ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(93) 平安時代(4) 教信(寺)の話(4)・野口念仏のはじまり(1)

2019-11-16 09:25:41 | 大河・かこがわ

      野口念仏のはじまり

 *一遍(右絵)は、鎌倉時代の僧ですが、教信(寺)の話の都合で、ここに挿入させていただきます。

 

 一遍の念仏踊りが最初に行われたのは、信州の佐久、小田切という場所で念仏を称えていときの事でした。

 この時、念仏が自然に踊りになり、やがて踊りの輪は、急激に広がりました。

 ある者は鉢を叩き、あるものはそれに合わせて手足を動かす。

ある者は踊りはね、あるものは手を叩くといったように、それはまったくの乱舞でした。

 彼らは各人の喜びを、体一杯に表現しました。

 一遍は、その時の気持ちを「はねばはねよ をどらばをどれ 春駒の のり(法)の道をば知る人ぞ知る」と詠んでいます。

 以後、一遍の布教は踊りとともに念仏を広げていきました。

 何が人々をそのような激しい踊りの表現を取らせたのでしょう。

 踊り念仏は、社会の混乱期にはじまっています。

 一遍の生きた時代は、旱魃・水害の自然災害が人々を襲いました。そして、戦乱は続きました。その上に、元軍が攻めてくるという社会不安も重なりました。

 人々は何かにたよろうとしました。それは神様であり仏様でした。

 そんな不安な時代の中で、人々は一遍をとおして阿弥陀様の声を聞いたのです。

 人々のエネルギィーが爆発しました。(no4797)

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大河・かこがわ(92) 平安時代(3) 教信(寺)の話(3)・(伝承)上人魚(しょにんうお)

2019-11-15 08:05:51 | 大河・かこがわ

     教信(3)・(伝承)上人魚(しょにんうお)

 教信についての伝承です。

 京都に都が移ってからあまり年月がたっていない頃のことです。

 教信は、野口の「賀古の駅」(かこのうまや)の近くに庵を構え、念仏を中心に一心に修業をしていました。

 それは今までの形式を重んじるものでも、伝統的な戒律を守るだけの修業でもありません。

 生活の中に仏様の教えを生かそうという修業でした。

 教信は、結婚もしました。

 たまたま、ある日教信に土地の者から川魚の差し入れがありました。

 教信は、感謝してこれをよばれました。

 すると今までも破戒僧としてにがにがしく思っていた人々が、これを聞いてがまんできなくなり、「僧が結婚をしたり、生魚を貪べたりすることは、仏道修業をする者のすべからざる行為である。けしからんことだ・・・」と教信を大声でなじるのでした。

 どの経典にも書いてあり、修業者の戒律として禁じられていることですから、その限りでは、当然責められる行為といわねばなりません。

 教信は、さげすみなじる里人をともない、駅ヶ池のたもとに行き、仏様の本当の教えと自分の考えを説きました。

 「仏道修行者は、形式的に魚を食う・食わぬということや、結婚をするとかしないということよりも、真剣に人世をどう生きるかということを自覚することの方が大切なのではないか・・・」と。

 そして、念仏を唱えながら、口をあけますと、元気な魚が池におどり出て泳ぎだしたのです。

 その後、里人がときどき池で釣り上げる魚の中に、片目だけがつぶれている魚がありました。

 村人は、「きっと教信様の歯があたった魚だろう」と「片目の魚」とか「上人魚」と名づけ、釣れても放生する風習になったといいます。(no4796)

 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照

 *写真:駅ヶ池(インターネットより)

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大河・かこがわ(91) 平安時代(2) 教信(寺)の話(2)・祈りに生きた僧

