三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

事件の根にある地域住民の差別意識

2006年02月16日 | 木本事件
事件が起きたのは、今から75年前の1926年の正月のことでした。現在の熊野
市(当時は木本町と呼ばれていました)には、木本トンネルの工事作業のために多くの朝鮮人労働者が関西方面からやってきて、トンネルの近くの宿舎(当時は《飯場》と言いました)で暮らしていました。当時の日本は朝鮮の主権を奪って植民地にして、朝鮮の土地をわがものとし、朝鮮人の生活を破壊しつつありました。そのために朝鮮で暮らすことのできなくなったひとびとが日本の移住して道路工事や建設工事に従事するようになっていました。木本町にやってきた朝鮮人もそのようなひとたちだったのです。
正月にこの労働者のひとりが映画館に入ろうとして、酒に酔った日本人といさかい
になり、日本刀で切りつけられ重症を負います。このまったく個人的ないさかいが、その翌日以降、地元住民集団による朝鮮人労働者への集団的な襲撃へと発展していきます。住民は武装して無抵抗の朝鮮人が住む宿舎を襲い、宿舎を破壊して、かれらを山に追いやります。そしてこの襲撃の中で、李基允さんと 相度さんという二人の朝鮮人の若者が町民の手によってなぶり殺されるという痛ましい結末が引き起こされたのです。
たんなる個人的ないさかいが、町ぐるみの町民による朝鮮人労働者への集団的な
襲撃へと発展してしまったのは、なぜでしょうか。
事件を引き起こした最大の原因は、地域住民による朝鮮人の民族差別意識が地域の
日常生活の中に根づいていたということです。わたしたちは、そのことを事件が終
わった後の新聞報道や、この事件について地元の記者や住民が残した文書から、うかがい知ることができます。新聞報道では、ふたりの朝鮮人を殺害した木本町の住民が「わが民衆の先駆者」とされ、記者はかれらを「町の義人」と呼んでいます。これらの記述の中では、殺人事件の犯人が、「平和な郷土生活を脅かす」朝鮮人から《郷土を守った救済者》であるかのように扱われています。また地元の別の住民は、事件についての手記の中で、住民による二人の殺害を、「あながち無理と言えない」と弁護し、その理由を朝鮮人の《日頃の態度に目に余るものがあり、住民は不安を抱いていた》ということに求めています。日頃の態度の善し悪しは個人の問題であり、地域住民についても言えることですが、朝鮮人をひとまとめにして《日頃の素行の悪さ》をあげつらい、それを理由にして《朝鮮人を殺してもかまわない》存在とみなすとしたら、それはもう差別意識以外のなにものでもありません。
またそこには、朝鮮と日本の生活慣習や文化のちがいから生ずる理解不足もあった
ものと思われますが、このちがいは地元の住民にとって排除されるべきよそ者の生活慣習や文化としてとらえられていたものと推測されます。
住民が朝鮮人にうとましさや不安を感ずるのは、朝鮮人に対する差別の裏返しの表
現にほかなりません。住民は何かあればこの感情を攻撃的なエネルギーに転じて朝鮮人を襲撃する可能性をつねにもっていたわけです。逆に地域の住む朝鮮人のほうが、トンネル工事の仕事にたずさわりながら、地域住民のこの不安感という名を借りた差別意識を浴びながら、いつ襲われるかもしれないという極度の不安に脅えて暮らしていたのです。
「木本事件」の三年前の1923年、関東大震災のさなかに、「朝鮮人が井戸に毒
を投げ投げこんだ」という流言飛語から端を発して、数千名もの朝鮮人・中国人が
関東地域の住民によって殺されましたが、この事件もやはり、日本の地域住民が日常的に抱く差別感情がその根にあります。差別感情が不安意識を支え、その不安意識が何かの出来事をきっかけとして朝鮮人に対する集団的な攻撃へと転ずる。この図式は「木本事件」においても、同じようにくりかえされました。その意味で、当時の日本の地域社会は、無数の「関東大震災」や無数の「木本事件」が生み出される可能性をつねにはらんでいたということができます。
地元住民のこの意識を公式に代弁したのが、『熊野市史』における「木本トンネル
騒動」です。そこでは、地域住民がとった行動が、「まことに素朴な愛町心の発露」である、と述べられています。ふたりを殺害した行為を「郷土愛」の表現であると言いくるめる理屈は、たんに事件の後でこの事件を弁明するための記述であるだけではなく、実はこの事件を生み出した根本原因でもあるのだと思います。ふたりは住民によって「殺されてもやむを得ない存在」である、と日ごろみなされていたからこそ、殺されたのです。事件後の弁明が、事件の原因をもっとも端的に語り出しているのです。地域住民の子供たちは当時書き残した手記の中で「殺されたのが朝鮮人であるとわかってほっとした」と述べています。このような地域住民の意識の中で、朝鮮人はつねに日常的に「殺害」されていたのではないでしょうか。木本事件はこの日常的な「殺害」が具体的な形をとってあらわれたものにすぎません。このような差別意識は、地域の中だけで自然発生的に生み出されたわけではありま
せん。この差別意識は、近代日本が朝鮮を植民地として統治し、その主権を奪って
従属下に置く、という国家戦略と並行して深まっていきます。地域住民による朝鮮人の集団的な襲撃は、日本国家による朝鮮半島の主権の剥奪行為が、日本の地域社会において地域住民による朝鮮人の生命と生活権の剥奪として具体的にあらわれたものであるということができます。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする