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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会のさらなる延期のお知らせ

2022年08月17日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会のさらなる延期のお知らせ■
                                        
                      海南島近現代史研究会 http://hainanshi.org/


 2022年8月21日に開催しようとしていた海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を、半年後の2023年2月に延期します。
 日程はきまりしだいお伝えします。 
 
 2020年夏に新型冠状病毒肺炎の感染者が急増してきたので、秋(2020年9月5日)に開催を予定していた 海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を2021年2月13日に延期しましたが、2021年にはいってから、新型冠状病毒肺炎の流行がいちだんと強まってきたので、8月21日に再延期しました。
 2021年7月下旬に強行開始された「東京オリンピック」の悪影響もあって、新型冠状病毒肺炎の伝染がさらに拡大しため、8月21日に予定していた海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を、2022年2月19日(土曜日)に再々延期しましたが、新型冠状病毒肺炎の伝染が治まっていかないので、2022年8月21日に再々々延期しました。
 しかし、2022年6月ころから新型冠状病毒肺炎の伝染が急速に広がってきたので、残念ですが、海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会をさらに延期せざるをえなくなってしまいました。
 海南島の三亞市は、今月(2022年8月)6日から新型冠状病毒肺炎の感染拡大を防ぐため都市封鎖をおこなってます。

……………………………………………………………………………………………………

 2007年8月5日の創立集会から2020年2月8日の第25回定例研究会までの26回の研究集会の主題は、つぎのとおりでした。

■海南島近現代史研究会総会・定例研究会■
(1)2007年8月5日 創立集会
(2)2008年2月10日 第1回定例研究会
(3)2008年8月3日 第2回総会・第2回定例研究会  
(4)2009年2月8日 第3回定例研究会
     主題:海南島侵略開始・アジア太平洋戦争準備開始70年
(5)2009年8月9日 第3回総会・第4回定例研究会
(6)2010年8月22日 第4回総会・第6回定例研究会
     主題:「朝鮮報国隊」の真相糾明
(7)2011年2月13日 第7回定例研究会
     主題:海南島とパレスチナ
(8)2011年8月28日 第5回総会・第8回研究会
     主題:海南島における日本の侵略犯罪のいま
(9)2012年2月26日 第9回定例研究会 
(10)2012年8月18日 第6回総会・第10回定例研究会
     主題:日本はなぜ海南島を侵略したのか
(11)2012年8月18日 第6回総会・第10回定例研究会
     主題:日本はなぜ海南島を侵略したのか
(12)2013年2月10日 第11回定例研究会 
     主題:海南島と独島(竹島)
(13)2013年8月25日 第7回総会・第12回定例研究会 
     主題:海南島と沖縄
(14)2014年2月9日  第13回定例研究会  
     主題:海南島における日本の侵略犯罪
(15)2014年8月23日 第8回総会・第14回定例研究会 
    日本国家が中国東北部への軍事侵略を開始してから120年後の集会
     主題:海南島と中国東北部・モンゴル東部における日本国家の侵略犯罪
(16)2015年2月11日 第15回定例研究会 
     主題:海南島近現代史研究会の7年半
(17)2015年8月23日 第9回総会・第16回定例研究会
     主題:17年間の海南島「現地調査」で明らかになったこと
(18)2016年2月14日 第17回定例研究会 
     主題:日本政府・軍・企業に殺害された人びとの生と死
(19)2016年8月28日 第10回総会・第18回定例研究会  
     主題:海南島と台湾
(20)2017年2月5日 第19回定例研究会   
     主題:証言・記録・伝達
(21)2017年8月26日 第11回総会・第20回定例研究会  
     主題:国民国家日本の他地域他国侵略の時代
(22)2018年2月3日第21回定例研究会  
     主題:日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争
(23)2018年8月18日 第12回総会・第22回定例研究会  
     主題:海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来
(24)2019年2月9日 第23回定例研究会
     主題:証言、史料(文書、映像・音声、遺物、遺物)
(25)2019年8月24日 海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会  
     主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争
(26)2020年2月8日 海南島近現代史研究会第25回定例研究会   
     主題:民衆の歴史研究・歴史認識・事実の伝達 

中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(三)

2022年01月28日 | 海南島近現代史研究会
■中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(三)■
                           小林節子

■「歴史を訪ねる旅」
 その後、「731部隊展」を企画、準備し、1993年から日本全国各地で開催したABC企画が定期的に実施している「歴史を訪ねる旅」に参加した。これらの旅はABC企画が長年中国との交流を深め、信頼関係にあってはじめて実現できる旅であった。個人では到底行くことができない場所を訪れ、聴くこともできない証言を聴くことができる貴重な旅であった。
 平頂山惨案記念館、撫順炭鉱遺跡、豊満労工記念館、東寧軍事要塞労工墳など、黒龍江省、吉林省、遼寧省に残る多くの戦争遺跡を自分の目で確かめる旅が続いた。そこには必ず歴史記念館が併設されていた。その建物の一部に遺骨館が併設されている場合が多かった。屋内に整然と羅列されている遺骨群、未整理のまま積み重ねられた遺骨の山もあった。手足を針金で縛られたままの遺体、明らかに刃物で割られた頭蓋骨、母親が子に覆いかぶさる遺骨。射すくめられるような視線が私に向けられている、そう感ぜずにはいられないほど苦悶に満ちた表情の遺骨群であった。
 いくつの万人坑を訪れただろうか。阜新炭鉱万人坑、遼源炭鉱万人坑、鶏西炭鉱万人、坑虎頭要塞万人坑・・・。中国全土に残された万人坑のほんの一部に過ぎない。どれだけ歩こうと終わらない旅である。私にとって重い旅ではあるが天津の花岡事件遺骨館にはじまり、中国人強制連行問題に引き寄せられていく過程でもあった。以前私は万人坑について、「「万人坑」とは日本軍要塞、炭鉱、道路、ダム建設などで過酷な労働に耐えきれず命を落とした中国人労働者の埋葬地である」と書いた。いま、改めて「「万人坑」とは日本の中国侵略下、日本軍、日本の民間企業による苛酷な環境での労働、虐待、過労死など理不尽な死を強いられた人びとが捨てられた場所である」と訂正する。

■万人坑生成の理由
 万人坑の生成にはいくつかの要件が重層的に絡まっている。起因は日中戦争勃発以降太平洋戦争に至る戦争遂行体制にあり、労働強化による過労死 虐待死であることは明白な事実である。日本は中国東北部に1932年「満州国」( 以下満州国)を建国した。満州国建国の目的は満州の豊富な各種資源を開発し、日本の総合的国防力の増強を図ることにあった。建国が軍部主導で行われた関係上、政治・経済政策も軍部の意を汲む政策とならざるを得ない。満州国の政策は実質的に日本との関係性を強化しつつを推し進められた。      
 日中戦争勃発後、日本国内の労働力人口は徴兵、徴用により急激に減少していた。戦争遂行のため1938年「国家総動員法」が制定され、あらゆる軍需産業に国民が動員された。満州においても日本同様、労働力不足は関係企業にとって死活問題であった。 とくに重工業の拡充は最優先課題であり、鉄鋼、鉱業 電力、また資源運搬のための道路、港湾建設などすべてにおいて労働力の払底が問題となっていた。再三労働力の斡旋要求を政府に陳情していた。満州国政府、関東軍、満鉄、関東局の出席の下、「速やかに国内労働需給統制に関する一大国策機関を設立する」計画が立案され、大量の労働力を移入し統制する実行機関「満州労工協会」が設立された(1938年1月設立)。満州労工協会設立の目的は、必要とされる労働力の確保、配置機構にあったが、反満抗日運動弾圧の補助機関の機能をあわせ持っていた。労働者登録業務の際、十指の指紋登録は労働者の移動を防止する目的で行われたが、反満抗日運動を未然に防止するためには有効な対策であり、軍の治安工作を支える機構であった。日中戦争の拡大に伴い、労働力の移入は計画数に届かないことが続いた。満州労工協会は機構改革を重ねながら機能を強めていた。1941年、「関特演」を実施した関東軍が対ソ戦準備強化に必要な労働力を要求、すなわち国境付近の軍用施設建設、物資輸送に必要な大量の労働力の要求であった。満州国政府にとって従来の労働政策では対応じきれない要求であった。そして太平洋戦争が勃発する直前の1941年11月、「満州労務興国会」が設立された。すべての国民の労働力を国家権力の下に統括する国民皆労体制、翼賛政策が確立する。労働能率の向上、労働力の適正配置の強化が目的と強調されているが、労工協会が担っていた業務は満州国地方行政機関に移され、労働斡旋、労働資源の保護、労務管理改善などが労務興国会に移され、より強い権限による労働政策が実施される。満鉄、満州重工業、土建業界、国有林伐採協会、国際運輸などを構成員とし、満州国政府にすべての権限が集中する体制が確立される。新体制が推進され、戦争遂行政策が満州国と日本政府同時に施行された。そして戦争末期には日本の企業の逼迫する労働力を補充するために「華人労務者内地移入ニ関スル件」が1942年11月、東条内閣によって閣議決定され、中国人の強制連行、強制労働が開始された。

 第二に「特殊工人」の死がある。特殊工人とは華北で繰り広げられていた抗日戦線、抗日根拠地で捕らえらえた将兵(戦争俘虜)を指し、捕虜収容所に隔離し、労工に仕立てあげ特殊工人と名付けて東北各地、戦争末期には日本へ移送された。また日本軍の「兎狩り作戦」で連行された農民、一般人も同時に特殊工人と同等の扱いを受けた。事実上特殊工人は「死囚工人」と呼ばれ、労工の中でももっとも劣悪極まる場所、危険なところへ配置され、待遇も他の労工とは比較にならないほど悲惨なものだった。花岡事件はこの特殊工人たちの蜂起による事件だった。特殊工人が受けた苛酷な体験は強制連行された労工のなかでもっとも高い死亡率となって現れている。

 第三に「把頭制度}を利用した支配制度があった。古い中国には狭い血縁関係、あるいは地縁で結ばれた同族の結びつきが決定的に作用する社会があった。この縁者を率いる者を把頭と呼び、この把頭制度を日本企業は雇用関係に利用した。把頭の存在は一族を束ね雇用会社との仲介役を務めることにあったが、実際には工人の募集、炭鉱その他の現場での労働管理一切を取り扱う場合が多かった。つねに労働力の補充を必要とする企業側にとって把頭及び把頭制度を温存する以外に円滑な運営は不可能だった。把頭側にとっては生活全般を把握することにより、搾取の目的は容易に達せられる。賃金のピンはね、生活必需品の購入も把頭が経営者で、その価格は外部よりはるかに高額だった。賃金の不足分を翌月に残す仕組みが労工たちに逃亡を許さなかった。把頭はつねに雇用者側の代弁者であり、縁につながる関係を利用して苛酷な労働を強いた。万人坑のなかには把頭の名を付けて○家坑と呼ばれる万人坑がある。日本の収奪は把頭をおいては語れないと言われる所以である。

 ここでは以上三点を万人坑生成の理由にあげたが、原因は他にも種々存在する。出炭量増産のみを至上命令とする炭鉱において、企業は坑内の保安施設に注意を払わない。一本の坑木を惜しんだ結果落盤事故、ガス爆発の多発を招き大量の犠牲者を出した。疾病、怪我に対する設備は皆無に等しかった。加えて労務係と呼ばれる監視人の暴力。度を越す人命軽視が労工たちの反撃を招くのは必然だった。ストライキ、サボタ-ジュ、暴動、集団逃亡などあらゆる方法で抵抗が繰り返された。しかし万人坑の生成は止むことはなかった。アジア太平洋戦争による犠牲者の数にこの万人坑に打ち捨てられた労工の命は数えられていない。

■万人坑は日本各地に残されている
 中国人強制連行が華北を中心に広範囲な地域で行われ、連行された人たちは中国国内だけでなく日本にも移送されていた。万人坑は日本各地に残されている。それが「万人坑」であろうと「千人坑」であろうと問題ではない。自国が発動した侵略戦争に他国人を強制連行し、酷使、虐待のすえ死にいたらしめた責任は日本国にある。今なお行方不明のままの夫、息子の身を案ずる家族がいる。その責任の重さを私たち一人ひとりが自分のものとしない限り、戦争は終わらないし、平和を口にすることも許されないのではないか。万人坑は私にとって重い十字架となってのしかかっている。

                             2021・10・31

中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(二)

2022年01月27日 | 海南島近現代史研究会
■中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(二)■
                           小林節子

