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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

追悼碑碑文 

2006年02月11日 | 木本事件
 熊野市木本トンネルを見下ろす高台に建立された追悼碑の碑文板には
 下記の碑文が朝鮮語と日本語で記されています。

 1925年1月、三重県が発注した木本トンネルの工事がはじめられました。
この工事には、遠く朝鮮から、もっとも多いときで200人の朝鮮人が働きに
来ていました。
 工事が終わりに近づいた1926年1月2日、朝鮮人労働者のひとりが、さ
さいなけんかから日本人に日本刀で切りつけられました。
 翌1月3日、朝鮮人労働者がそれに抗議したところ、木本の住民が労働者の
飯場をおそい、立ち向かったイ・ギユン氏が殺されました。さらに木本警察署
長の要請をうけて木本町長が召集した在郷軍人らの手によって、ペ・サンド氏
が路上で殺されました。
 その時から3日間、旧木本町や近隣の村々(現熊野市)の在郷軍人会、消防
組、自警団、青年団を中心とする住民は、竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃
などをもって、警察官といっしょになって、山やトンネルに避難した朝鮮人を
追跡し、とらえました。
 木本トンネルは、地域住民の生活を便利にするためのものでした。そのトン
ネルを掘っていた朝鮮人労働者を、地域の住民がおそい、ふたりを虐殺したの
です。さらに、三重県当局は、旧木本町に住んでいたすべての朝鮮人を町から
追い出したのです。
 イ・ギユン氏とペ・サンド氏が、朝鮮の故郷で生活できずに、日本に働きに
こなければならなかったのも、異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすす
められた日本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因でした。
 朝鮮人労働者と木本住民のあいだには、親しい交流も生まれていました。
ペ・サンド氏の長女、フォルスクさんは、当時木本小学校の四年生で、仲のよ
い友だちもできていいました。襲撃をうけたとき、同じ飯場の日本人労働者の
なかには、朝鮮人労働者とともに立ち向かったひともいました。
 わたしたちは、ふたたび故郷にかえることのことのできなかった無念の心を
わずかでもなぐさめ、二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための
一歩として、この碑を建立しました。  

イ・ギユン氏とペサンド氏の追悼碑の建立

2006年02月11日 | 木本事件
追悼碑建立の経緯
  88年9月に私たちの会が発足して以来、お二人の追悼碑を建立することを
第一の目標に活動してきましたが、当初はこの追悼碑を熊野市とともに建立する
という目標を立てて活動してきました。事件に関与した行政と熊野市民がこの
事件の歴史的意味を自ら問い直すということに碑を建立する意味があると考えた
からです。しかしながら、結局、私たちの会だけで碑を建立したのです。
私たちの会が再三、熊野市に対して碑の建立に対する行政の責任と意義を
申し入れ、話し合いを重ねた結果、一度は熊野市は碑の建立に前向きな姿勢を
見せ、200万円の予算を計上し、碑の建立予定地まで決定して、共同の建立
作業が実現する直前まで進みました。しかし、熊野市は結局、碑を追悼しようと
はしませんでした。
追悼碑の「命」とも言える碑文を作成する段階になり、熊野市の碑を建てる
理由が、虐殺の責任を認めたものでなく、ただ単に殺された二人の碑を建て、
一般的な人権問題へとすり替えようとしていることが判明しました。私たちは
そのような歴史認識を歪曲してしまうような碑の建立を許すことはできません
でした。
遺族のペ・ギョンボン氏の健康状態が思わしくなかったこともあり、早急な
碑の建立が望まれていたこともあり、私たち独自でみなさんからのカンパを資金
として、土地を購入し、この追悼碑を建立したのです。

追悼碑建立の意義
追悼碑を建立したことで私たちの活動が完了したわけではありません。この
碑は。過去と歴史を再検証すると同時に、未来の進むべき方向を照らし出す羅針盤
でもあります。この碑を足がかりとして、熊野で歴史認識を改める様々な活動や
教育に結び付けていくことができると考えます。
この碑をベースに熊野、日本全国、アジア各地に正しい歴史を堀り越し、
歴史認識を改める運動が広がっていくことを願ってやみません。