三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

『熊野市史』をかならず書きかえさせよう!  

2006年02月12日 | 木本事件
 1989年6月に、わたしたちの会が、熊野市に、追悼碑建立への協力とともに、朝鮮人を虐殺したことを「素朴な愛町心の発露」としている『熊野市史』の書きかえを求めてから、13年あまりがすぎた。
 だが、いまもなお、熊野市は、朝鮮人を虐殺したことを「素朴な愛町心の発露」としつづけている。なぜ、そのようなとんでもないことが許されているのだろうか。なぜ、熊野市は、いつまでも『熊野市史』の書き換えを拒否しつづけることができるのだろうか。
 日本は、「明治維新」の翌年、1869年に、アイヌ民族ら北方諸民族の大地の一部を「北海道」と名づけて植民地(領土)とした。多くの和人が侵入し、アイヌ民族の大地を奪い、原生林を農地に変えていった。アイヌモシリの自然はおおきく破壊された。鮭や鹿などの狩猟を禁止されたアイヌ民族のなかには餓死した人もすくなくなかった。和人がもちこんだ天然痘などで病死した人も多かった。
 だが、いま「北海道」の市町村史のほとんどは、和人のアイヌモシリ侵略を「開拓」と称して、全面肯定している。「北海道」の市町村史で、和人の侵略によって、わずかな年月のあいだに、アイヌ民族が極端に生活をまずしくさせられ、おおくのアイヌが命を奪われた事実を記述しているものはない。「北海道」の市町村史を、アイヌモシリ侵略の歴史的事実をはっきり記述するものに、書き換えさせなければならない。
 侵略を「開拓」といって肯定することが許されていることと、朝鮮人虐殺を「素朴な愛町心の発露」としてなかば肯定することが許されていることは、つながっている。
 地域住民のおおくが、日本の行政機関が発行する地域史における記述に疑問を感じ、批判をつづけていれば、いつまでも、熊野市が、朝鮮人虐殺を「素朴な愛町心の発露」としておくようなことも、アイヌモシリ侵略を「開拓」としつづけることようなこともできないだろう。これは、日本の教科書問題とも重なっている。
 『熊野市史』を書き換えさせる運動は、すべての都道府県市町村史の記述を、日本の他国・他地域侵略を否定するものに書き換えさせる運動の一環なのだと思う。それは、また、すべての都道府県市町村史に、各地域における差別と侵略の歴史的事実を、できるだけくわしく具体的に記述させる運動でもある。
 わたしたちは、おおくの人びととともに、かならず『熊野市史』を書き換えさせる。そのためには、問題を指摘されてから13年あまりもの長いあいだ平然と非道な記述を熊野市と熊野市教育委員会がつづけることを可能にしている日本の精神・思想・文化状況を変革していかなければならない。
 それは、侵略と差別の根である天皇制と日本ナショナリズムとのたたかいなのだ。
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 『熊野市史』の問題点 

2006年02月12日 | 木本事件
『熊野市史』は1983年に熊野市教育委員会編にて発行され、全3巻であり、
“木本事件”については中巻に記述されている。「木本町民としては誠に
素朴な愛町心の発露であった」と“事件”の加害者を評価するような内容
でった。その後、「会」の抗議をうけて市は訂正をおこなったが、会が
指摘した問題部分を削除しただけの、いい加減なものであった。その方法
も、市史を購入した団体のみに訂正文を送付しただけの不徹底なもので
あった。
私たちは、引き続き何度も、市史の本質的な問題点を指摘し、書き換
えを要求しているが、熊野市は未だに問題点を認めようとせず、根本的な
書き換えに取り組む姿勢させ、みせていない。
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