■花岡裁判開始
 事件から40年後の1985年8月、中国・河北省の新聞に花岡事件に関する記事が載った。王敏さんはその記事の中に大隊長耿諄さんの名前を発見した。王敏さんは耿諄さんは死刑になったとばかり思っていた。日本を離れるとき憲兵から「耿諄は死刑になった」と聞いていた。信じられなかったが記事をたよりに耿諄さんを訪ねた。この再会をきっかけに花岡事件の幸存者はお互いの消息を訪ねはじめた。それは過去に受けた暴戻の数々を追及する動きに発展していった。後に「花岡事件受難者連誼会」の発足に際して、耿諄さんが名誉会長、王敏さんは会長に就任している。
 耿諄さんたちは1989年から鹿島建設とのあいだで自分たちが受けた被害に対する謝罪と賠償を求める話し合いを続けていた。1990年7月5日、生存者と遺族を代表して耿諄さんは交渉代理人5人を交えて、鹿島建設副社長とのあいだで「共同声明」を取り交わしていた。その中で鹿島建設は「(前略)中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制連行に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する。(後略)」と責任の所在を認めた。「共同声明」は初めて日本企業が強制連行の責任を認めた唯一の重要文書である。その後、鹿島建設は態度を覆し「自分たち企業に責任はない」と誠意ある応対を避けつづけた。
 1995年6月、花岡事件の生存者と遺族合わせて11人が鹿島建設(当時の鹿島花岡出張所)に対し損害賠償請求訴訟に踏み切った。訴状は「華人労務者内地移住ニ関スル件」の閣議決定がなされた経過と自分たちが花岡で受けた被害は国際法違反ではないか、また安全保護義務違反ではないか、及び一人550万円の賠償金を要求するものだった。この時点まで交渉代理人だった5人は以降原告弁護団として裁判に関わることになった。私はこの裁判の成り行きを知りたいと、時間の許す限り傍聴に通った。証人または参考人として多くの人が法廷に立った。被告・鹿島建設の発言、研究者の意見陳述、中国から来た原告の証言、全てが日本の過去の罪業を浮きぼりにするものだった。法廷での審議を終え、弁護士会館で開かれる報告会ではさらに鹿島建設の不誠実な対応が弁護人によって明らかにされた。鹿島建設の不誠実な態度は単に鹿島建設のみならず強制連行に関わった企業全体、もっと言えば日本政府の戦争責任に対する姿勢と軌を一にするものであり、花岡裁判は日本の戦争責任を明確にする闘いとなっていった。
 1997年12月10日の一審判決は「原告の一切の請求を棄却する」という冷酷なものだった。即刻控訴が申し立てられた。提訴からすでに5年が過ぎようとしていた。
 2000年4月21日、東京地方裁判所から双方に「和解勧告書」が出された。もし和解が成立すれば同じように強制連行、強制労働の問題解決を迫られていた企業にとっても準拠となる方策だった。関係企業だけでなく関心を持って運動に参加している市民も固唾を呑んで和解案の成り行きを注視していた。

■和解勧告書
 和解勧告書の要点は、当事者双方が承認すべき事項として、「被控訴人である鹿島建設が利害関係人中国紅十字会に対し金5億円(「花岡平和友好基金」)を信託し、控訴人はこれを了承する。信託金は受難者と遺族の生活支援と日中の歴史研究その他の活動資金に充てるものとする」、「本件和解が花岡事件について全ての懸案の解決を図るものであること及びそのことを担保する具体的方策を和解条項に明記する(具体的な条項は更に検討する。)」というものだった。
 2000年4月28日、弁護団は北京で耿諄さんはじめ被害者と会い、訴訟情報報告会が開かれ、裁判所から出された和解勧告書の説明がなされた。和解同意書が提出された。裁判は大詰めを迎えていた。原告全員の委任状を得て弁護団は2000年11月29日、鹿島建設との歴史的な和解を成立させた。
 大新聞各社は大見出しで画期的な成果だとこのニュ-スを報道した。しかし、和解当日、鹿島建設が自社のホ-ム・ペ-ジに発表した「花岡事案和解に関するコメント」は原告団だけでなく、中国人強制連行問題の抜本的解決の礎となることを期待していた人びとにも衝撃を与えた。そこには「今回の和解協議は東京高等裁判所からの勧告に沿ったものであり、訴訟内容については従来より主張してきたとおり鹿島建設に法的責任はない、本基金の拠出は補償や賠償の性格を含むものではない、この和解事項は原告11人だけでなく花岡出張所で労働に従事した986名全員を含めることは裁判所も控訴人も理解した」というものだった。(要約)
 
 和解に際して鹿島建設が公表したのは、この和解は法律的な責任を負うものではなく、賠償補償を言わない、そして986人全員の問題を全て解決すること、それは裁判所も弁護団側も承知しているというものだった。そこには原告団が決して譲歩できない条件として要求してきた謝罪と補償、花岡事件記念館の設立についての文言は一切なかった。
 報告会で耿諄さんは和解案の内容を知らされ、「ここには連誼会が要求してきた謝罪と賠償という文言が入っていない、歴史記念館を建設する件も入っていない、金額が問題なのではない、我々の民族の尊厳を回復するものでなければならなkい。」と発言している。
 この「和解勧告書」をめぐっては和解成立後、中国内の受難者連誼会と弁護団のあいだに内容の解釈に齟齬を生み、連誼会内部に亀裂と分裂をもたらしたことは残念なことと言わなければならない。
 周知の花岡事件にこだわったのは、花岡事件が中国北支、中支(主に河北、山東省)から「満州国」の炭鉱、土木工事、軍事要塞などの建設現場に移送され、強制労働を強いられ非業の死を遂げた人びとが葬られた万人坑の頻出と同根であることが明白な以上、日本国内にも万人坑が現出していたのではないか。花岡鹿島事業所だけでなく、全国135の事業所で差はあれ同じ状況が繰り広げられていたと考えた。1943年4月から45年5月までの2年間に38,939人の中国人が日本の事業所に移送され、そのうちの7千人が犠牲になっている。できるならば417人の花岡事件の犠牲者の遺骨が無事に祖国に還り着いているのか確かめたい気持ちが強まった。

■強制連行が戦後の日本経済発展の基礎を作った
 抗日戦争歴史記念館で王敏さんの証言を聞いた翌日天津を訪れ、遺骨が安置されていると聞いていた天津水上公園を訪ねた。だがその日は休日であったのか、管理者が不在で遺骨に会うことはできなかった。残念な思いはあったが代わりに塘沽の港を見せてもらった。どれほど多くの中国人がこの港から運び去られたか、還りつけなかった人びとの無念な気持ちが海の青さを濃くしていると思った。塘沽の港は深い緑色の波が静かに岸壁を洗っていた。
 1958年2月、北海道の山中で中国人・劉連仁さんが発見されたというニュ-スは私たちを驚かせた。敗戦後13年が経ち、朝鮮戦争の特需を契機に日本経済が回復の度合いを強めていた時代に、劉連仁さんの発見のニュ-スは日本中に冷水を浴びせた。
 1944年9月、31歳のとき強制連行され、北海道明治鉱業昭和鉱業所に配属された。あまりの暴虐に耐えきれず仲間4人と逃亡を決行した。途中仲間とはなれ離れになりながら13年間山中をさまよい続けたという。劉連仁さんの帰国に際して日本政府が見せた対応は中国人強制連行とは如何なるものだったのか、またこの問題が何も解決されていないことを周知せしめた。
 劉連仁事件をきっかけに花岡事件を含んだ中国人、朝鮮人強制連行に関するニュ-スが新聞雑誌に取り上げられるようになった。敗戦時、6歳だった私は花岡事件について知る由もなかったが、劉連仁さんが現れた頃には研究書、物語など手近に参考となる書籍が多くあった。1964年、「中国人強制連行事件の記録」と副題にうたれた『草の墓標』が出版された。「本書は中国人強制連行の記録である。中国人強制連行事件とは戦争末期東條内閣の閣議決定によって中国より約4万人の中国人を日本に強制連行し、全国の鉱山、港湾、土建などで労役し、そのうち約7千人を死にいたらしめた事件である。」編者・中国人強制連行事件資料編纂委員会とある。
 『草の墓標』は 劉連仁さんが降り立った北海道深川駅の駅員の証言から始まり、日本の帝国主義と植民地主義が犯した罪業の実態が余すところなく描き出されていた。国内の、人里離れた場所で悲劇は繰りかえされていた。たとえ巧妙に仕組まれた組織や時代背景が人びとに沈黙を強いたとしても、言葉も理解できない人たちが酷使されている事実は多くの人の眼に触れていたのではないだろうか。なぜかくも長く隠蔽が守られ続けられたのか。国策であったことは免罪符にはならない。せめて『草の墓標』が日本人の手で編まれてほしかった。花岡事件、劉連仁事件の歴史的背景と責任の所在を追及し、蜂起、逃亡に至る事由ばかりでなく、強制連行が戦後の日本経済発展の基礎を作ったこともこの書に教えられた。『草の墓標』に出会ったことを契機に、私は日本の近現代史を学ばなければならないと考えはじめた。自分の無知を歯噛みする思いはさらに中国への旅を重ねさせた。
 天津に安置される強制連行殉難者の遺骨を見たい、私の思いは時と共に強くなっていった。殉難者の遺骨返還に協力した「中国帰還者連絡会(*)」が天津を訪れると聞いた。1995年4月、私は即刻参加を申し込んだ。変わりなく天津水上公園にコンクリ-ト造りの建物はあった。中は冷気に包まれていた。壁一面に作られた木の棚に白い布に包まれた遺骨箱が整然と並べられ、四方の壁を埋め尽くしていた。一つ一つに墨で名前が記されていた。祖国に還ったが、故郷までたどり着けない遺骨だと説明された。故郷への後難を恐れ、偽名を使っていた人が多く、出身地を探し当てることが難しく、目前の故郷にたどり着けない遺骨が残されていた。7千人の積怨がどれほどのものか、黙祷を捧げる以外何もできなかった。
   *「中国帰還者連絡会」(通称中帰連)とは日・中戦争中、中国国内であらゆる犯残虐行為を犯した
    日本軍人約千人が、ソ連・シベリヤ抑留から新しく建国して一年の中国に引き渡され、戦犯として
    裁かれた。「鬼から人間に」変えられ許されて帰国したのち「日中友好・不戦、平和」を旗幟とし
    て1956年平和団体を結成した。(現撫順の奇跡を受け継ぐ会)

中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(一)

2022年01月26日 | 海南島近現代史研究会
 2020年夏に新型冠状病毒肺炎の感染者が急増してきたので、この年の9月5日に開催を予定していた 海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を半年後の2021年2月13日に延期しましたが、2021年にはいってから、新型冠状病毒肺炎の流行がいちだんと強まってきたので、8月21日に再延期しました。しかし、新型冠状病毒肺炎の伝染が治まらず、2022年2月19日に再々延期し、さらに8月21日に開催せざるを得なくなりました。
 以下に、海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会で発表予定の小林節子さんの主題報告の内容を3回に分けて掲載します。
                         海南島近現代史研究会


■中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(一)■
                           小林節子

■花岡事件の幸存者、王敏さんの証言
 私の中国への旅は秋田県花岡に強制連行された中国人慰霊の旅から始まる。
 1993年の4月、北京で開催される予定だった「花岡悲歌」展覧会が直前になって10月に延期された。参加予定者の中に秋には日程の都合で参加できない者が数人いた。私もその一人で、どうしても行きたいと主催者側に申し入れた。半ば強引だったが少人数のグル-プが作られ、6日間の日程で出発した。北京では万里の長城をはじめ、名所旧跡を足早に巡った。初めての中国、特に北京は何もかも驚きの連続だった。まず遺跡の多くが街の近くに残されていること、その規模の広大さに目を見張り、また街中に溢れる自動車、自転車、人の多さにも声を上げた。この旅の最大の目的は北京郊外に建つ中国抗日戦争歴史記念館で、花岡事件の幸存者、王敏さんの証言を聞くことだった。あの花岡事件を生き抜いた人に会える。私ははやる気持ちをなだめながらその時を待った。
 中国抗日戦争歴史記念館は盧溝橋のたもとにあった。現在の記念館が建てられる前の静かな建物だった。入り口の大ホ-ル壁面いっぱいに広がる抗日軍のレリ-フ、村を襲う日本軍と戦う人民軍のジオラマ、日本軍兵士の残虐な行為を再現したレプリカ、各種の写真、使用兵器など順路にそって見学を終えた。重い足を引きずるように会議室に向かった。王敏さんの話は私たちの心にさらに大きな衝撃を残した。

■石門の「労工訓練所」から花岡鉱山へ
 王敏さんの証言は八路軍の兵士として華北で交戦中捕虜になった話から始まった。
 「石門(のちの石家荘)の捕虜収容所に集められた。門柱には「労工訓練所」と書かれていたが、それは酷い所でした。宿舎とは名ばかり寝る場所は板の棚、寝返りもできないほど詰め込まれた。囲いの塀の上には電線が張りめぐらされていた。訓練を受けたことはない。集められ訓示と点呼が繰り返される毎日でした。写真や指紋を採られた。収容者が千人ぐらいになったとき突然全員整列の号令がかかり、その中から300人が一か所に集められ、行く先も告げられずに貨物列車に押し込まれた。降り立ったのは青島港へつづく駅で、急き立てられて乗船した。船の上で初めて自分たちが日本へ行って仕事をさせられるとわかったのです。」
 船の中は騒然となった。捕虜といっても兵士ばかりではなく日本軍の作戦によって強制連行された農民、一般人も多数含まれていた。口々に家への連絡はどうするのかと叫び、今にも海へ飛び込もうとする者もあった。一人も日本語を話せる者がいない、要求も通らない、管理者は銃を構えた日本軍兵士だった。日本軍は中国人に中国人を管理させる方針をとった。直ちに捕虜の中から将校経験者が選び出され、100人単位の中隊、小隊が組織された。統括する大隊長に選ばれたのは後に花岡蜂起を指揮する耿諄さんだった。耿諄さんは全員に向かって「こうなった以上生きて故郷の家族のもとに帰ろう」と呼びかけた。王敏さんは中隊長になった。
 四日目、船は下関港に着いた。そこからさらに列車に乗せられ三日目、小さな駅に着いた。そこが「花岡」駅だった。「その日はたしか1944年8月10日ではなかったか」と王敏さんは記憶を探った(7月28日説あり).王敏さんたち約300人が降り立った花岡は秋田県北部に位置し、周囲の山は五、六百メ-トルとあまり高くはないが、そこは昔から石炭だけでなく、金、銀、銅など鉱石が算出される場所で、鉱山災害で命を落とす人が多いことで有名な場所でもあった。王敏さんたちが連行される以前に徴用された日本人や朝鮮から連行された人たちもいた。この花岡鉱山に連行された中国人は王敏さんたちが初めてではなかった。すでに中国から連行された人たちが千人以上この鉱山で厳しい労働を強いられていた。王敏さんたちが担わされた仕事は鹿島組花岡出張所が請け負った鉱山をぬって流れる花岡川の付け替え工事だった。夏はともかく短い秋、降雪の多い冬の花岡で王敏さんたちはどのように過ごしたのだろうか。

