲むことができる’式の収集方法であったという心残りを振り払うことができないためである」(309頁)。
「‘口述者が冷蔵庫に入れた飲料水のようにいつでも必要なときに取り出して飲むことができる’式の収集方法」という表現は、ほとんど意味不明だが、「口述者」の証言を「冷蔵庫に入れた飲料水」に例えることができる鄭惠瓊氏の感性(思想性といってもよい)が、ここには示されている。
わたしたちは、このような鄭惠瓊氏のことばを読んで、悲しくさえあった。
また、鄭惠瓊氏が同行していた時に証言をしてくださった方がた、そして、その方がたに出会うまで、協力と助言を惜しまなかった方がたに対し、たいへん申し訳なく思った。
紀州鉱山の真実を明らかにする会が、強制連行・強制労働の歴史的事実を明らかにしようとして、おこなった韓国での「現地調査」に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員ではなくとも、参加した仲間が、こう表現したことについては、会にも責任があるだろう。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、鄭惠瓊氏が同行した韓国での「現地調査」にさいして、証言をしてくださった方がた、世話になった方がたに、謝罪する。
そのうえで、「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共におこなった記憶探し」と題された文章に対する批判を、わたしたちは行なう。それは、日本による強制連行・強制労働の歴史解明と責任追及のための、韓国と日本での民衆の共同作業を少しでも深めるためである。
一、紀州鉱山の真実を明らかにする会のあゆみと会の基本姿勢
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年2月、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会を母体にして、結成された。この結成集会には、韓国から洪鍾泌氏が参加した。会創立は、『東亜日報』3月1日号でも報道された(「紀州鉱山強制労役明らかに 韓日学者市民20余名会結成」)。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会は、1926年1月3日、李基允氏と?相度氏が、木本町、木本警察が関与し、地域日本人住民によって虐殺された「事件」の真相を明らかにし、木本町(現、熊野市)に謝罪させ、ふたりの追悼碑を建立することなどを目的として、1989年6月に、大阪で、?相度氏の二男?敬洪氏を迎えて結成された民衆組織である(1)。
(1)‘木本事件’については、キム チョンミ「三重縣木本における朝鮮人襲撃・虐殺について(1926年1月)」、在日朝鮮人運動史?究会編『在日朝鮮人史研究』18號、アジア問題?究所、1988年、參照。
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会は、1994年に、李基允氏と?相度氏を追悼するための碑を、熊野市に建て、その後、毎年11月に熊野市で、追悼集会と、‘木本事件’および紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真展を開催している。また、『会報』を39号(2003年12月25日付)まで出している。
三重県紀和町にある紀州鉱山には、1939年ころから当時日本の植民地とされていた朝鮮各地から、労働者として多くの人びとが働かされた。紀州鉱山で働かされた朝鮮人は、1000人以上と思われるが、そのうち、これまでわたしたちが氏名、本籍を把握しているのは、1946年に石原産業が三重県に提出した文書(「紀州鉱山1946年報告書」)に記載されている、1942年以後に強制連行された875人のみである。
紀州鉱山で命をうしなわされた朝鮮人の人数は、紀和町の寺院に残されている「過去帳」や石原産業の労働組合が作成した死亡者名簿(『忌辰録』)などによれば、30人を超える。
しかし、『紀和町史』(紀和町史編纂委員会編、紀和町発行、1993年)をはじめ、この地域の地方史では、朝鮮人の強制連行については、 ほとんど記述されてこなかった。紀和町ではいまも、当時紀州鉱山で朝鮮人が過酷な労働を強いられていたことを見聞した人が多数いるにも拘わらず(2)。
(2)日本軍がタイ人、ビルマ人、中国人、インドネシア人、マラヤ人のほか、イギリス軍・オーストラリア軍・オランダ軍・アメリカ軍捕虜に、過酷な労働を強制し、多くの人が死んだタイ―ビルマ間の「泰緬鉄道」工事で生き残ったイギリス軍捕虜300人が、1944年6月から紀州鉱山で強制労働させられた。
