「令和」の典拠になった歌の作者は
「大伴池主」ではない!
大伴の旅人・家持・池主について、少しだけ考えてみましょう。
「令和」の典拠になった宴のことです。
この宴は、太宰府の大伴旅人の家に集まっての歌会ですから、旅人が絡んでいることは確かです。
その他、分かっていることを少し上げておきます。
(1)大伴家は、大伴家は天皇家を警護する家柄です。
(2)この時、旅人は、九州の反乱を平定するために大宰府に派遣されていました。
(3)大伴旅人は、大伴家持のお父さんです。
(4)大伴旅人は、665年頃の生まれ(731年没)だと言われています。
(5)大伴家持は、717年頃の生まれ(785年没)だと言われています。
(6)この宴が開かれた時は、730年ですから、この時、家持13歳ぐらいの子どもです。
(7)旅人は、宴の翌年、大納言として帰郷したが、その年に亡くなっています。66才でした。
年代は、少し(だけ)史実と異なっているかもしれませんが『万葉集』で調べています。
さて、大伴池主(おおとものいけぬし)ですが、生まれは不詳ですが、亡くなったのは、757年ではっきりとしています。
研究者によれば、大伴池主は、大伴家持と似た年齢でしたが、池主の方が少し上で、家持と強い信頼関係があったとしています。
「奈良麻呂の変(758)」というのは、橘諸兄が死に、その子の橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂の横暴を見かねて反乱をおこそうとした事件です。クーデター計画です。
その中に大伴家関係の人が多く含まれていました。
あるいは家持も、仲間に入ることを進められたのかもしれません。
結局、彼は入らなかったのですが、裏切り者が出て、一網打尽につかまってしまい、このクーデター計画は失敗でした。
その後、厳しい取り調べがありました。鞭で打たれるんです。肉に食い込むような鞭打ちの刑です。多くの同志たちが、その鞭で死んでいます。
大伴池主は「奈良麻呂の変」で、殺害される
このクーデター計画に家持の信頼していた大伴池主も連座していました。当然、とらえられました。
この事件で以後、池主の姿はプッツリ途絶えました。消息は、分かりません。
彼も、あの恐ろしい鞭打ちの刑で、亡くなったのかもしれません。
大伴家の勢力は、一挙に失うことになりました。
家持は、奈良麻呂乱の翌年、41才になったばかりでした。家持は中央の要職から退けられ、鳥取県の国府の任地に下りました。そこで、正月の宴で歌を詠んでいます。
この後、彼は四分の一世紀を生きるのですが、一首の歌も残していません。
きょうのブログは、「太宰府の令和の典拠となった歌会には池主はいなかったし、池主は旅人の子どもの世代の人であり、家持との結びつきが強かった」ことを言いたかっただけです。
なお、令和の典拠になった歌の作者は万葉集では、はっきりと書いていませんが、当時の状況から「大伴池主」ではなく「大伴旅人」とするのが正しいでしょう。(no4790)
*写真:いなみ万葉の森の歌碑