■花岡蜂起
 「もう花岡事件のことは皆さんよくご存知でしょう。50年も前の話ですが、忘れることはありません。ひどい生活でした。食べるものが少ない、着るものは中国にいたときのまま、冬になっても綿入れ一枚支給されなかった。花岡の冬は私の故郷より寒いのです。雪の降る日に水の中の工事です。多くの仲間が死んでいきました。想像して見てください。私たちがどうして蜂起を決行したか。」
 王敏さんはこの蜂起で重要な役目を担った。花岡には王敏さんたち第一団の299人の他に後続として新しく第二団が翌年の4月に589人、第三団が5月に98人が連行されていた。あとから来た人たちを蜂起に巻き込むことはできないという耿諄さんの指示に従い彼らには内密に事を運ぶ必要があった。当夜も物音や人の叫び声に不審を抱き起き出した人たちをなだめ寝床に戻す門番の役を受け持った。しかし他の宿舎から物音に気づいた仲間も加わり(あるいは事前に蜂起の情報が伝えられていたとも考えられる)、蜂起に参加した人は800人を超えていたのではないかと王敏さんは話した。王敏さんの話は日本人である私たちを意識してか事件の核心部分については触れられなかった。人間としての尊厳を傷つけられる行為が繰りかえしおこなわれたこと、花岡に来てわずか1年も経っていないのにすでに仲間の三分の一が殺されていた事実、その憤怒は日本人労務監督全員と中国人通訳1人を売国奴として殺害に向かわせるほど強いものだった(結果は日本人労務管理者4人と中国人1人の殺害にとどまった)。 
その間の事情を王敏さんに深く問うことはためらわれた。たとえ戦時下であったとしても残虐行為が行われているのを黙殺したばかりか惨劇に手を貸していたのもまぎれもなく私たち日本人だと考えた。
戦後、5人殺害の責任が裁かれた極東国際軍事法廷(BC級横浜裁判)で、一時的にせよ耿諄さんは死刑判決を受け(後に無期懲役、1946年拷問による病気治療のため帰国)他の11人も懲役10年から2年の刑を受ける結果となった。もちろん鹿島組花岡出張所長たち8人にも絞首刑を含む有罪判決が下された(1948年3月1日判決、ただし減刑を受け1956年にかけて全員が釈放されている)。
中国人を強制連行し使役した事業所は日本国内135ヶ所に上るが裁判によって裁かれたのは花岡事件一件だけだった。王敏さんの話は蜂起したのち捕らえられ、共楽館広場と大館警察署前広場で繰り広げられた惨劇におよんだ。王敏さんは共楽館前広場に連行された。
 「蜂起は6月30日でした。失敗に終わりました。逃げた日本人が通報したのです。執拗な追跡の手から一人も逃れることはできませんでした。一週間後には全員が捕らえられました。逮捕されたわたしは共楽館広場の砂利の上に座らせられました。三日間食事も水も与えられませんでした。7月の日差しはもう夏のようでした。叩かれた傷が化膿しはじめました。水を欲しがっても与えられず気を失うものが大勢出ました。ここでも100人の仲間が死んでいきました。三日目になってようやく薄いおかゆが配られました。歩くことができない仲間を背負って中山寮に戻りました。それからしばらくは首謀者探しです。責任は全員にあったのです。大隊長が「責任は自分にある」と皆をかばってくれました。13人が殺人の実行犯として裁判のために別のところへ移されましたが、私たちはまた工事にかり出されまた。」

 王敏さんは広場の砕石の上にもう一人と背中合わせに結かれたまま坐らされた。それは身じろぎ一つ自由にならない拷問に等しい刑罰だった。王敏さんの左ふくらはぎはそのときの傷跡を深く残していた。ズボンを引き上げて傷跡を見せた。治療を受けることもなく自然治癒を待つよりほかに方法はなかった。事件の傷がまだ回復しない半月後には工事は再開された。花岡に連行されてまだ一年と経っていない間に起きた出来事だった。それから一ヶ月後、日本は敗戦となった。しかし王敏さんたちは何も知らされないままその後も工事に従事させられたという。解放されたのは9月も半ばではなかったかと王敏さんは言う。連合軍と日本に住んでいる中国人が中山寮を訪れ、苛酷な境遇の終わりが告げられた。「生き延びた、祖国に帰れるぞ」、王敏さんは一瞬そう考えた、がすぐに耿諄さんはじめ裁判のために勾留されている仲間の処遇や、この地に斃れた仲間の問題など確かめなければならないことに気づいた。日本の敗戦後、中国国民政府は居留民団を代表部としてただちに強制連行について調査活動を開始していた。王敏さんは後のことをこの人たちに託し、中山寮に残っていた529人の仲間たちを率いて帰国の途についた。1945年11月29日、花岡から列車を乗り継ぎ、博多港から祖国天津港に向かった。

■殉難者は417人
 以上、王敏さんの受難者としての聞き取りは終わった。しかし花岡事件はこれで終わりにはならなかった。王敏さんたちが帰国した後、同じく強制連行され花岡鉱山に連行されていた朝鮮人たちが共楽館広場で繰り広げられた惨劇を一部始終を見ていた。その一人が犠牲者が埋められている場所を告発した。殉難者は417人に上っていたのだ。その遺体は中山寮からさほど離れていない鉢巻山の中腹に埋められていた。発掘された400体の遺体は荼毘に付され、白木の箱に収められ一旦近くの寺に安置された。私が初めて出会った「万人坑」が花岡鉱山で犠牲になった人たちの墓所であった。

海南島近現代史研究会総会・定例研究会の軌跡(一) 2007年~2010年

2022年01月25日 | 海南島近現代史研究会
 2007年から2022年までの27回の海南島近現代史研究会の「集会案内」を3回にわけて連載します。

                    海南島近現代史研究会  佐藤正人


■海南島近現代史研究会総会・定例研究会の軌跡(一)  2007年~2010年■

(1)2007年8月5日 創立集会 
    1 開会。
    2 海南島近現代史研究会創立にいたる経過報告。
    3 創立集会へのメーセージ。
    4 会則(案)、討議。会則、決定。
    5 海南島近現代史研究会の活動計画について。  提案と討論。
    6 ドキュメンタリー『月塘村惨案』日本語暫定版試写。
    7 月塘村追悼碑の建立基金協力について。
    8 日本政府にたいする海南島侵略犯罪真相究明要求。
    9 会報『海南島近現代史研究』創刊について。
    10 自由討論。
    11 閉会。 

(2)2008年2月10日 第1回定例研究会  『会報』第1号発行。
    1、創立集会以後の会の活動報告
    2、研究報告Ⅰ  海南島近現代史のなかの世界近現代史    佐藤正人
 1869年にアイヌモシリ(「北海道島」)を植民地としてから70年後、天皇ヒロヒトと日本政府は、1939年2月に海南島に日本軍を奇襲上陸させました。その後、日本政府、日本軍、日本企業は、1945年8月までの6年半の間に、残酷な侵略犯罪を実行しました。国民国家日本の近現代史は、他地域・他国侵略の歴史でした。
 証言を基礎として海南島における国民国家日本の侵略犯罪と海南島民衆の抗日反日闘争の歴史を探求しつつ日本の国家犯罪を総体として認識し伝達する方法を模索してきた道程を報告し、海南島近現代史のなかにおける世界近現代史を認識する意味を、みなさんと共に考えたいと思います。
    3、研究報告Ⅱ  海南島近現代史資料について   久保井規夫 
  戦時、日本軍政下におかれた海南島における、日本軍の殺戮行為と抗日反撃の戦い、日本軍用施設・基地の建設、軍・企業一体となっての資源の強奪、植民地・占領地の民衆への迫害と苦役の強制。これらの状況を手持ちの日本側資料から(分かりやすい図版・写真を中心に)分析して報告する。
    4、質疑と討論
    5、海南島近現代史研究会制作『海南島月塘村虐殺』上映
 沖縄戦のさなか、1945年5月2日の明け方、海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊(当時の司令は、海軍大佐森本一男)の日本兵は海南島万寧市万城鎮月塘村を襲い、4時間の間に、多くの村人を殺傷しました。
 このドキュメンタリーは、月塘村虐殺62年後の2007年に、生き残った人びとの証言を、村人のみなさんの助けをかりて、のべ50日間にわたって記録したものです。
    6、こんごの研究主題について

(3)2008年8月3日 第2回総会・第2回定例研究会  
    1、1年間の会の活動報告
    2、あいさつ   王建成(海南省民族学会副会長)
    3,研究報告Ⅰ  金山「社会転型期的黎族伝統文化(社会転形期における黎族の伝統文化)」
       海南島の先住民族である黎族の伝統文化は、改革開放後、とくに中国最大の経済特区である海南省が設立されたあと、大きく変貌しています。年中行事、伝統宗教、生活文化という三つの角度から、その変化を考察します。
    4、海南島近現代史研究会制作『海南島 2007年秋』、『海南島 2008年春』、『月塘三・廿一惨案紀念碑掲碑儀式』上映
    5、研究報告Ⅱ  五十嵐彰「「日本考古学」と海南島」
                  ある文化を認識するには、一定の時間(時代)を区切らざるを得ないと同時に、一定の空間(地理的範囲)を区切らざるを得ません。ある時間的空間的範囲を区切るためには、区切られた内部の均質性と外部との異質性が成立要件として求められます。「日本考古学」が区切っている時間的空間的範囲のいびつさ・歪みを、海南島という定点から検討します。
    6、研究報告Ⅲ 水野明 「海南海軍特務部編『海南島三省連絡会議決議事項抄録』について」
                  1939年2月の海南島侵略直後から海南島の「政務」をおこなった三省(日本外務省、日本海軍省、日本陸軍省)連絡会議は、1942年11月に廃止され、以後、海南海軍特務部(前、第5艦隊情報部)が、海南島を政治支配しました。海南島三省連絡会議にかんする極秘文書を解析します。
    7、質疑・討論 参加者の発言・討論
      こんごの研究主題・研究課題
    8、月塘村全村民の日本政府に対する要求について
    9、日本軍の海南島奇襲攻撃70年後(2009年2月)に
    10、「会則」改定

(4)2009年2月8日 第3回定例研究会 
           主題:海南島侵略開始・アジア太平洋戦争準備開始70年
    1、研究報告Ⅰ 天皇制国家日本のアジア侵略への国家総動員  紀元節・神武天皇陵・八紘一宇    久保井規夫
    2、研究報告Ⅱ 1939年2月10日の世界史的意味       佐藤正人
    3、研究報告Ⅲ 1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか  竹本昇
    4、研究報告Ⅳ 2009年、マスメディアは海南島をどのように報道しているか  日置真理子       
    5、研究報告Ⅴ 海南島捕虜収容所のオーストラリア軍ガル・フォース 飢えと疫病と重労働  生き証人に聞く          西里扶甬子
    6、「月塘村虐殺」・月塘村村民の対日本政府要求について
    7、「朝鮮村」の現状報告と「朝鮮村虐殺」の真相究明について

(5)2009年8月9日 第3回総会・第4回定例研究会 
    1、海南島近現代史研究会2年目の活動の軌跡と総括     斉藤日出治 
    2、沙土、花場、石山、烈楼、樹徳、雷鳴、旧州、高峰……で    佐藤正人
    3、戦跡調査による特攻基地の比較(海南島を中心に図示)    久保井規夫 
    4、研究報告Ⅰ 飛行第31戦隊による海南島攻撃――浜松から中国・ビルマ・フィリピンへ    竹内康人 
    5、研究報告Ⅱ 1939年、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか 2   竹本昇 
    6、研究報告Ⅲ 海南島では日本をどのように報道しているか 日本では海南島をどのように報道しているか(2009) 2      日置真理子 
    7、大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について    金靜美

(6)2010年2月14日 第5回定例研究会 
    1、報告Ⅰ 三竈島から海南島へ――もう一つの南進政策   蒲豊彦
    2、報告Ⅱ 海南島での同仁会(研究ノート)        キム チョンミ
    3、報告Ⅲ 1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか 3  竹本昇
    4、報告Ⅳ 曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』を読んで   鐘翠雅
    5、報告Ⅴ 「Y作戦」と住民虐殺              斉藤日出治
    6、報告Ⅵ アジア太平洋戦争開始前後の海南島侵略日本海軍の「Y5作戦」   佐藤正人
    7、海南島三亜郊外の「朝鮮村」の現状と「朝鮮村虐殺」の真相究明について

 2010年8月21日 海南島近現代史研究会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、太平洋戦争被害者補償推進協議会が「“韓国併合”から100年 遺族の証言を聞く集い」を共催。

(7) 第4回総会・第6回定例研究会 2010年8月22日 
    主題:「朝鮮報国隊」の真相糾明
    1、証言1 アボヂは海南島から戻らなかった       ハン グァンス(韓光洙)
    2、証言2 アボヂの魂を自由にするたたかい       イ ヒジャ(李煕子)
    3、報告 「朝鮮報国隊」と朝鮮自営隊について      キム チョンミ(金静美)
    4、研究報告Ⅰ 1939年2月、マスメディアは海南島侵略を以下に報道したか 4  竹本昇
     5、研究報告Ⅱ 海南島の「Y作戦」と住民虐殺 日本のアジア侵略の構図     斉藤日出治
    6、研究報告Ⅲ 「海南島第十六警備隊能美事件」と「朝鮮村虐殺」について    佐藤正人
    7、2010年5月の海南島「現地調査」報告 梅種村、美桃村、海尾村、保平村、傳桂村、玉仙村で
    8、海南省民族学会、海南民間抗戦研究会準備会との共同研究・共同調査について

