ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(135) 鎌倉時代(23) 文観(16)・文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ

2019-12-27 09:54:12 | 大河・かこがわ

            文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ

 後醍醐天皇の幕計画は、正中の変に続きまたまた失敗でした。

 今度は、鎌倉幕府は激怒しました。厳しい取り調べでした。

 文観には死罪の決定が下されました。

 「たとえ身分の高い僧であろうとも、死罪にすべきだ」ということに決まったのです。

 しかし、次のような噂話がまことしやかにつたえられています。

 ・・・・執権の北条高時が眠っているとき、夢の中に数千の猿があらわれ、「われらは、比叡に住む仏の使者である」と、猿が高時(時の執権)につげたのでした。

「僧たちに拷問(ごうもん)にかけたらしいが、かならず仏罰があろう。さきごろの地震も、そのむくいである・・・」と言って姿を消しました。

もともと気の弱い高時は、夜中におきて、部下をやって、文観の獄舎をのぞかせたところ、獄舎の障子に、不動明王の姿が写しだされていたと高時に報告しました。

「まことか。もしも仏罰があれば、おおごと」と、高時は文観の死刑をとりやめ、僧侶たちを遠島の処分に変更したと・・・

 あくまで夢物語でしょうが、地震で被害をうけ、まだ野原でむしろ一枚で起居している庶民がいる状態で、もし坊主を殺したならば、ただ反感を買うだけだと考えなおしたのでしょう。

 後醍醐天皇隠岐の島へ流罪、日野俊基や文観等もそれぞれ流罪となりました。

 この時、一番の重罪は文観で、薩摩国の鬼界ヶ島(硫黄島)に流されました。

 日野俊基は、流罪になり後に殺害されています。

 幕府は、後醍醐天皇等は日野資朝・俊基・文観等を失い、倒幕という大それた計画はできないであろうと考えたのです。

 しかし、これはさらなる動乱のはじまりにすぎませんでした。(no4840)

*絵:不動明王(醍醐寺蔵)

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