文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ
後醍醐天皇の幕計画は、正中の変に続きまたまた失敗でした。
今度は、鎌倉幕府は激怒しました。厳しい取り調べでした。
文観には死罪の決定が下されました。
「たとえ身分の高い僧であろうとも、死罪にすべきだ」ということに決まったのです。
しかし、次のような噂話がまことしやかにつたえられています。
・・・・執権の北条高時が眠っているとき、夢の中に数千の猿があらわれ、「われらは、比叡に住む仏の使者である」と、猿が高時(時の執権)につげたのでした。
「僧たちに拷問(ごうもん)にかけたらしいが、かならず仏罰があろう。さきごろの地震も、そのむくいである・・・」と言って姿を消しました。
もともと気の弱い高時は、夜中におきて、部下をやって、文観の獄舎をのぞかせたところ、獄舎の障子に、不動明王の姿が写しだされていたと高時に報告しました。
「まことか。もしも仏罰があれば、おおごと」と、高時は文観の死刑をとりやめ、僧侶たちを遠島の処分に変更したと・・・
あくまで夢物語でしょうが、地震で被害をうけ、まだ野原でむしろ一枚で起居している庶民がいる状態で、もし坊主を殺したならば、ただ反感を買うだけだと考えなおしたのでしょう。
後醍醐天皇隠岐の島へ流罪、日野俊基や文観等もそれぞれ流罪となりました。
この時、一番の重罪は文観で、薩摩国の鬼界ヶ島(硫黄島)に流されました。
日野俊基は、流罪になり後に殺害されています。
幕府は、後醍醐天皇等は日野資朝・俊基・文観等を失い、倒幕という大それた計画はできないであろうと考えたのです。
しかし、これはさらなる動乱のはじまりにすぎませんでした。(no4840)
*絵:不動明王(醍醐寺蔵)