2019-11-14 08:25:10 | 大河・かこがわ

     教信(2)・ 祈りに生きた僧・教信

 ここは奈良の興福寺です。この寺は、藤原氏の氏寺です。

 そのため、平安・奈良時代は、とてつもなく勢力を持った寺でした。

 自然、興福寺の僧たちは「自分たちは他の寺の僧よりも優れている」と考えていました。

 教信もそれらの僧の中で修行をしていました。

 しかし、教信は「仏さまの教えは、僧は貧しい人々の中で生活してこそ、真の修行である」と考えるようになりました。

 教信は、そう考えるようになると、興福寺を離れることに躊躇(ちゅうちょ)しませんでした。

 興福寺を離れた後、諸国を歩きました。どこでも、庶民の生活は、彼が考えていたよりも厳しい現実を知りました。

 農民たちは高い税に苦しみ、貧しい生活を強いられていたのです。

 やがて、教信は、印南野の西の端の野口に着きました。

 ここは賀古駅(かこのうまや)のある場所です。

 野口は海岸に近く景色の良い場所でした。真っ赤な夕日が西の海(西方浄土)に沈むように思える土地でした。

 それに、人々の心のあたたかさをしりました。

 教信は、「野口は仏様の教えを実践するもっとも良い場所である」と考え、一軒の粗末な庵を建てました。

 さっそく人々に仏様の教えを説きました。

 なれない農作業も手伝いました。

 そして、時間ができると彼は一心に「ナムアミダブツ」を唱えるのでした。

 また、教信は農民に仏教を説く一方、土木事業にも力を注ぎ、水の少ない印南野台地に池を築きました。

 野口農協(加古川市野口町)の東の駅ヶ池(うまやがいけ)も大きな池に生まれ変わりました。

 現在、駅池(うまやがいけ)は宅地開発のため小さな池になっています。

 やがて、教信は、多くの人に尊敬され、広く知られるようになりました。(no4795)

 *写真:桜にうずもれる教信寺(加古川市野口町)

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大河・かこがわ(90) 平安時代(1) 教信(寺)の話(1)・教信『今昔物語集』に登場

2019-11-13 08:09:32 | 大河・かこがわ

     平安時代(1)、教信(寺)の話(1)

 それでは時代を一歩進め、平安時代の話を「教信(寺)」の話から始めましょう。

        教信『今昔物語集』に登場

 『今昔物語(こんじゃくもがたり)』は、平安時代末期に成立したと考えられている説話集です。

 そこには、「播磨国賀古駅(かこのうまや)の教信が往生すること」と教信の死についての話が登場します。

 教信は、平安時代でも、広く知られ尊敬を集めたお坊さんだったようです。

 それでは、『今昔物語集』に登場する教信の話を読むことにします。

        教信の死(『今昔物語集』より)

 大阪の箕面市に、勝尾寺(かつおうじ)があります。

 勝尾寺のお坊さんの勝如(しょうにょ)は、来る日も、くる日も一心に念仏を唱えていました。

 ある夜、誰かが訪ねて来ました。勝如は無言の行の最中でした。

 返事ができないので「ゴホン」と咳払いをしました。

 すると、訪問者は「私は、加古の野口の里の教信と申すものです。私も一心に念仏を唱えてまいりましたが、今日願いのとおり、極楽浄土へお参りすることができました。

 あなた様も、来年の今月今夜(8 月15 日)に、お迎えがございます」そう言い終わると、訪問者の声はスッと消えたのです。

 ビックリした勝如は、次の朝さっそく弟子の勝鑑(しょうかん)を野口の里へやりました。

 すると、庵の前に死人が横たわり、犬や鳥が争って食っているのでした。

 横にいる老婆に聞くと、「これは私の夫の教信で、昨夜なくなりました。遺言で、自分の遺骸を鳥獣に施しているのでございます」と答えるのでした。

 この話を聞いた勝如は、以後念仏ばかりでなく、教信のように実践にも一層はげむようになりました。

 そして、教信が告げた日(貞観9年8月15 日)に勝如は亡くなりました。

 里人は「勝如様も教信様のもとに行かれたのだろう・・・」と囁きあったということです。(no4794)

 *写真:教信上人のお顔(教信寺蔵・鎌倉時代の作)

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大河・かこがわ(89) 奈良時代(13) 郡 境 

2019-11-12 08:26:58 | 大河・かこがわ

   加古郡と印南郡の郡境

   *加古郡と印南郡を「加印」と呼びました。

 

 地図は、「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、現在の加古川市加古川町の部分だけを拡大したものです。