「海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会延期のお知らせ」

2022年01月24日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会延期のお知らせ■

 2020年夏に新型冠状病毒肺炎の感染者が急増してきたので、秋(2020年9月5日)に開催を予定していた 海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を2021年2月13日に延期しましたが、2021年にはいってから、新型冠状病毒肺炎の流行がいちだんと強まってきたので、8月21日に再延期しました。
 2021年7月下旬に強行開始された「東京オリンピック」の悪影響もあって、新型冠状病毒肺炎の伝染がさらに拡大しため、8月21日に予定していた海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を、2022年2月19日(土曜日)に再々延期しました。
 2022年はじめから新型冠状病毒肺炎の伝染が急速に拡大してきたので、残念ですが、海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を半年後に延期せざるを得なくなりました。
 2020年9月5日に開催しようとしていたのとほぼ同じ内容で海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を2022年8月21日に開催します。
 会場は、JR天満駅近くの国労大阪会館1階ホールです。
 みなさんの参加をお待ちします。


■海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会のお知らせ■
 19世紀中期以後、日本は、アイヌモシリ、奄美、琉球、台湾、カラフト島南半部、朝鮮、中国東北部・モンゴル東南部、「南洋群島」、海南島を領土化し、アジア太平洋の各地で侵略戦争を続けました。
 日本政府は、その国家犯罪の歴史を明らかにしようとせず、侵略犯罪を謝罪しようとせず、責任者を処罰しようとせず、犯罪の重大さに相当する賠償をしようとしていません。
 日本陸海軍が海南島に奇襲上陸してから68年後の2007年2月10日に発行した『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「海南島での国民国家日本の侵略犯罪を明らかにすることは、全世界的規模の侵略の構造を破壊する民衆運動の一環である」と述べました。
 2007年8月5日に結成された海南島近現代史研究会は、会則で、その目的を、「海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明します」、「海南島における日本の侵略犯罪の実態を可能なかぎり総体的に把握し、その歴史的責任を追及します」、「本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明します」と鮮明に示しました。
 その13年後に開催する今回の総会・研究会では、“歴史認識と社会変革”を主題とした前回の海南島近現代史研究会第25回定例研究会につづいて、事実を明らかにし、事実を伝達する方法について話しあいたいと思います。

  と き:2022年8月21日(日曜日)13時00分~17時(開場12時30分)
  ところ:国労大阪会館 1階ホール  
      JR天満駅改札口を出て右へ(桜ノ宮駅方向へ)200メートル           
  参加費:500円(会員は無料です)

主題:民衆の歴史研究・歴史認識・事実の伝達
■主題報告 海南島民衆の証言をどのように記録・伝達するか    佐藤正人
■主題報告 海南島と朝鮮と中国東北部と日本で証言を聞いて    金靜美
■主題報告 中国東北部に残る万人坑の問いかけるもの       小林節子
■討論 海南島近現代史・日本近現代史・世界近現代史 2
 日本は、1869年にアイヌモシリを、1872年に琉球王国を領土化(植民地化)しました。国民国家日本の歴史は他地域他国侵略・植民地支配の歴史でした。日本の国家犯罪の歴史を認識する民衆の方法について討論したいと思います。
■2020年秋の海南島近現代史研究会の21回目(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては34回目)の海南島「現地調査」について

    …………………………………………………………………………………………………………

 2007年8月5日の創立集会から2020年2月8日の第25回定例研究会までの26回の研究集会の主題は、つぎのとおりでした。

■海南島近現代史研究会総会・定例研究会■
(1)2007年8月5日 創立集会
(2)2008年2月10日 第1回定例研究会
(3)2008年8月3日 第2回総会・第2回定例研究会  
(4)2009年2月8日 第3回定例研究会
     主題:海南島侵略開始・アジア太平洋戦争準備開始70年
(5)2009年8月9日 第3回総会・第4回定例研究会
(6)2010年8月22日 第4回総会・第6回定例研究会
     主題:「朝鮮報国隊」の真相糾明
(7)2011年2月13日 第7回定例研究会
     主題:海南島とパレスチナ
(8)2011年8月28日 第5回総会・第8回研究会
     主題:海南島における日本の侵略犯罪のいま
(9)2012年2月26日 第9回定例研究会 
(10)2012年8月18日 第6回総会・第10回定例研究会
     主題:日本はなぜ海南島を侵略したのか
(11)2012年8月18日 第6回総会・第10回定例研究会
     主題:日本はなぜ海南島を侵略したのか
(12)2013年2月10日 第11回定例研究会 
     主題:海南島と独島(竹島)
(13)2013年8月25日 第7回総会・第12回定例研究会 
     主題:海南島と沖縄
(14)2014年2月9日  第13回定例研究会  
     主題:海南島における日本の侵略犯罪
(15)2014年8月23日 第8回総会・第14回定例研究会 
    日本国家が中国東北部への軍事侵略を開始してから120年後の集会
     主題:海南島と中国東北部・モンゴル東部における日本国家の侵略犯罪
(16)2015年2月11日 第15回定例研究会 
     主題:海南島近現代史研究会の7年半
(17)2015年8月23日 第9回総会・第16回定例研究会
     主題:17年間の海南島「現地調査」で明らかになったこと
(18)2016年2月14日 第17回定例研究会 
     主題:日本政府・軍・企業に殺害された人びとの生と死
(19)2016年8月28日 第10回総会・第18回定例研究会  
     主題:海南島と台湾
(20)2017年2月5日 第19回定例研究会   
     主題:証言・記録・伝達
(21)2017年8月26日 第11回総会・第20回定例研究会  
     主題:国民国家日本の他地域他国侵略の時代
(22)2018年2月3日第21回定例研究会  
     主題:日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争
(23)2018年8月18日 第12回総会・第22回定例研究会  
     主題:海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来
(24)2019年2月9日 第23回定例研究会
     主題:証言、史料(文書、映像・音声、遺物、遺物)
(25)2019年8月24日 海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会  
     主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争
(26)2020年2月8日 海南島近現代史研究会第25回定例研究会   
     主題:民衆の歴史研究・歴史認識・事実の伝達 1月16日 ~ 1月22日

海南島近現代史研究会総会・定例研究会の軌跡(二)  2011年~2015年

2022年01月23日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会総会・定例研究会(二) 2011年~2015年■ 
(9) 第5回総会・第8回研究会 2011年8月28日 
    主題:海南島における日本の侵略犯罪のいま
    1、証言 夫は海南島につれていかれた       イ ガンヒ(李康姫)
 韓琦錫(ハンギソク)さんは、1943年ころ「朝鮮報国隊」に入れられ、ソウルの刑務所から海南島に連行され、1944年2月に、海南島南東部の陵水で亡くなりました。 妻の李康姫さんが受けとった箱には、小さな骨が入っていたそうです。
    2、証言 アボヂの跡を追い続けて         ハン ガンス(韓光洙)
 韓光洙さんは、韓琦錫さんと李康姫さんの息子さんです。 昨年の海南島近現代史研究会第4回総会で証言していただきましたが、さらに話を聞かせてもらいます。
    3、報告 「朝鮮報国隊」の軌跡          キム チョンミ(金静美)
     日本海軍の要請と日本政府の閣議決定にもとづいて、朝鮮総督府は、朝鮮各地刑務所の獄中者を選び「朝鮮報国隊」を組織し、1943年春から、海南島に連行し、三亜や陵水の日本軍飛行場建設、田独や石碌の鉄鉱石採掘、石碌~八所間の鉄道建設、八所港建設などを強制しました。 
海南島に連行されたほとんどの人たちは、故郷に戻ることができませんでした。
    4、報告 海南島戦時性暴力被害訴訟ののち     海南島訴訟弁護団杉浦ひとみ
 2010年3月2日、最高裁判所は,日本軍によって「慰安婦」とされた海南島の被害者が日本政府に対して謝罪と名誉回復並びに損害賠償を求めた「海南島戦時性暴力被害賠償請求事件」の上告を棄却し上告受理申立を不受理とすると決定しました。 これによって、9年間にわたる裁判が終わりました。
     これからどうするのか、みなさんと共に考えたいと思います。
    5、討論 日本政府・日本企業に侵略犯罪の責任をどうとらせていくか
    6、報告 2011年春の海南島「現地調査」報告
      東山鎮、月塘村、「朝鮮村」、佛老村、金鶏嶺、黒眉村、板橋鎮、新龍鎮新村、八所、沙土…… で

(10) 第9回定例研究会 2012年2月26日 
    1、報告  海南島で日本語教師をしていたときのこと      細見曻
    2、 【補】 海南師範学校3期生だったYさんの証言     竹本昇
    3、 【補】 海南師範学校と黒潮会             金静美
    4、【研究報告Ⅰ】 海南島における非軍人日本人の侵略犯罪    佐藤正人
    5、【研究報告Ⅱ】 日本人「研究者」の植民地意識ーー海南島と台湾  斉藤日出治
     6、 【補】 日本人の海南島農業調査について        趙従勝  
    7、【調査報告1】 海南島昌江黎族自治県で建設中の昌江原子力発電所について
    8、【調査報告2】 2011年10月下旬~11月上旬の海南島「現地調査」

(11) 第6回総会・第10回定例研究会 2012年8月18日
     主題:日本はなぜ海南島を侵略したのか
    1、海南島近現代史研究会創立から5年間の活動報告       金静美
    2、主題報告1 日本はいつ海南島侵略を開始したか       佐藤正人
     日本政府・日本軍が、海南島侵略の準備を始めたのは、1936年9月の「北海事件」以前からでした。 国民国家日本の近現代史における海南島侵略の社会的・歴史的原因を解析したいと思います。
    3、主題報告2 中国侵略戦争からアジア南方侵略への中継地としての海南島    斉藤日出治
      日本の南方侵略は海軍の軍事戦略によるものとされていますが、日本社会が「大東亜戦争」を国民的な合意としてアジアに対する侵略戦争を推進していった経緯について考えてみたいと思います。
    4、関連報告 日中戦争の推移と三竈島・海南島         蒲 豊彦
     1937年7月に中国への攻撃を本格化させた日本は中国との長期戦に陥り、さらに太平洋へと戦線を拡大するなかで、敗戦を迎える。 この大きな流れのなかに、三竈島と海南島を位置づけてみたい。
   ■海南島「現地調査」報告
    5、2012年3月18日―29日の「現地調査」報告    金静美
      定安(漢林鎮、龍門鎮)、張州市(木垣鎮、蘭洋鎮)、臨高県(和舎鎮)、張昌県(新興町、メープル町、ウーポー町)、白沙麗族自治県(金波郷、七坊荘)、海口市(雲龍鎮)、澄舞(仁興鎮)......
        6、2 012年4月の「現地調査」報告          久保井規夫
      海南島侵略における特務部(医療分野)の策動:占領地(海南島)・植民地(朝鮮)におけるハンセン病者、同仁会、防疫班の動きについて
    7、討論 日本国家の侵略犯罪の責任者はだれなのか
    8、報告 海南民間抗戦研究会準備会、海南省民族学会との共同研究・共同調査について
    9、報告 次回の海南島「現地調査」主目的と日程」(10月下旬~11月初旬)について

(12) 第11回定例研究会 2013年2月10日  
     主題:海南島と独島(竹島)
    1、主題報告1 独島(竹島)の最新の歴史           朴炳渉
     江戸幕府や日本政府は、独島(竹島)を朝鮮領と判断したことは何度かあったが、日本領と判断したことは1905年以前には一度もなかった。 その島を日本は日露戦争に役立てるため日本領へ編入した。 そうした独島(竹島)の歴史を、最新の研究成果をまじえながら紹介する。
     2、主題報告2 海南島と独島                佐藤正人
     1905年1月に日本政府は朝鮮の独島を閣議で「本邦所属」とした。 19世紀後半以後に他地域・他国侵略の過程で形成された国民国家日本による独島領土化と海南島占領の歴史的脈絡を解析する。
     3、主題報告3 独島(竹島)問題の解明  論議・資料・地図の分析を通して  久保井規夫
     独島(竹島)問題は、日本が日露戦争の最中に欺瞞の領土化したことが発端である。 資料・地図を分析し、日本政府見解「竹島は歴史的にも国際法上も日本固有の領土」の誤りを指摘する。
     4、【報告】 海南島昌江旦場村(現、東方市四更鎮旦場村)の追悼碑建立について  金靜美
      農暦1939年9月23日に村人93人を日本軍に殺害された旦場村の人たちは、いま、犠牲者の名を刻んだ追悼碑を建立しようとしている。 村には、いまも、日本軍に焼かれた家の廃墟が残っている。
     5、【調査報告】 第9回海南島「現地調査」(2012年秋)    斉藤日出治
      日本軍が多くの村人の命を奪った儋州市木棠鎮美龍村、東成鎮水流村、白沙黎族自治県阜龍鎮阜龍郷、陵水黎族自治県光坡鎮港坡村、澄邁県加来鎮常樹村…… を訪ねたときのことを報告する。
     6、【報告】「朝鮮村」の朝鮮人の遺骨の現状          金靜美
      「朝鮮村」の中央を貫く高速道路がつくられ、日本軍に虐殺された朝鮮人が埋められている場所の7割が土砂で埋められてしまった。 残されている3割の現場を「発掘」する展望は?
     7、2013年3月の海南島近現代史研究会の第10回海南島「現地調査」について
     8、海口博物館、海南省図書館、《瓊崖縦隊》摂制組との共同作業について
■展示: 独島(竹島)にかかわる諸地図(原本)
 長久保赤水「改正日本輿地路程全圖」(1791年版)、林子平「三國通覧圖説 朝鮮八道之圖」(写本、1785年)、高柴英三雄「大日本國郡輿地全圖」(1849年)、秋田兼吉「最近踏査満韓西比利地圖」(1904年5月)、東洋拓殖會社「朝鮮在留内地人及東洋拓殖株式會社所有地分布圖」(1912年2月現在)ほか。