現在、紀和町には、紀州鉱山で死んだ16人のイギリス軍捕虜の墓があり、「紀和町指定文化財」とされている。『紀和町史』にも、イギリス軍捕虜については、詳細に記述されている。
紀州鉱山の真実を明らかにする会では、会の結成の準備段階から、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関して、紀和町での聞きとり調査や文書資料の収集を始めていた。
1996年10月に、佐藤正人は、紀州鉱山に連行された朝鮮人を訪ねて、江原道麟蹄郡に行った。その後、1996年12月18日~21日に、紀州鉱山に連行された朝鮮人を訪ねて、金静美と佐藤正人が江原道旌善郡に行った。
1997年2月の紀州鉱山の真実を明らかにする会結成後、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が、1997年5月1日~7日に江原道麟蹄郡に、同年8月8月6日~8月10日に江原道平昌郡に、1998年8月19日~23日に慶尚北道安東郡・軍威郡に、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人を訪ねた。
紀州鉱山の真実を明らかにする会が韓国に調査に行った理由のひとつは、紀州鉱山を経営していた石原産業と、紀州鉱山がある紀和町が朝鮮人強制連行という事実を認めていないからである。わたしたちは韓国で、実際に強制連行された方がたから、当時の状況を聞きたいと考えたのである。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、結成直後から、紀和町および紀和町教育委員会との話し合いを重ね、1998年11月には、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の事実を示す資料を紀和町の鉱山記念館に展示することを約束させた。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国でも日本でも、「現地調査」を、「口述資料収集」のためではなく、事実を明らかにし、歴史的犯罪の責任者に責任をとらせようとする民衆運動として行なってきた。
日本による強制連行・強制労働の歴史的事実の解明は、朝鮮人と日本人によって、意味がちがう。朝鮮人にとっては、自分たちの歴史を明らかにし、二度と侵略を繰り返させないための作業であり、日本人にとっては、日本政府と日本人の侵略責任を問い、自分たちの歴史的責任の一端を果たすための作業である。
わたしたちの会では、日本の侵略犯罪の歴史的事実を解明するという点で一致し、朝鮮人と日本人の共同作業が可能となっている。会員は自主的に会の活動に参加し、会の活動は、基本的に会員の合意をもって進められる。このことは、会のありかたの基本原則である。
わたしたちの会では、国民国家日本の侵略責任を、植民地支配責任、戦争責任、戦後責任の3つに分けて考えている。
戦後責任とは何か。日本のアジア太平洋侵略の第一責任者、天皇の侵略犯罪を徹底的に追及できず、天皇制を存続させている責任。「ヒノマル」「キミガヨ」「元号」を存続させている責任。日本政府に、植民地支配責任と侵略責任をとらせ、謝罪させ、賠償させることができない責任。日本のさらなる他地域・他国侵略を阻止できない責任などである。
二、証言者と聞きとり者との共同作業
これまで、「紀州鉱山1946年報告書」に記された人たちのうち、韓国に本籍がある方がたの消息は、ほぼたどることができたが、韓国でのわたしたちの「調査」は、まだまだ不十分なものである。
わたしたちは、話を聞かせていただいた何人もの方がたから、「話を聞いてどうするのか」と問われた。わたしたちは、日本では、日本の朝鮮侵略史が正確に伝えられていなかったり、歪曲されたり、さらには、隠されていること、を説明し、私たちの力量では、いますぐに具体的に裁判提起などはできないが、まず事実を明らかにしたいのだ、事実を明らかにすることによって、日本の地域のすみずみにまで浸透している、侵略史観を変革したい、それが、日本政府・軍・企業・民衆のアジア太平洋の民衆に与えた侵略犯罪にたいする、きちんとした謝罪・賠償につながると思うと述べ、協力をお願いした。
わたしたちは、証言を聞かせていただくとき、証言してくださる方が、積極的に話してくださることを願っている。証言者がわたしたちを信頼してくれなければ、そのようなことは不可能である。
わたしたちの聞き取りの態度について、鄭惠瓊氏は、こう書いている。
「さきに現地調査を始めていた佐藤先生が尹老人に会って、強硬な口調で“かならず補償を受け取らなければなりません”と力説した結果、一行が到着したとき、証言は不可能な状況に置かれていた」(301頁)