 地図の加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村とその他の村との間に郡境があります。

 この郡境は、聖武天皇の神亀三年(726)に創設されました。

 その時、加古川は郡境に沿ったところを流れていました。

 つまり、加古川の左岸側(西側)は印南郡、右岸側(東側)は加古郡と決められました。

 ですが、なにせ加古川は暴れ川です。幾度となく大洪水をおこし流路を変えました。

 流路が現在のように定まってからも、加古川村・木村・友沢村・稲屋村は印南郡のままで、変更されませんでした。

 しかし、江戸時代になり、これらの村々は印南郡に属しているとは言うものの地理的な関係から、加古川東岸の村々との経済的な結びつきを強め、何かと不都合なことがでてきました。

 そのため、明治22年4月1日、全国的に新しい町村合併が行われ、加古川村、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を含む)、氷丘村が誕生しましたが、その時、加古川村・友沢・木村・稲屋村は加古郡に編入されました。

 そして、昭和4年に鳩里村(きゅうりむら)が、昭和12年に氷丘村がそれぞれ加古川村と合併し、現在の加古川町が誕生しました。(no4793)

 

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大河・かこがわ(88) 奈良時代(12) 令和について(5)・「令和」の典拠になった歌碑

2019-11-11 08:30:58 | 大河・かこがわ

 令和について(1~4)」は、おせっかいな内容になってしまいました。でも、「令和」の典拠になった公園の歌碑ついて、公園関係者の方々にご検討下さいますようお願いもうしあげます。

      「いなみ野万葉の森」

 「いなみ野万葉の森」の説明には、「この万葉の森は、古代の印南の海を縮景造園した日本庭園です。池は、印南の海、その北の森林は賀古の松原(かこのまつばら)で、池の中の島は淡路島です・・・」とあります。

 池が印南の海をあらわし、その真ん中に淡路島がデンとあります。

 そして、池を囲んで賀古の松原があり、印南川(加古川)が流れています。

 説明にはないのですが、印南の海の周囲には、印南野(台地)が広がっています。

 この公園は、まさに印南野(台地)のど真ん中です。

 そんなことを知って、万葉の森を散策ください。また、違った風景のように見えます。

 万葉の森には、万葉歌碑・万葉の森賛歌があり、万葉植物と共に来園する者の心を和ませてくれます。

     ご一考ください 

 この「いなみ野万葉の森」は、4月1日の元号発表と、元号の典拠になった歌碑があったため、新聞でも大きく報道され、以来華やいでいます。

 『万葉集』は、「高校で学んだだけで、日本最古の歌集である」くらいにしか覚えていません。

 詠まれた場面を、部屋にあった本で調べてみました。

 少し、万葉の森の碑の説明と違っているように思えたので、すこし、おせっかいな内容ですが書いてみました。

 今後「いなみ野万葉の森」は、ますます有名になり、たくさんの人が来られると思います。

  大伴池主の説明は、ご一考ください。

 「いなみ野万葉の森」の一ファンからのお願いです。 (no4792)

 *写真:いなみの万葉の森

 

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大河・かこがわ(87) 奈良時代(11) 令和について(4)・大伴氏一族は、武門の人たち

2019-11-10 09:24:26 | 大河・かこがわ

         大伴氏一族は、武門の人たち

 大伴池主のことを付け加えておきます。

 池主は、大伴につながる一族です。

 天皇の住む、宮城には12の門があります。その門の一つ一つを古代の豪族が守りを固めています。

 その正面の門は、大伴門です。大伴氏はその門を守るだけではなく他の11の門を統括していました。

 つまり、大伴氏の本来の仕事は、天皇を守るという近衛兵でした。

 ですから、天皇家と深い誼(よしみ)を持った一族です。

 しかし、旅人・家持の時代は、天皇の権力を藤原氏がそれにとって代わろうとした時代でした。*大伴池主は、大伴家持と共に活躍。

 聖武天皇が亡くなり、橘諸兄が亡くなり、その息子(奈良麻呂)が、それに反対し、クーデターを起こそうとして失敗しました。「奈良麻呂の変」以後、大伴氏の力は、急速に弱まりました。