(13) 第7回総会・第12回定例研究会 2013年8月25日
     主題:海南島と沖縄
      2007年8月5日に創立された海南島近現代史研究会は、毎年夏に総会と定例研究会を、毎年冬に定例研究会を続けてきました。
       今年夏の総会・研究会では、日本の海南島侵略とオキナワ侵略(現在と過去の琉球処分)について知花昌一さんとともに考えたいと思います。 
     1、沖縄読谷村(ヨミタンソン)における日本軍の住民虐殺  知花昌一                 
       1945年4月1日にアメリカ合州国軍が読谷村西海岸から上陸しました。 翌日、チビチリガマへ避難していた住民約140人のうち83人が「集団自決」しました。 1983年からチビチリガマでの「集団自決」の事実と意味を追求してきた知花昌一さんに話を聞かせてもらいます。
     2、海南島における日本軍の朝鮮人虐殺            金静美
      日本政府・朝鮮総督府・日本海軍は、日本支配下の朝鮮の刑務所から獄中者を海南島に連行して、働かせ、1945年8月に虐殺しました。 また、日本政府は、オキナワ人や台湾人を海軍軍属などとして海南島で働かせました。 日本支配下の民衆の海南島での軌跡をたどります。
     3、海南島における日本軍の住民虐殺           斉藤 日出治
      日本軍は、海南島の各地で住民を虐殺しました。 これまで、わたしたちが知りえた海南島における日本軍の犯罪の諸事実を報告します。
     4、海南島と琉球王国・宮古八重山地域           佐藤正人
      日本は、1872年に琉球王国を領土とし、1895年に宮古・八重山地域を領土としました。 国民国家日本のウルマネシア侵略と海南島侵略の歴史的脈略を解明したいと思います。
     5、討論 日本国家のアジア太平洋侵略犯罪の責任者はだれか
     6、報告 海南島旦場村の追悼碑建立について
     7、報告 2013年春の海南島「現地調査」
      昌江黎族自治県十月田鎮保平村・羌園村、昌化鎮大風村・耐村・昌城村・光田村・浪炳村、海尾鎮白沙村・鶏籠坡、澄邁県加楽鎮常樹村、臨高県臨高角、定安県雷鳴鎮南曲村………。
     8、報告 海口市博物館、海南省図書館、《瓊崖縦隊》摂制組との共同作業について
9、報告 次回の海南島「現地調査」の主目的と日程(2013年10月下旬~11月初旬)

(14) 第13回定例研究会 2014年2月9日 
     主題:海南島における日本の侵略犯罪
     16世紀末(1592~93年。 1597~98年)の秀吉の軍隊の朝鮮侵略を前史とし、国民国家形成以後、日本は、周辺諸地域・諸国家を継続的に侵略し、その地の民衆の命を奪いました。
      日本の政府・軍隊・企業…… がアジア太平洋でおこない続けてきている侵略犯罪の実態を明らかにし、その歴史的・社会的責任の内実を問う民衆運動の必然性と可能性を、1939年2月10日に日本軍が海南島に奇襲上陸した75年後に検討しあいたいと思います。
    1、帝国主義諸国の侵略犯罪史における海南島侵略犯罪    佐藤正人
     日本の他地域他国侵略の歴史はおわっていません。 日本軍・日本企業が海南島で殺した民衆の名は、ほとんど明らかにされていません。 日本政府は、国家犯罪の歴史的事実の究明を回避し続けています。
    2、海南島における住民虐殺 証言と記録          金靜美
     海南島での日本軍の犯罪の文書記録はほとんど残されていません。 被害者・目撃者の証言を記録しなければ犯罪事実がなかったことにされてしまいます。 証言を聞いた場でのことを報告します。
    3、海南島の住民虐殺と戦後日本の植民地主義        斉藤日出治
     海南島のおびただしい住民虐殺はなぜ日本で無視されているのでしょうか。 この問題を戦後日本に継承されている植民地主義の視点から考えてみます。
    4、抗日戦士殺害を「功績」とする日本軍          竹本昇
     海南島で1945年3月2日に抗日戦士を爆死させたことを日本軍は「戦闘詳報」で「功績」としています。 66年後の同じ日にその現場の新龍鎮新村で、村人と戦士の遺族に話を聞かせてもらいました。
    5、討論 帝国主義諸国の国家犯罪、とくに日本の国家犯罪をどのように認識するか
    6、報告 2013年秋の海南島「現地調査」
     臨高県馬裊半島楽豪村、海口市紅旗鎮龍発村、澄邁県中興鎮福来村、文昌市潭牛鎮大頂村、昌江黎族自治県昌化鎮光田村・旧県村・浪炳村、東方市東河鎮旧村・江辺郷老村、楽東黎族自治県抱由、楽東黎族自治県志仲鎮、澄邁県中興鎮和安市、澄邁県橋頭鎮新興港村・聖眼村・福留村。
    7、報告 海南島「朝鮮村」の現状
    8、報告 海南島旦場村の追悼碑建立について
    9、報告 次回の海南島「現地調査」の主目的と日程(2014年3月下旬~4月上旬)

(15) 第8回総会・第14回定例研究会 2014年8月23日
       日本国家が中国東北部への軍事侵略を開始してから120年後の集会
     主題:海南島と中国東北部・モンゴル東部における日本国家の侵略犯罪
    1、主題報告1 軍事侵略、土地・資源略奪、住民虐殺、労働強制……    佐藤正人
      1894年10月に遼東半島に侵入した日本軍は、1945年8月まで、日本企業とともに中国東北部・モンゴル東部で、ぼうだいな侵略犯罪を犯し続けました。 その半世紀間の日本政府・軍・企業の侵略犯罪の歴史を、1939年2月から6年半の海南島における侵略犯罪史とともに解析します。
    2、主題報告2 中国東北部と海南島における日本侵略者の分割統治政策   金山
     中国東北の吉林省で生まれ育った朝鮮族で、海南島で9年間歴史研究・教師をしてきた者として、被支配者間の民族的、宗教的、経済的利害の対立を扇動し、互いを分裂・抗争させる支配者による分割統治(異なった民族間の連帯性を弱め、同一民族の内部の結束を弱める統治)の実態を検討します。
    3、主題報告3 朝鮮・中国東北部・海南島における抗日反日民衆運動    金靜美
      1894年、朝鮮における甲午農民戦争のさなか、日本軍は、旅順で民衆を大虐殺しました。 日本の侵略に抗して戦ったアジア太平洋の民衆の運動の全体を追究する方法を模索します。
    4、主題報告4 満鉄調査部による中国東北部の調査と「南方占領地調査」  斉藤日出治
     「満鉄調査部による中国東北部・モンゴル東部を中心とする調査活動が南方における調査活動及び日本軍の統治にどのように影響したかについて考えてみます。
    5、【報告】竹島=独島問題の領有権を決定する新史料       久保井規夫
     日韓の領土問題とされている竹島=独島問題を歴史問題として解決する新史料を紹介します。
    6、【報告】「ピースおおさか」と「大阪人権博物館」の社会的役割について   竹本昇
     侵略戦争・植民地支配の事実を隠す「平和や人権をかかげている公益法人」の現状を報告します。
    7、【調査報告】2014年春の海南島「現地調査」         金靜美
     澄邁県橋頭鎮沙土、臨高県加来鎮、儋州市南辰村・阜乍村・和盛村・江囲村、白沙黎族自治県細水郷・元門郷、琼中黎族苗族自治県什運郷便文村、楽東黎族自治県番陽鎮・万冲鎮・抱由・向陽村・千家村、三亜市「朝鮮村」・藤橋、陵水黎族自治県英州鎮九尾村(旧、狗尾吊村)・三才鎮朝拝山村・三才村、 瓊海市嘉積鎮東山村・塔洋鎮東山園・中原鎮燕嶺坡・長仙聯村官園村、文昌市邁号村・清瀾港・潭牛鎮昌美村、海口市甲子鎮福昌村…… で、ことし春に新たに知ったことを報告します。
    8、2014年秋の海南島「現地調査」について

(16) 海南島近現代史研究会第15回定例研究会 2015年2月11日
     主題:海南島近現代史研究会の7年半
     76年前の1939年2月11日(「紀元節」当日)に、海南島の首都(海口)を占領しようとして、日本軍は、その前日未明に海南島北部に奇襲上陸しました。 以後1941年8月中旬まで日本は海南島を占領し侵略犯罪をくりかえしました。 1873年に設定された「紀元節」は、1948年にいったんは廃止されましたが、1967年に「建国記念の日」として復活し、現在に至っています。
     海南島近現代史研究会が出発したのは、日本の海南島侵略開始68年半後の2007年8月5日でした。
     それからこれまで7年半の間に、海南島近現代史研究会が、どこまで海南島における日本の侵略犯罪の実態を把握し、その歴史的責任を追及できたのかを検証し、今後の会の活動のなかみを具体的に確定していきたいと思います。
    1、報告 証言を聞き、記録し、伝達してきた7年半の軌跡     佐藤正人
      調査し、記録し、伝達しなければ、侵略犯罪の歴史は、消しさられていきます。 会の歩みを報告します。
    2、報告 海南島近現代史研究会とわたし           中川清子
      日本が侵略戦争と植民地支配の責任を放置してきたことに強く憤りを覚えます。 オキナワ人として、海南島近現代史研究会とともに、日本が歴史的責任を果たすとはどういうことかを考えたいと思います。
    3、報告 海南島近現代史研究会と出会って          植本久司
      海南島の歴史は、わたしが訪ねたパレスチナ、オキナワの歴史と重なっています。 海南島近現代史研究会に参加して、考えさせられたこと、わたし自身がどのように関わっていくのかを報告します。
    4、報告 海南島における日本国家の侵略犯罪の証拠と証言    斉藤日出治
      加害(虐殺、掠奪、文化破壊……) の歴史を否定する「歴史書き換え」に対決する民衆運動について。
    5、報告 八紘一宇をかかげる天皇制国家の海南島侵略      久保井規夫
      紀元節」での八紘一宇の「神勅」をかかげた日本軍による海南島侵略当初の実相を報告します。
    6、討論 海南島近現代史研究会のこれまで、そして、これから
    7、調査報告 第13回海南島「現地調査」(2014年秋)      金靜美
      文昌市抱羅鎮石馬村、文昌市東閣鎮鳌頭村・林村村・南文村、文昌市東郊鎮田頭老村・福羅村、文昌市文教鎮渓西村、文昌市蓬莱鎮高金村、文昌市南阳郷金花村、文昌市重興鎮賜第村・昌文村・排田村、陵水黎族自治県英州鎮九尾村、陵水黎族自治県隆広鎮新市坡・墓山脯村、万寧市万城鎮月塘村、定安県黄竹鎮大河村、后田村、定安県雷鳴鎮南曲村、定安市、 澄邁県橋頭鎮沙土、海口市石山鎮玉栄村、海口市大坡鎮白石溪地区・塔昌村、海口市馬村・東水港で聞かせていただいたことを報告します。
    8、2015年3月の海南島近現代史研究会の14回目の海南島「現地調査」について
    9、南海出版社との共同作業について  海南島近現代史研究会に関する書籍出版のことなど

(17) 海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会 2015年8月23日
     主題:17年間の海南島「現地調査」で明らかになったこと
      いまなお、日本政府は侵略犯罪の歴史を否定しています。
      日本がアジア太平洋侵略戦争に敗北してから70年後、海南島の南海出版公司は、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会のこれまでの海南島「現地調査」の内容を報告する書籍『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足迹』を発行します。
      集会に同書を持って南海出版公司から16人が参加します。        
    1、主題報告1 「朝鮮村」・月塘村・長仙聯村・沙土・旦場村……   佐藤正人
      海南島における日本の国家犯罪についての証言と記録の現在的意味について報告します。 
    2、主題報告2 日本侵略犯罪歴史的可掩盖性和無可抹滅性   邢越(シン ユエ)
    海南近現代史研究会の一人として2010年月5月から「調査」をつづけるなかで、わたしは、加害国は歴史犯罪を「掩盖」することができず、被害者に「無可抹滅」の力があることを実感しました。
    3、主題報告3 『真相』について 南海出版公司編集者
     中国人民抗日戦争・世界反ファシスト戦争勝利70周年を記念して出版される『真相』を制作している時に考えたことを、編集者のうちの3人(何怡欣〈ホ イシン〉、呉雪〈ウ シュエ〉、張媛〈チャン ユアン〉)が報告します。
     編集者は2014年秋と2015年春の海南島近現代史研究会「現地調査」の全行程に同行して動画で記録し、それを『真相』にディスクで加えました。
    4、【討論】海南島での日本の侵略犯罪の調査と記録
     これからの海南島での日本の侵略犯罪の調査と記録について共に考え、国家犯罪の責任を具体的にとらせていく民衆の方法を話し合いたいと思います。
    5、調査報告 2015年春の海南島「現地調査」     金靜美
     旦場村、旦場園村、英顕村、海頭鎮、松涛村、長田村、腰子村、大良田村、尖石村、南坤鎮、西昌鎮、大同村、龍門鎮、老王村、金牛流坑村、林村村、大府村、東郊鎮、上苑村、龍湖鎮、南福嶺村、南曲村、大水村、土卜村、儒東村、純雅村、常樹村、長嶺村…… で聞かせていただいたことを報告します。
    6、行動計画 2015年秋の海南島「現地調査」、ドキュメンタリー新作について

【交流会】 午後5時半から8時ころまで同じ会場で、南海出版公司からの参加者を交えて、話し合います。

海南島近現代史研究会総会・定例研究会の軌跡(三) 2016年~2022年

2022年01月22日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会総会・定例研究会(三) 2016年~2022年■
(18) 海南島近現代史研究会第17回定例研究会 2016年2月14日
    主題:日本政府・軍・企業に殺害された人びとの生と死
19世紀後半以後アジア太平洋各地で日本政府・日本軍・日本企業が殺害した民衆の名前や人数を、日本政府機関は明らかにしようとしていません。アジア太平洋の政府機関も組織的に綿密に調査していません。アメリカ合州国の歴史は、先住の赤人民衆虐殺の歴史でした。タスマニア虐殺・マジマジ虐殺・ヘレロ虐殺……、世界近現代史におけるジェノサイド・エスノサイドの総括はなされていません。
 日本政府に、アジア太平洋の全域で日本政府・軍・企業が殺害した民衆ひとりひとりの名と殺害場所と殺害方法を「調査」させ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させなければなりません。
 日本国家によって殺害された人びとの生と死の軌跡をたどり、国民国家日本の侵略犯罪の全容を、民衆のちからで明らかにしていく具体的な方法について話し合いたいと思います。                  
 みなさんの参加をお待ちしています。