「まるで“なぜお前だけ殴られなかったのか”という叱責を超えて、“殴られた”といわなければ終わらない態勢は、追及に近かった」(302頁)
これらの鄭惠瓊氏の「証言」は、すべて虚言である。
「佐藤先生が尹老人に会って、強硬な口調で“かならず補償を受け取らなければなりません”と力説した」と、鄭惠瓊氏は自分が見ていたかのように書いているが、佐藤正人のそのような発言を、鄭惠瓊氏はどのようにして確認したのか。そもそもここで鄭惠瓊氏が言っている「尹老人」とは、誰のことか。
なぜ、鄭惠瓊氏がこのような虚言を繰り返すのかはは、いまのところ、わたしたちには、わからない。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年8月に韓国で聞き取りする2か月前に、海南島の「朝鮮村」などではじめて聞き取りを行なった。その際にも、わたしたちは、証言者との信頼関係を深めることを当然だと考えていた。それは、証言を聞かせていただくかどうかという以前の、モラルの問題である。聞き手が「望まない答弁を制限」したり、「強硬な口調」で語るならば、証言をきちんと聞かせていただけないのは当然である。
聞きとりは、証言者と聞きとり者との共同作業である。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年6月以後これまで、海南島各地で、同じ人から2回~6回、証言を聞かせていただいている。それは、証言者との信頼関係がなければできない事である。
証言してくださる方との信頼関係は、その方が生活している地域の人びととの信頼関係なしには深まらない。1996年10月に、佐藤正人がひとりで、はじめて江原道の麟蹄郡に行ったとき、麟蹄邑事務所の張貴男氏と麒麟面事務所の安浩烈氏は、自分の父親のことであるかのように、熱心に、紀州鉱山に連行された人を探して、案内してくださった。3泊4日の短い間だったが、地域のおおくの人びとに助けられて、このとき佐藤正人は、紀州鉱山に強制連行された4人の方や、九州、福島、岡山の炭鉱や造船所に強制連行された4人の方から話を聞かせていただくことができた。
三、軽率な事実誤認・不確かな記憶、あるいは虚言、あるいは誹謗・中傷
鄭惠瓊氏は、金靜美が紀州鉱山の真実を明らかにする会の「会長」だと書いているが、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「会長」を置いていない。「会長」を置くか否かは、会の組織原則にかかわることである。紀州鉱山の真実を明らかにする会が「会長」や「代表」を置かないのは、会員の一人ひとりが、会に対して平等に責任を負うという原則に基づいている。
わたしたちはひとつの民衆組織を形成して、日本に活動基盤を置いているために、韓国に行き、すべての方がたから、強制連行・強制労働の体験を聞くことは不可能である。
わたしたちは、韓国に住んでいて、強制連行・強制労働に関心を持つ人に、継続的な調査を自主的にすすめてくれることを期待して、鄭惠瓊氏にも歴史的な事実を明らかにするための共同調査を提案した。
それに応じて、鄭惠瓊氏は、1997年8月と、1998年8月に、わたしたちの「現地調査」に参加した。
鄭惠瓊氏は、「まちがった収集方法について言及するとき、かならず、2回の共同作業を例にあげる」と言っているが、鄭惠瓊氏が参加したのは、わたしたちの韓国での5回の「現地調査」のうちの2回であり、2回とも全行程には参加していない(1997年8月4日~10日のうち7日~9日まで、1998年8月19日~23日のうち、19日~20日まで)。
鄭惠瓊氏は、いっしょに2回、「現地調査」をした紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員である佐藤正人について、こう書いている。
「佐藤先生は、自分の考えと原則をかんたんには変えない人で、筆者は常に不平を感じていた。そこへ、時々出す韓国社会にたいする不信感(韓国人はよくウソをつき、信頼できない存在だという考えから出てくるいろいろな表現)は、程度が過ぎており、一行に親和感に阻害要素となっていた」(303頁)。
もし、鄭惠瓊氏が書いているような言動を、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員の誰かが取ったなら、まず、会で問題にしなければならない。その前に、現場で問題になっていただろう。しかし、日本からの他の参加者は佐藤正人がこういう言動を取ったことは見聞していない。そのようなことは、ありえないことである。