 家持は、このクーデターを予想はしていたでしょうが加わっていません。しかし、家持の信頼していた、「大伴池主」は、この反乱計画に連座して、とらわれました。

 武門の大伴一族の血が騒いだのでしょう。藤原氏の横暴を許せませんでした。

 以後、彼の姿はありません。殺害されたのかもしれません。

 彼は歌読みの得意な人物でしたが、本来は政治家で、そして兵でした。

     ロマンチックな歌を詠んでいるが・・・

 万葉の森には、大伴池主の歌碑がありますので、紹介しておきます。

   をみなへし 咲きたる野辺(のへ)を 行(ゆ)き廻(めぐ)り 
       君を思ひ出 た廻(もとほ)り来(き)ぬ 」
                       巻17-3944 大伴池主
  (女郎花の咲き乱れている野辺、その野辺を行きめぐっているうちに、あなた様を思い出し、回り道をしてきてしまいました)

 なんとも、ロマンチックな恋人同士のやり取りのような歌です。

 彼(池主)の、素直な気持ちの歌でしょうか。

 (私の解釈)

 家持・池主等は、悩むのでした。「・・・天皇家の力はどんどん弱められている・・・でも、何もできない。そして、このようなロマンチックな歌(駄作)しか読むことのできない(許されない)時代が悔しい、ふがいなさを感じる・・・いや、自分(池主)も歌で自分の気持ちをごまかしている・・・」

 万葉集の愛好家には、叱られそうな解釈ですが、そう読めるのです。

 

 この大伴池主の歌碑が、「いなみの万葉の森」にあります。紹介しておきます。素人の感想ですので、無視してくださってけっこ(no4791)

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大河・かこがわ(86) 奈良時代(10) 令和について(3)・「大伴池主」の作ではない!

2019-11-09 07:52:26 | 大河・かこがわ

      「令和」の典拠になった歌の作者は

         「大伴池主」ではない!

 大伴の旅人・家持・池主について、少しだけ考えてみましょう。

 「令和」の典拠になった宴のことです。

 この宴は、太宰府の大伴旅人の家に集まっての歌会ですから、旅人が絡んでいることは確かです。

 その他、分かっていることを少し上げておきます。

 (1)大伴家は、大伴家は天皇家を警護する家柄です。

 (2)この時、旅人は、九州の反乱を平定するために大宰府に派遣されていました。

 (3)大伴旅人は、大伴家持のお父さんです。

 (4)大伴旅人は、665年頃の生まれ(731年没)だと言われています。

 (5)大伴家持は、717年頃の生まれ(785年没)だと言われています。

 (6)この宴が開かれた時は、730年ですから、この時、家持13歳ぐらいの子どもです。

 (7)旅人は、宴の翌年、大納言として帰郷したが、その年に亡くなっています。66才でした。

 年代は、少し(だけ)史実と異なっているかもしれませんが『万葉集』で調べています。

 さて、大伴池主(おおとものいけぬし)ですが、生まれは不詳ですが、亡くなったのは、757年ではっきりとしています。

 研究者によれば、大伴池主は、大伴家持と似た年齢でしたが、池主の方が少し上で、家持と強い信頼関係があったとしています。

 

 「奈良麻呂の変(758)」というのは、橘諸兄が死に、その子の橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂の横暴を見かねて反乱をおこそうとした事件です。クーデター計画です。

 その中に大伴家関係の人が多く含まれていました。

 あるいは家持も、仲間に入ることを進められたのかもしれません。

 結局、彼は入らなかったのですが、裏切り者が出て、一網打尽につかまってしまい、このクーデター計画は失敗でした。

 その後、厳しい取り調べがありました。鞭で打たれるんです。肉に食い込むような鞭打ちの刑です。多くの同志たちが、その鞭で死んでいます。

    大伴池主は「奈良麻呂の変」で、殺害される

 このクーデター計画に家持の信頼していた大伴池主も連座していました。当然、とらえられました。

 この事件で以後、池主の姿はプッツリ途絶えました。消息は、分かりません。

 彼も、あの恐ろしい鞭打ちの刑で、亡くなったのかもしれません。

 大伴家の勢力は、一挙に失うことになりました。

 家持は、奈良麻呂乱の翌年、41才になったばかりでした。家持は中央の要職から退けられ、鳥取県の国府の任地に下りました。そこで、正月の宴で歌を詠んでいます。

 この後、彼は四分の一世紀を生きるのですが、一首の歌も残していません。

 