 ところ:クレオ大阪西 研修室   大阪市このはな区西九条6-1-20  

■主題報告 日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯           佐藤正人
 日本政府・日本軍・日本企業によって殺害されたアジア太平洋の民衆ひとりひとりの生涯をたどる意味と方法について、海南島でこれまで知ることができたことにかかわって報告します。
■主題報告 海南島と中国東北部:村落襲撃、万人坑、強制労働  金靜美
 海南島と中国東北部における日本の侵略犯罪は、軍事的・経済的・社会的につながっていました。その具体的事実を、村落襲撃、万人坑、強制労働……に焦点を合わせて報告したいと思います。
■主題報告 三竈島と海南島:三竈島の抗日ゲリラ隊と日本軍の住民虐殺     蒲豊彦
 三竃島では、抗日武装部隊がくりかえし日本軍に抵抗を試みました。日本軍は抗日武装部隊を支援しているとして住民を虐殺しました。当時の香港の新聞記事によりつつ、その詳細を報告します。
■報告 海南島とベトナムで:元舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊兵士の証言     斉藤日出治
 杉原剛さんから海南島とベトナムでの行動について最近聞いたことを、本人の了解をえて報告します。
■討論 侵略戦争・抗日戦争
 日本国家が「戦争法」を制定し侵略戦争体制の再構築を始めた2015年は、アジア太平洋の民衆にとっては抗日戦争勝利70周年の年でした。アジア太平洋での二つの戦争について話し合いたいと思います。
■調査報告 第15回海南島「現地調査」(2015年秋)        金靜美
 嶺尾村、光村、南北溝村、高石村、英歌村、八所村、新街村、墩頭村、大坡村、老王村、昌美村、土卜嶺村、慶雲村、大水村、龍馬坡、純雅村、三媽溝市村、詩礼村、潭陸村……でのことを報告します。
■2016年3月の海南島近現代史研究会の16回目の海南島「現地調査」について
■南海出版社との共同作業について(「調査」、ドキュメンタリー、写真集……)

(19) 海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会  2016年8月28日
 主題:海南島と台湾
 1895年5月に日本軍が台湾に侵入し、6月に日本政府は台湾総督府を開設しました。10月に台湾民主国は崩壊しましたが、その後も、太魯閣民族など台湾民衆は、抗日反日闘争を持続的に戦いました。
 日本の台湾植民地化機関である台湾総督府は、1910年代から日本の海南島侵略を準備する「調査」を開始しました。1938年9月に、台湾総督府は、海南島を中心として、台湾・「南洋群島」を統合し、「帝国南方政策の前進拠点」とするという「海南島処理方針」を作成しました。同じ1938年9月に、台湾総督府は、「南方外地統治組織拡充強化方策」をだし、そこで「海南島に海南庁を置き東沙島西沙島及新南群島を附属せしむ」としていました。
1939年2月の日本軍の海南島奇襲上陸後、日本の植民地であった台湾からおおくの民衆が、兵士、労働者、軍隊性奴隷……として海南島に連行されました。
              
 ところ:クレオ大阪西 研修室   大阪市このはな区西九条6-1-20

■主題報告 海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」……)     佐藤正人
■主題報告 日本の海南島侵略における台湾総督府の役割      金勝一
■主題報告 台湾総督府・朝鮮総督府・南洋庁・「海南庁」     金靜美
■主題報告 台湾総督府による「海南島調査」と台北帝国大学による「海南島学術調査」   斉藤日出治
■主題報告 『台湾日日新聞』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか     竹本昇
■討論 1945年8月以後の海南島・台湾・ベトナム・フィリピン・インドネシア・朝鮮……日本
 アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾、朝鮮、「南洋群島」、中国東北部・モンゴル東南部、海南島……を植民地とした日本は、1945年8月以後もその歴史を継承しています。
 日本国家の侵略犯罪の全容を、民衆のちからで明らかにしていく道について話し合いたいと思います。
■報告 海南島への侵略と支配(所蔵資料1.図版・写真記録関係の紹介)  久保井規夫
■調査報告 第16回海南島「現地調査」(2016年春)        金靜美
 嶺尾村、光村、南北溝村、高石村、英歌村、八所村、新街村、墩頭村、大坡村、老王村、昌美村、土卜嶺村、慶雲村、大水村、龍馬坡、純雅村、三媽溝市村、詩礼村、潭陸村……での証言を報告します。
■2016年10月の海南島近現代史研究会の17回目の海南島「現地調査」について

(20) 海南島近現代史研究会第19回定例研究会   2017年2月5日
    主題:証言・記録・伝達
 アジア太平洋侵略戦争敗北後も、日本国家は、朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・アフガニスタン戦争……に加担し、日本政府は2015年9月に「戦争法」を公布しました。日本の他地域他国侵略の時代は終っていません。
侵略犯罪の加害者の真実の証言はあまりに少なく、日本の国家と社会が隠し消し去ろうとしている過去の侵略犯罪の事実は、犠牲者・被害者の証言によってのみ明らかにされる場合が少なくありません。
 日本は侵略犯罪を他地域他国だけでおこなったのではありません。日本国内でおこなった侵略犯罪の事実もまた十分には明らかにされていません。
 証拠資料(日本政府文書、日本軍文書を含む)と証言に基づいて日本の侵略犯罪の事実をできるだけ具体的に明らかにし、それを伝達するにはどうするのか……について共に、話し合いたいと思います。             

 ところ:国労大阪会館 第二小会議室 

■主題報告 証言を聞き、記録し、伝達する主体のありかたについて            佐藤正人
■主題報告 海南島・アイヌモシリ・沖縄・日本……に連行された朝鮮人の証言    金靜美
■主題報告 海南島における日本の国家犯罪と日本民衆の歴史的責任               斉藤日出治
■主題報告 2002年、2003年、2006年の海南島での聞き取りのこと               日置真理子
■主題報告 海南島で日本軍が爆死させた抗日戦士の妻の証言                    竹本昇
■主題報告 海南警備府特別陸戦隊兵士だった湊健一さんと大橋敏太郎さんの2016年の証言
■討論 日本国家の侵略犯罪の犠牲者の記憶と加害者の記憶
 日本の侵略犯罪を、被害者の証言と加害者の証言によって明らかにしていく民衆運動について。
■報告加害展示を消し去った‘ピースおおさか’に対する訴訟の現段階          竹本昇
■報告 『忘記過去意味着背叛』、『海南省重要革命遺祉通覧』、『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』       
■調査報告 第17回(第30回)海南島「現地調査」(2016年11月)             
 文昌市玉堂村・秀田村・坡頭村、澄邁県永跃村・龍楼村・加丙村・排坡園村・雅頌村・雅頭村・新村、海口市演豊村・美良村・新橋村・美桐村、臨高県美吉村・親仁村・和伍村……での証言を報告します。
■2017年4月の海南島近現代史研究会の18回目(31回目)の海南島「現地調査」について

(21) 海南島近現代史研究会第11回総会・第20回定例研究会  2017年8月26日
    主題:国民国家日本の他地域他国侵略の時代
 1869年に日本は北方のアイヌの大地を領土とし、1872年に南方の琉球王国を領土とし、以後、他地域他国侵略を続けてきました。日本民衆は、政府・軍・企業の侵略犯罪に加担してきました。
 世界史・民族史・国家史・地域史・個人史を全世界的規模で考え、侵略犯罪の事実をできるだけ総体的に詳細に知り、その歴史的責任の所在を明らかにし、日本政府に謝罪・賠償させなければ、日本民衆は、日本が侵略した地域の民衆と国際的・地域際的・民族際的に連帯することはできないでしょう。
 1947年5月3日に、最悪の侵略犯罪者を日本国の象徴・日本国民統合の象徴とする「日本国憲法」が施行されました(1946年11月3日〈「明治節」〉に公布)。それから70年あまりが過ぎました。
 2016年3月29日に「戦争法」が、2017年7月11日に「共謀罪法(改正組織犯罪処罰法)」が施行されました。
 国民国家日本の他地域他国侵略の時代を終らせる民衆運動の基礎を確実なものにする近現代史研究について話し合いたいと思います。

 ところ:国労大阪会館 1階ホール

■主題報告 海南島における日本の侵略犯罪          佐藤正人
■主題報告 植民地主義と「大東亜共栄圏」          斉藤日出治
■報告 天理の大本営・"慰安所"・柳本飛行場とTの日記(朝鮮人強制連行) 高野真幸
■報告 海南島と済州島                   金靜美
■討論 国民国家日本の他地域他国侵略犯罪をどのように解明していくか
 アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾、朝鮮、「南洋群島」、中国東北部・モンゴル東南部、海南島……を植民地とした日本国家は、1945年8月以後もその歴史を克服していません。
 日本国家の侵略犯罪の全容を、民衆の力でどのように明らかにしていくかを話し合いたいと思います。
■報告 加害事実を消し去った「ピースおおさか」の展示改悪に対抗して  竹本昇
■報告 『忘記過去意味着背叛』・『控訴 採訪九位海南慰安婦実録』の日本語版発行
■調査報告 第18回海南島「現地調査」(2017年春)       佐藤正人
 文昌市錦山鎮湖山区湖塘村・東山村、抱羅鎮石馬村・公坡村・発山村・水北村、文教鎮龍楼村、昌洒鎮東坡村、東閣鎮竹根村・抱芳村、海口市三江鎮楽堂坡村・道美村・豊平村・博文村での証言を報告します。
■2017年秋の海南島近現代史研究会の19回目の海南島「現地調査」について

(22) 海南島近現代史研究会第21回定例研究会  2018年2月3日
    主題:日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が海南島における日本の侵略犯罪の「現地調査」を始めたのは1998年6月でした。2007年8月に創立された海南島近現代史研究会は、この年9月~11月に最初の海南島「現地調査」をおこないました。これは紀州鉱山の真実を明らかにする会としては14回目の「現地調査」でした。2017年12月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては32回目、海南島近現代史研究会としては19回目の「現地調査」をおこないました。
 これまで20年間(1998年~2017年)、わたしたちは、海南島で日本の侵略犯罪の実態を調査するとともに、海南島における抗日反日闘争の軌跡をたどってきました。
 アジア太平洋全域における国民国家日本の侵略犯罪を明らかにし抗日反日闘争の歴史を追究する実証的な民衆史の方法について話し合いたいと思います。

ところ:国労大阪会館 1階ホール

■報告 20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問の途上で      佐藤正人
■報告 琉球処分は続いている          関西沖縄文庫 金城馨
■報告 海南島に連行された朝鮮人と台湾人の歴史        金靜美
■報告 海南島における日本の侵略犯罪と「大東亜戦争」     斉藤日出治
■報告 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪  日置真理子
■報告 「ピースおおさか」の侵略の事実隠しに対抗する裁判闘争  竹本昇                    
■討論 国民国家の侵略犯罪と抗日反日闘争
      国民国家日本の歴史はアジア太平洋侵略の歴史でした。この時代は全世界的な規模でいまも終わっていません。海南島近現代史に内包されている世界近現代史における国民国家の侵略犯罪の全容をいかに明らかにしていくかについて話し合いたいと思います。
■調査報告 第19回海南島「現地調査」(2017年12月)     佐藤正人
 海口市新海地域、海口市三江镇上雲村・咸宜村・攀丹村、蘇民村・北会鋪村、澄邁県仁興鎮霊地村・仁坡村・石鼓村・嶺崙村、屯昌県烏坡鎮四角園・美華村・田浩村、坡田村・尖石村・烏石坡村、屯昌県枫木鎮岑仔木村、瓊中黎族苗族自治県中平鎮報南村・土平村、五指山市南聖鎮文化市・什赤村、保亭黎族苗族自治県加茂鎮・保城鎮・新政鎮番雅村、三亜市回新村、瓊海市中原鎮長仙村などでの証言を報告します。
■2018年3月の海南島近現代史研究会の20回目の海南島「現地調査」について

(23) 海南島近現代史研究会第12回総会・第22回定例研究会  2018年8月18日
    主題:海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が、石原産業の海南島での企業犯罪調査を主目的として海南島を始めて訪ねたのは1998年6月でした。海南島近現代史研究会の創立は2007年8月でした。
 これまで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は32回、海南島近現代史研究会は19回、海南島を訪ね、各地でおおくの人たちに、日本の侵略犯罪、海南島民衆の抗日反日闘争についての証言を聞かせてもらうとともに、韓国国内で海南島に連行された朝鮮人の証言を聞かせてもらい、日本国内で海南島侵略にかんする史資料を網羅的に探索し分析しつつ海南島に侵入した日本人に面会を求めてきました。
 わたしたちは、国民国家日本の他地域他国侵略の時代を終らせる民衆運動の基礎を確実なものにしようとしてきました。海南島近現代史研究会は会則で、「本会は、海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明し、その歴史的責任を追及します」、「本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明します」としています。
 1998年6月から20年間の、わたしたちの海南島近現代史研究の軌跡と現状を報告し、今後、さらに具体的になにをなすべきかについて、みなさんと話し合いたいと思います。