鄭惠瓊氏の「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共におこなった記憶探し」での佐藤正人に対する記述は、動機不明の誹謗・中傷であるが、ここで鄭惠瓊氏は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、民族差別をする日本人を会員とし、そのような差別者と共に活動していると言っているのである。
紀州鉱山の真実を明らかにする会には、数人の朝鮮人会員がいる。日本に定住する朝鮮人会員は、日常的に絶え間なく日本への同化攻勢があるなかで、日本の侵略犯罪を明らかにする活動をおこなっている。
紀州鉱山の真実を明らかにする会の日本人会員が、朝鮮人差別者であると主張することは、その日本人と共に活動する朝鮮人会員を、日本人の朝鮮人差別を批判できない“親日派”だと中傷することである。
鄭惠瓊氏が、どうしてこのような発言ができたのか、不思議である。鄭惠瓊氏は、自分の発言の意味を理解できないで発言したとも思われる。わたしたちは、要求はしないが、鄭惠瓊氏は、もし自分の社会的発言には責任をとるべきだと考えることできるなら、自発的に謝罪したほうがいいだろう。
朝鮮人会員李在一や金靜美は、これまで、さまざまの場や文書で、日本人歴史研究者や知識人のナショナリズムを分析し、批判している。
わたしたちは、韓国でも、海南島でも、じつに多くの地域の人びとに助けられて、「現地調査」をすすめてきたが、とくに、朴東洛氏との出会いと別れは、心に刻まれている。
1997年8月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、江原道平昌郡にいった。「紀州鉱山1946年報告書」には平昌郡から160人が紀州鉱山に強制連行され、そのうち59人が「逃亡」していた。このとき、佐藤正人は、あらかじめ、他のメンバーが来る2日前に平昌邑に着き、一人で、邑事務所や郡図書館などのほか、珍富面、蓬坪面、美灘面、道岩面・龍坪面の面事務所や老人会館を訪ねて、そこで出会った方がたから、たいへん助けられた。
8月6日のことだった。蓬坪面の副面長康基龍氏は、村の各家に電話し、紀州鉱山に強制連行された秋教華氏の住所を教えてくれた。その康基龍氏に案内された食堂で、佐藤正人は、朴東洛氏に出会った。朴東洛氏は、翌7日朝から、大和面と珍富面の老人会などを案内してくださった。
その朴東洛氏に関して、鄭惠瓊氏は、『日帝末期における朝鮮人強制連行の歴史』に「朴東洛先生と平昌」と題する節を設けて、次のように書いている。
「佐藤先生は生存者確認のために立ち寄った面事務所で偶然に朴東洛先生に会ったという。朴東洛先生は、おぼつかない韓国語で名簿の照会を頼んでいる佐藤先生を見て、平素学んできた日本語の実力を発揮し、名簿確認作業を助けるようになったのである」(320頁)。
「‘韓国人がしなければならないことを、日本人がしてくれるので、とてもありがたい’という純粋な熱情から、調査作業を助けてくれた。強制連行の被害者を探すことがなぜ`韓国人が‘しなければならないこと’で、こうしたことをする‘日本人’に感謝を覚えるのがまちがったことではないのかと考えるのに先立って、作業が少しでも楽に進行できるという安堵感がすこしより強かったのは事実である」(320~321頁)。
「その年(1997年)の末……(朴東洛先生が)‘交通事故で亡くなって何日もたっていない’と聞いた」(321頁)。
この鄭惠瓊氏の説明は、朴東洛氏の真意を傷つけるものである。たしかに佐藤正人の朝鮮語の力は、不十分なものではあるが、朴東洛氏は、紀州鉱山の真実を明らかにする会の「現地調査」に、「平素学んできた日本語の実力」によって協力しようとしたのではない。また、「‘韓国人がしなければならないことを、日本人がしてくれるので、とてもありがたい’という純粋な熱情から、調査作業を助けてくれた」というのも、非論理的な推量である。
朴東洛氏は、もちろん、紀州鉱山の真実を明らかにする会が朝鮮人と日本人とによって結成された民衆組織であることを知っていた。朴東洛氏は、わたしたちの会の運動に共感し、協働者として、協力してくれたのである。
わたしたちと朴東洛氏は、1997年8月以後も、ソウルや平昌でなんども会って友情を深め合った。朴東洛氏は、大企業がスキー場造成などで自然を破壊することを怒り、反対していた。朴東洛氏は、蓬坪面を故郷とする李孝石の「そばの花」をわたしたちが読んだことがあると言ったとき、とても嬉しそうだった。その後11月が近づくと、李基允氏とペ相度氏の追悼集会を心にかけて、電話をくださった。紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人の追悼式を、紀州鉱山で行なおうと相談しあってもいた。朴東洛氏は、1999年1月に、交通事故で突然亡くなられた。