 きょうのブログは、「太宰府の令和の典拠となった歌会には池主はいなかったし、池主は旅人の子どもの世代の人であり、家持との結びつきが強かった」ことを言いたかっただけです。

 なお、令和の典拠になった歌の作者は万葉集では、はっきりと書いていませんが、当時の状況から「大伴池主」ではなく「大伴旅人」とするのが正しいでしょう。(no4790)

 *写真:いなみ万葉の森の歌碑

 

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大河・かこがわ(85) 奈良時代(9) 令和について(2)・華やかな歌会でした。が・・・

2019-11-08 08:37:28 | 大河・かこがわ

      華やかな歌会でした。が・・・

 4月の初めのころでした。稲美町の万葉の森に出かけました。

 元号「令和」の典拠となった歌碑を見学するためです。

 ここへは何度も来ているのですが、こんなに華やいだ「万葉の森」は初めてでした。やはり元号(令和)に関心があるのですね。

 見学に来た目的は、この歌碑を見たかったためですが、何よりもその作者が「大伴池主」になっていることを、直に確認したかったからです。

 その理由は、次回にします。今日は歌の意味と当時の社会情勢を、少しだけ見ておきます。

 天平二年の正月十三日に、太宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の家に集まって、宴会(うたげ)が開かれました。

 この歌会が開かれたのは、現在の暦では、西暦730年2月8日ごろだそうです。

 意味は、次のようです。

 時に、初春の月にして、気淑(よ)く、風らぐ。

 梅は、鏡前の粉を披く蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす。

 もう少し、分かりやすくしておきましょう。

 折しも、初春の佳(よ)き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかく、そよいでいる。

 梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。

    天平時代は、藤原氏の陰謀で幕を開けた

 この歌を詠む限り、大伴旅人の気持ちは、穏やかで平和な春の陽気のようです。

 少し年表を見ることにします。

 この歌会(宴会)が行われたのは、天平二年(730)です。

 この前年の神亀五年(729)に、絶大な勢力を誇っていた長屋王は、藤原氏の陰謀により亡くなりました。

 (*神亀五年8月5日、天平に改元。ですから、天平元年は8月5日から12月31日まで)

  長屋王は自害、妻も後を追いました。長屋王家は滅亡しました。

 しかも、密告から三日という短い期間で終わった政変でした。

 その後、藤原一族は、急速に勢力を拡大します。

 奈良時代を代表する華麗な天平時代は、長屋王の悲劇を踏み台にした幕を開きました。

 大伴旅人は、反藤原一族に属していました。

 当然、このニュースは、太宰府に伝たえられていたでしょうから、大伴旅人の気持ちは、この歌どおりでは、なかったでしょう。(no4789)

 *写真:ハイ一句(写真は大宰府ではありません。「いなみの万葉の森」です。撮影は1910年)

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大河・かこがわ(84) 奈良時代(8) 令和について

2019-11-07 08:13:07 | 大河・かこがわ

        令和について(no1)

万葉集は、奈良時代の日本最古の歌集です。

 稲美町の万葉の森にある歌碑が少し気になりましたので紹介しておきましょう。

      「(元号)令和」について

 今年の4月3日(水)、神戸新聞は、「兵庫 令和ゆかりの地沸く」と題して「いなみ万葉の森」にある新元号「令和」の典拠となった歌碑を大きく紹介しました。

 少し気になりました。

 それは、万葉の森にある歌碑の作者が「大伴池主(おおとものいけぬし)」となっていることです。

 さすがに、神戸新聞も気になったのか。写真等の説明に、「(万葉の森)碑上で作者が、大伴池主となった経緯は不明という」と註を入れています。

 神戸新聞記事から、その歌碑についての一部の紹介します。

    「令和」ゆかりの地沸く 

 (以下、記事・写真とも神戸新聞からの転載)

 新元号「令和」の典拠となったのが日本最古とされる歌集「万葉集」だったことを受け、ゆかりの地に注目が集まっている。

 万葉集には古代人が航路として行き交った瀬戸内海沿いで詠まれた歌が多く収められ、兵庫県内にも関連する場所や歌碑が点在する。広く知られていなかったところもあるが、関係者は「地域の魅力に目を向ける契機に」と期待を寄せる。