ところ:国労大阪会館 1階ホール

■主題報告 20年間に、何ができたか、何ができなかったか    佐藤正人
■主題報告 植民地朝鮮から海南島に連行された朝鮮人        金靜美
■主題報告 海南島における日本の国家犯罪と日本人の「戦後」責任    斉藤日出治
■主題報告 海南島における侵略の事実を伝える           竹本昇
■報告 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 2  日置真理子
■討論 海南島近現代史研究の意味と今後の課題
      国民国家日本は、アイヌモシリ・琉球植民地化、台湾侵略、朝鮮侵略……の過程で、軍備を増強し、経済基礎構造を建設・強化してきました。日本国家の政治的・経済的・社会的・文化的侵略構造は、19世紀後半から現在まで変わっていません。いま日本政府は、「明治150年(2018年)」記念行事の準備をすすめています。日本の他地域他国侵略の構造を破壊する民衆の歴史認識について討論したいと思います。
■報告 ピースおおさか改悪リニューアル裁判上告と「取り戻す会」の発足   竹本昇
■2018年秋の海南島近現代史研究会の20回目の海南島「現地調査」について

(24) 海南島近現代史研究会第23回定例研究会   2019年2月9日
    主題:証言、史料(文書、映像・音声、遺物、遺物)
 海南島だけでなく、アジア太平洋への国民国家日本の侵略犯罪の歴史的事実を示す証拠のおおくは犯罪者によって抹消・隠蔽されていますが、証言、史料(文書、映像・音声、遺物、遺跡)を証拠とする民衆の歴史研究によって明らかにすることができます。
 2017年2月9日の定例研究会で、「証言・記録・伝達」を主題として証言と証拠文書に基づいて日本の侵略犯罪の歴史的事実を明らかにし、それを伝達する道筋を話し合いました。その2年後の定例研究会で、証言と史料を民衆の力で集め分析する方法についてさらに討論を深めたいと思います。
 日本の侵略犯罪、抗日反日闘争にかかわる証言、史料の「確保」と分析は、海南島に限っても容易ではありません。証言者が少なくなっています。日本軍が海南島侵略を開始した1939年に10歳であった人は、2019年には90歳です。日本が敗北した1945年に10歳であった人は、2019年には84歳です。
 日本軍の海南島奇襲上陸(1939年2月10日)から80年。侵略犯罪の証拠を民衆の力で保存し、侵略犯罪の歴史的責任をとるべきものに具体的にとらせていく、個々の民衆のありかたについて話し合いたいと思います。

 ところ:国労大阪会館 1階ホール

■主題報告 証言の客観性を保証する聞き手の主体のありかたについて      佐藤正人
■主題報告 海南島「朝鮮村」の朝鮮人虐殺現場での証言      金靜美
■主題報告 海南島での証言を聴いて  問う側から問われる側へ        斉藤日出治
■主題報告 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 3     日置真理子
■討論 日本軍の海南島侵入から80年。これからどうするか。
 日本のアイヌモシリ植民地化から150年。日本の海南島侵略から80年。国民国家日本  の他地域他国侵略の歴史を終らせるこれからの民衆運動について。
■報告 「設置理念に則ったピースおおさかを取り戻す会」のこれまでの活動                竹本昇
■報告 資本主義への抗い方  一人の生活者の実践報告      小田伸也      
■調査報告 第20回(第33回)海南島「現地調査」(2018年10月)       佐藤正人
    海口市三江鎮古橋村、東寨村、羅梧村、眼鏡塘村、闘門村、龍泉鎮仁合村、雲龍鎮、北橋村、甲子鎮文池村、龍興村、咸来鎮木石村、美蘭区桂林洋、陵水黎族自治県光坡、鎮港坡村、提蒙郷礼亭村、本号鎮三十笠村・放馬村、保亭黎族苗族自治県保城鎮、新政鎮番雅村、三亜市崖州区(前、崖城鎮)水南村、領海村、長山村、楽東黎族自治州楽、羅村、望楼港村、瓊中黎族苗族自治県紅毛鎮羅坦村、黎凑村、榮根鎮水潮村での証言を報告します。
■2019年春の海南島近現代史研究会の21回目(34回目)の海南島「現地調査」について

(25) 海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会  2019年8月24日
     主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争
 清日戦争後の1895年5月29日に日本は台湾侵略を開始し、50年間、台湾を植民地としつづけました。台湾民衆は、日本の軍事侵略と植民地化に抗して戦いつづけました。
 80年前、1939年2月10日に日本軍が海南島に奇襲上陸しました。以後、6年半、海南島民衆は、日本の軍事侵略と植民地化に抗して戦いつづけました。
 1941年12月8日、日本支配下の海南島三亜港とエトロフ島ヒトカップ湾から出港した日本軍は、マラヤのコタバルとハワイのパールハーバーを奇襲攻撃しアジア太平洋侵略戦争を開始し、アジア太平洋の諸国家・諸地域を支配しようとしました。1943年5月31日、日本政府は、「大東亜政略指導大綱」で、「「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム」としました。
 帝国主義諸国の他地域他国軍事侵略は政治的・経済的・社会的・文化的支配(他地域他国植民地化)の手段でした。帝国主義諸国の他地域他国軍事侵略・植民地化の世界史は、被侵略地域・国家の民衆の抵抗の世界史でした。日本の海南島侵略から80年。日本の他地域他国侵略の歴史は終わっていません。    
 世界史における日本の他地域他国侵略の歴史と被侵略地域・国家の民衆の抗日反日闘争の歴史について話しあいたいと思います。

 ところ:国労大阪会館 1階ホール 

■主題報告 国民国家日本の他地域他国植民地化の歴史       佐藤正人
■主題報告 海南大学における海南島に関する外国語文献研究     金 山
■主題報告 日本の植民地支配に抗した朝鮮民衆と海南島民衆     金 靜美
■主題報告 これまでの海南島訪問で学んだこと           斉藤日出治
■討論 海南島近現代史・日本近現代史・世界近現代史
   日本は、1869年にアイヌモシリを、1872年に琉球王国を領土化(植民地化)しました。国民国家日本の歴史は他地域他国侵略・植民地支配の歴史でした。日本の国家犯罪の歴史を認識する民衆の方法について討論したいと思います。
■報告 ピースおおさか改悪再開館に対する裁判 勝訴確定         竹本昇
■報告 『忘記過去意味着背叛』・『控訴 採訪九位海南“慰安婦”実録』日本語版発行
■2019年秋の海南島近現代史研究会の21回目(34回目)の海南島「現地調査」について

(26) 海南島近現代史研究会第25回定例研究会   2020年2月8日
     主題:歴史認識と社会変革
 日本政府・日本軍が海南島侵略を開始した1939年2月の数か月後に日本企業は海南島に侵入しました。
 海南島侵略開始70年前、1869年に日本新政府は、アイヌモシリを領土化し、その3年後、1872年に琉球王国を領土化しました。その後、国民国家日本は、アジア太平洋の各地で、大地と海を奪い、故郷を破壊し、命を奪い、資源を奪い、文化を破壊し、コトバを奪い、民衆を強制連行し、民衆を性奴隷にしました。
 日本政府は、その国家犯罪の歴史を正確・詳細に認識しようとせず、侵略犯罪を謝罪しようとせず、責任の所在を明らかにしようとせず、まともに賠償しようとしていません。
 いま、歴史認識にかかわって、あたかも日本と韓国の民衆が対立しているかのような宣伝が、日本政府、日本企業の侵略犯罪隠蔽に協力している日本のマスメディアなどによって進められています。
 アジア各地で女性を日本陸海軍、日本政府が組織的に“軍隊性奴隷”とした歴史的事実を隠蔽・否認しているのは、日本政府、日本ナショナリストです。朝鮮や中国から住民を強制連行し強制労働させたのは、日本政府、日本企業でした。
 国民国家日本の侵略犯罪にかかわる諸問題は、国家間の問題ではなく社会正義の問題であり、とくに歴史的責任を有する国家の国民がナショナリズムを克服することが問われている問題です。
 国民国家日本の歴史は他地域他国侵略の歴史であり、その国家の構造は、現在も変わっていません。
 客観的な歴史認識は社会変革とむすびつかなければ成り立たず、社会変革の力は客観的な歴史認識によって強化されるのだと思います。
 社会変革の実践としての歴史認識について、ともに話しあいたいと思います。

 ところ:国労大阪会館 1階ホール 
■報告 アジア太平洋における日本の国家犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争 佐藤正人
■報告 文化財返還問題について考える                    五十嵐彰                                      
■報告 強制連行・強制労働の事実を子どもたちにどう伝えるか         鄭初美
■報告 軍隊性奴隷の事実を子どもたちにどう伝えるか             皇甫康子
■報告 植民地朝鮮における歴史認識と分断国家朝鮮における社会変革      金靜美                      
■討論 他地域他国を侵略した国家犯罪・他地域他国を植民地化した国家犯罪を認識しようとしない日本国家の政治・社会・文化・経済状況を解析し、民衆の歴史認識の方法を探求し、社会変革の具体的な道すじを、討論のなかですこしでも明らかにしていきたいと思います。
■2020年3月の海南島近現代史研究会の21回目(34回目)の海南島「現地調査」について

27 海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会
2020年9月5日→2021年2月13日→8月21日→2022年2月19日→8月21日
主題:民衆の歴史研究・歴史認識・事実の伝達
 19世紀中期以後、日本は、アイヌモシリ、奄美、琉球、台湾、カラフト島南半部、朝鮮、中国東北部・モンゴル東南部、「南洋群島」、海南島を領土化し、アジア太平洋の各地で侵略戦争を続けました。
 日本政府は、その国家犯罪の歴史を明らかにしようとせず、侵略犯罪を謝罪しようとせず、責任者を処罰しようとせず、犯罪の重大さに相当する賠償をしようとしていません。
 日本陸海軍が海南島に奇襲上陸してから68年後の2007年2月10日に発行した『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「海南島での国民国家日本の侵略犯罪を明らかにすることは、全世界的規模の侵略の構造を破壊する民衆運動の一環である」と述べました。
 2007年8月5日に結成された海南島近現代史研究会は、会則で、その目的を、「海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明します」、「海南島における日本の侵略犯罪の実態を可能なかぎり総体的に把握し、その歴史的責任を追及します」、「本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明します」と鮮明に示しました。
 その13年後に開催する今回の総会・研究会では、“歴史認識と社会変革”を主題とした前回の海南島近現代史研究会第25回定例研究会につづいて、事実を明らかにし、事実を伝達する方法について話しあいたいと思います。

ところ:国労大阪会館 1階ホール

主題:民衆の歴史研究・歴史認識・事実の伝達
■主題報告 海南島民衆の証言をどのように記録・伝達するか       佐藤正人
■主題報告 海南島と朝鮮と中国東北部と日本で証言を聞いて       金靜美
■主題報告 中国東北部に残る万人坑の問いかけるもの          小林節子
■討論 海南島近現代史・日本近現代史・世界近現代史 2
 日本は、1869年にアイヌモシリを、1872年に琉球王国を領土化(植民地化)しました。国民国家日本の歴史は他地域他国侵略・植民地支配の歴史でした。日本の国家犯罪の歴史を認識する民衆の方法について討論したいと思います。
■報告 “同情”か“名誉回復”か:映画『二十二』からみる謝罪賠償不履行の影響  熱田敬子
■2020年秋の海南島近現代史研究会の21回目(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては34回目)の海南島「現地調査」について

2022年のはじめに

2022年01月01日 | 海南島近現代史研究会
 32年あまり前の1989年6月4日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会が創立され、1997年2月9日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会が創立され、2007年8月5日に、海南島近現代史研究会が創立されました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会がはじめて海南島を訪問したのは、1998年6月でした。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2007年5月~6月までに12回、海南島を訪ね、日本軍・日本政府・日本企業の侵略の跡を調査し、海南島の各地で犠牲者や遺族や目撃者に証言を聞かせてもらいました。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の会員と紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が中心になって準備し、2007年8月5日に海南島近現代史研究会の創立集会が開かれました。
 この集会の内容はつぎのとおりでした。
    1 開会。
    2 海南島近現代史研究会創立にいたる経過報告。
    3 創立集会へのメーセージ。
    4 会則(案)、討議。会則、決定。
    5 海南島近現代史研究会の活動計画について。  提案と討論。
    6 ドキュメンタリー『月塘村惨案』日本語暫定版試写。
    7 月塘村追悼碑の建立基金協力について。
    8 日本政府にたいする海南島侵略犯罪真相究明要求。
    9 会報『海南島近現代史研究』創刊について。
    10 自由討論。
    11 閉会。

 1939年2月から1945年8月までの6年半の間に、日本政府・日本陸海軍・日本企業・日本人「移民」……が実行した海南島における侵略犯罪をできるだけ具体的にくわしく明らかにし、その社会的・国家的責任のありかをはっきりさせ、責任をとるべき者にとらせ、日本国家に賠償させる日本の民衆運動をすこしでも強めようとして、海南島近現代史研究会が創立された翌月の2007年9月から11月まで、海南島近現代史研究会は最初の海南島「現地調査」を、紀州鉱山の真実を明らかにする会とともにおこないました。これは紀州鉱山の真実を明らかにする会としては14回目の海南島「現地調査」でした。
 その後、海南島近現代史研究会は紀州鉱山の真実を明らかにする会と毎年海南島を訪ね、海南島の会員とともに「現地調査」を続けました。
 2015年8月に、海南島の南海出版公司から『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』が発行されました。その目次の日本語訳はつぎのとおりです。

 序文
 第一章 海南島近現代史研究会の沿革と創立
  第一節 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
  第二節 紀州鉱山の真実を明らかにする会
  第三節 海南島近現代史研究会 
 第二章 紀州鉱山の真実を明らかにする会・海南島近現代史研究会の海南島「現地調査」足跡
  第一節 田独鉄鉱の調査と“朝鮮村”の発掘作業
  第二節 旦場村“九·廿三”大惨案
  第三節 月塘村“三·廿一”惨案
  第四節  “沙土峒惨案”
  第五節 日本軍の海南島における“慰安婦”制度の真相調査
  第六節 海南島侵略日本軍の遺跡
  第七節 “一人ひとりの死者の名が極めて重要!”
  第八節 歩みを止めず真相を探求する
 第三章 紀州鉱山の真実を明らかにする会第26回・海南島近現代史研究会第13回海南島「現地
    調査」足跡
 第四章 紀州鉱山の真実を明らかにする会第27回・海南島近現代史研究会第14回海南島「現地
    調査」足跡
 第五章 海南岛近现代史研究会主要成員文章摘録
     佐藤正人「2013年10月25日、文昌市潭牛鎮大頂村で」
     佐山和子「この運動に初めて参加して」
     竹本昇「初めての海南島訪問で考えたこと」                      
     日置真理子「海南島調査に参加して」
     﨑久保雅和「海南島調査に参加して」
     金智媛「海南島でのこと」
     足立正生「ドキュメンタリー・ビデオ「日本が占領した海南島で」を観て」
     太田昌国「写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』を見て 「侵略犯罪に時効はない!」とする
    立場からの歴史証言」
     邢越「抗日志士邢诒壮」
 附録一 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を
    明らかにする会・海南島近現代史研究会の出版物の目録
 附録二 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』・紀州鉱山
    の真実を明らかにする会『会報』総目次
 附録三 ドキュメンタリー紹介
 附録四 随行海南島近現代史研究会海南島「現地調査」小組「足跡――海南島近現代史研究会第26、27回海南島
    「現地調査」参加記録抄」
 后 记 佐藤正人「海南島で学んだこと、感じたこと、考えたこと」
     金靜美「海南島とわたし」
     斉藤日出治「海南島での聞き取りを通して思ったこと」

 2018年10月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は33回目、海南島近現代史研究会は20回目の海南島「現地調査」をおこない、海口市三江鎮古橋村、東寨村、羅梧村、眼鏡塘村、闘門村、龍泉鎮仁合村、雲龍鎮、北橋村、甲子鎮文池村、龍興村、咸来鎮木石村、美蘭区桂林洋、陵水黎族自治県光坡、鎮港坡村、提蒙郷礼亭村、本号鎮三十笠村・放馬村、保亭黎族苗族自治県新政鎮番雅村 、三亜市崖州区(前、崖城鎮)水南村、領海村、長山村、楽東黎族自治州楽羅村、望楼港村、瓊中黎族苗族自治県紅毛鎮羅坦村、黎凑村、榮根鎮水潮村を訪ねました。
 その後、現在まで、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会は、海南島を訪問できていません。
 1998年6月から2018年10月までの20年あまりの間、海南島でおおくの村人に証言を聞かせてもらうことができました。
 2019年からこれまで、海南島「現地調査」は中断していますが、新型冠状病毒肺炎の流行が治まったらすぐに再開したいと考えています。
 
       海南島近現代史研究会 佐藤正人


■これまでの海南島「現地調査」■
 1998年6月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第1回)。
 2000年3~4月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第2回)。
 2001年1月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第3回)。
 2002年3月~4月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第4回)。
 2002年10月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第5回。韓国挺身隊研究所と)。
 2003年3~4月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第6回)。
 2003年7~8月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第7回。韓国KBS取材スタッフと)。
 2004年12月~2005年1月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第8回)。
 2005年9月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第9回)。
 2006年3月~4月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第10回)。
 2006年4月~5月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第11回。5月2日「朝鮮村試掘」。
 2006年12月~2007年1月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第12回)。
 2007年5月~6月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第13回)。 
 2007年9月~11月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第14回)。
          海南島近現代史研究会「現地調査」(第1回)。
 2008年4月~5月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第15回)。
          海南島近現代史研究会海南島「現地調査」(第2回)。
 2008年10月  紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第16回)。
         海南島近現代史研究会「現地調査」(第3回)。
 2009年6月  紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第17回)。
        海南島近現代史研究会「現地調査」(第4回)。
 2010年5月  紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第18回)。
        海南島近現代史研究会「現地調査」(第5回)。
 2011年2月~3月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第19回)。
         海南島近現代史研究会「現地調査」(第6回)。
 2011年10月~11月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第20回)。
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第7回)。
 2012年3月  紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第21回)。
        海南島近現代史研究会「現地調査」(第8回)。
 2012年10月~11月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第22回)。
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第9回)。
 2013年3月~4月  紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第23回)。
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第10回)
 2013年10月~11月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第24回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第11回)
 2014年3月~4月  紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第25回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第12回)
 2014年10月~11月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第26回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第13回)
 2015年3月~4月  紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第27回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第14回)
 2015年11月    紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第28回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第15回)
 2016年4月~5月  紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第29回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第16回)
 2016年11月    紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第30回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第17回)
 2017年4月~5月  紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第31回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第18回)
 2017年12月    紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第32回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第19回)
 2018年10月    紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第33回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第20回)
 2019年春以後中断 紀州鉱山の真実を明らかにする会「現地調査」(第34回)
           海南島近現代史研究会「現地調査」(第21回)

【報告】 2020年秋に、なぜ民衆運動の深化をさまたげる「会」が現われたのか  注記

2021年10月27日 | 海南島近現代史研究会
■【報告】2020年秋に、なぜ民衆運動の深化をさまたげる「会」が現われたのか  注記■

                                     佐藤正人
 
◆注記① 「「戦後」という日本社会の歴史認識 海南島の住民虐殺と沖縄の強制集団死との結び目から見えてくるもの」で斉藤日出治さんが史・資料をまったく示さずにおこなっていた虚偽の歴史叙述の数例と意味不明のデタラメな叙述の数例。
 ① 日本軍は海南島で住民を無差別に虐殺する一方で、敗戦の末期にサイパン島、グアム島、テニアン島、フィリピン、沖縄、「満州」で、今度は自国の住民を大量に死に追いやった。非戦闘員を戦闘に巻き込み、足手まといになると住民を見捨て、生きながらえるよりもみずから死を選ぶよう指示した。「集団自決」という強制集団死が、これらの地上戦が行われた各地で発生した。
 ②沖縄で起きた「集団自決」という日本の非戦闘員の自死行為が海南島の住民虐殺と同じ質のものであり、後者の住民虐殺が前者の「集団自決」をもたらしたのだ……。
 ③ 強制労働のさなかに多くの住民が……挨拶をしないと言って電気拷問をかけられ、さらに銃剣で刺し殺された。
 ④「戦後」とは、日本の社会が敗戦の経験によってみずからの手で歴史を検証する回路を封じ込め、二つの住民虐殺を容認、あるいはかたちをかえて再生産してきた体制である。
 ⑤現在のわれわれに求められているのは、住民虐殺を抹殺、あるいは変造するこの「戦後」という集合的記憶と対決するもうひとつの歴史認識を構築することであり、もう一つの歴史認識の可能性を提示することである。
 ⑥沖縄の「集団自決」は、日本のアジアにおける住民虐殺という植民地支配と侵略のコンテクストがもたらした帰結としてとらえられるべき。
 ⑦ 海南島の住民虐殺の事実を抹消し沖縄の強制集団死を変造することによって成り立つ戦後日本の歴史認識。
 ⑧ 日本軍統治下の海南島で住民に行使された日本軍の暴力について、国民は戦後七〇年近くのあいだその検証を行おうとしてこなかった。
 ⑨ 日本は敗戦によって植民地主義を強制的に断念させられた。
 ⑩ アジア諸地域に対する植民地体制は敗戦によって放棄させられても、アジアに対する植民地主義の意識はそのまま存続する。
 ⑪日本の社会が自覚しないままに戦後七〇年ちかくのあいだ自明の前提として戦後社会に保持してきた日本の植民地主義。

◆注記② 「この会のありかたについて-わたしはなぜ退会するのか」という文書に、斉藤日出治さんは、
 「海南島で、自分のできるかぎりの聞き取りをして、メモを作り、自分なりの報告書をつくりました。その作業を通して、自分が海南島における日本の重大な侵略犯罪について学んだことを文章化しようとこころみました」。
 「海南島における日本の侵略犯罪の責任追及をする会は、あらゆる機会に会員がみずからこの活動から学んだことを外部に伝える必要があります。記者のインタビュー、集会、などで発言していかなければなりません。ところが、そのような発言や記述が徹底して検証され、そこに間違った発言や記述が見つかると、まるで会の運動を裏切ったかのような批判がされるようになると、会員は自由にものが言えなくなります。共産党のかつての査問委員会のような審査と糾弾に等しいことがこの会の内部ではおこなわれているのです」。
などと書いていた。

 「会員」が、「記者のインタビュー、集会、などで」おこなった「発言や記述」が「徹底して検証され、そこに間違った発言や記述が見つかると、まるで会の運動を裏切ったかのような批判」がなされたことがあったという虚偽を斉藤日出治さんがなぜ書くことができたのか、理解できない。 
 中国の国営通信社である新華社の記者から、斉藤日出治さん、竹本昇さん、金靜美さん、佐藤正人が長時間いっしょに取材を受け、記事になったことがあった。
 このときの新聞記事とテレビ放送については、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』63号・18号に掲載してある。
 海南島で南海出版公司の編集者から斉藤日出治さんが取材を受けたことがあった。 
 そのときの斉藤日出治さんの「発言」が誰かによって「「徹底して検証され、そこに間違った発言や記述が見つかると、まるで会の運動を裏切ったかのような批判」がなされたことがなかったことは、斉藤日出治さん自身がよく知っていることだろう。
 海南島の南海出版公司の編集者おこなった斉藤日出治さんへのインタビューが含まれている『真相 海南島近現代史研究会海南島17年(27次)調査足跡』(2015年8月刊)、および『忘記過去意味着背叛』(2015年12月刊)が出されていることを斉藤日出治さんは知っているだろう。
 「そのような発言や記述が徹底して検証……」というコトバは、斉藤日出治自身が虚言であることを自覚しつつ発している恥知らずな虚言である。
 斉藤日出治さんが「自分が海南島における日本の重大な侵略犯罪について学んだことを文章化しようとこころみました」と言っている「文章」の作成過程で剽窃をおこなっていると、佐藤正人は、具体的に指摘し、なんども質問している。
 その質問にまともに答えることなく、斉藤日出治さんは、悪辣な空言を20204月29日に、「退会のあいさつ」で述べていた。そこに斉藤日出治さんは、会について
 「そういう断定がなぜそうなのかについての共通の理解を深めることを妨げ、なんとなくわかった雰囲気を創り出し、自分に異を唱えるな、と恫喝し、同意を強制します。そしてそのような強いられた同意が会の合意となるのです。しかし、そのような断定は思考の判断停止をもたらします。それ以上考えなくてもわかったような雰囲気が生まれる。そのような雰囲気でひとが行動を起こすのは、ファシズムの行動様式です。わたしたちはそのような動きを乗り越える運動をめざしていながら、みずからが克服すべき運動を支えてしま っている。この逆説にわれわれはもっと自覚的でなければなりません」
と、かれが常用してきているあいまいな文体で悪辣な暴言を書いている。

◆注記③ 『総称改組三会 会報第1号』には、「改組三会」は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会・海南島近現代史研究会を「改組」した「会」であると書かれている。
 「改組三会」は、それまで存在していなかった「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会」を、偽りの「李基允氏と裵相度氏の26回目の追悼集会」と「12回目となる紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」が開催された2020年11月7日の夜に創作し、「改組」している。

◆注記④ 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会の展示用パネルは、国民国家日本の侵略犯罪の実体を伝達するために、会員が綿密な文書記録探索・分析をおこない、犠牲者本人・家族・遺族・関係者から証言を聞かせてもらい、写真を収集・撮影し、地図・年表を作成し、実証的な歴史叙述を書いて、一枚いちまい完成させたものである。
 展示用パネルの多くは、1999年7月6日~8月29日にリバティ大阪(大阪人権博物館)で開催された「(企画展)“木本事件” 熊野から朝鮮人虐殺を問う」で展示された。
 展示用パネルは、国民国家日本の侵略犯罪の実体を伝達し、犯罪者に歴史的責任をとらせるためのものである。

◆注記⑤ 紀州鉱山の真実を明らかにする会が購入した紀州鉱山で命を奪われた朝鮮人を追悼する場の土地に、三重県は不動産取得税を、熊野市は固定資産税を課税してきた。                                          
 それに対して、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、熊野市の固定資産税強制徴収に対する訴訟と三重県の不動産取得税強制徴収に対する訴訟を、2011年3月18 日に三重県津地方裁判所に提訴した。
 訴訟は、弁護士をつけず、本人訴訟のかたちでおこなうことにし、訴状は紀州鉱山の真実を明らかにする会が作成した。
 訴状で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、三重県に強制連行され三重県で強制労働させられ三重県で死亡した朝鮮人を追悼する場は私有地ではなく、公共の場であり、課税されるべき土地ではないという、あたりまえのことを主張し、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働に歴史的責任をもつ三重県と熊野市がその土地に課税することが、どれほど悪質な行為であるかを詳細に分析・提示した。
 竹本昇さんは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員であったときに、紀州鉱山で命を奪われた朝鮮人を追悼する場の土地の5人の登記人の一人となっていた。
 そのことを「理由」にして、2020年11月7日夜に「改組三会」の「運営委員」となった竹本昇さんは、「竹本昇も共有者の一人であるので、5分の1は、竹本昇の土地である」と、2021年9月22日・23日に主張した。
 紀州鉱山で命を奪われた朝鮮人を追悼する場の土地は紀州鉱山の真実を明らかにする会の土地である。登記人5人の共有地ではない。
 三重県に強制連行され三重県で強制労働させられ三重県で死亡した朝鮮人を追悼する碑は、熊野市紀和町の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑だけだ。
 この碑は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者、李基允さんと裵相度さんを追悼する碑とともに、国民国家日本の朝鮮植民地支配責任を問うものである。

                                2021年10月20日記