 「令和」の出典は、万葉集巻5の一節。梅見をする宴会で詠まれた32首の和歌の前にある漢文の序文から取られた。

 歌人の大伴旅人(おおとものたびと)の漢文とされる。

 万葉集で複数の地名が登場する兵庫県稲美町。同町の「いなみ野万葉の森」には、新元号「令和」の典拠となった歌碑がある。同町は新元号の発表を受け、2日に案内板を立てた。

 庭園には、ほかにも万葉集の歌をしたためた石碑が数十本、設置される。普段は静かな庭園だが、この日は通常の2倍を上回る100人以上が来園。テレビ局の取材なども訪れ、来場者は興味津々で歌碑を眺めた。

 園の運営に関わるNPO法人「いなみ野万葉の森の会」の鷲野隆夫理事長(79)は「園内で紹介している歌から、元号が生まれるとは」と驚いた様子だった。(no4788)

 *写真、記事ともに神戸新聞(4月3日朝刊)より

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大河・かこがわ(83) 奈良時代(7) 溝之口に古代播磨の軍団が駐留か

2019-11-06 08:40:23 | 大河・かこがわ

   溝之口に古代播磨の軍団が駐留か

 溝之口遺跡は、先に紹介したように、弥生時代にはじまり、古墳・奈良・平安時代へと連なる複合遺跡です。

 この遺跡から、須恵器(すえき)の底に「大毅」(だいき)と書かれた墨書土器(写真)が出土しました。

 *軍毅(ぐんき)・・・律令制で、国司のもとで軍団を統率した将。大毅・少毅に分かれていた。(『大辞泉』小学館)より

 『加古川市史(第一巻)』は、「(墨書土器の大毅を)軍団の駐留に結びつけようとする興味ある考え方もあるが、その推進には総合的な立論を必要とする」と慎重な記述です。

 一方、『加古のながれ』(加古川市史編さん室)は、この墨書土器の「大毅」について、歴史家・今里幾次氏の意見として、ずばり次のように説明している。

 「・・・律令制の軍事組織として、諸国に軍団が置かれましたが、播磨ではその実在が、いまだ立証されていません。

 そこで、その有力候補の一つとして取り上げたいのが、加古川市加古川町の溝之口遺跡です。

 (出土物などから、溝之口遺跡は)8世紀後半を中心とする頃に、播磨の国司の傘下に置かれたことが看取されます。

 特に、「大毅」と読み取れる墨書土器が見つかっていることは重要です。・・・国司の下で軍団を統率する軍毅(ぐんき)以下の駐留説が推進されることでしょう」(no4787)

 *写真:『加古のながれ』(加古川市史編さん室)より

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大河・かこがわ(82) 奈良時代(6) 賀古駅(かこのうまや)のふしぎ

2019-11-05 08:57:46 | 大河・かこがわ

   賀古駅(かこのうまや)のふしぎ(馬数はなぜ多い)

  駅制の発足当時から、二百何十年かのちの延喜式に出てくるまでに、馬数には何回かの増減があったらしいのですが、なぜ賀古の駅が日本最大の規模になったのでしょう。

 京都府教委の高橋美久二技師は、かつて明石~賀古間に一駅、賀古-草上間に一駅が置かれていた時代があったと思われることから、この二駅が廃される時、各20頭ずつの馬を二分して、両隣へ10頭ずつ分けたため、賀古は両側から10頭ずつもらって、既存の馬と合わせて40頭になり、明石と草上は片隣から十頭もらって各三十頭になったという仮説を立てておられます。

    野口は交通の要所 

 神戸女学院大教授・地理学専攻の渡辺久雄氏は、その40頭の必然性を次のように推理しておられます。

 「駅のあった場所は、昔の加古川べり。加古川は古代、ヒノカワと呼ばれ、川上にヒカミ(氷上)の名があるように、丹波への連絡路であり、さらに進めば、但馬や丹後へもつながります。

 加古川は、播磨の河川の中でも最大のヒンターランド(後背地)を持っているわけで、川べりの駅はたいへん交通量が多かったと思われます」と。 ・・・・

 ど素人の私も、渡辺説に支持をしたい。

 というのは、渡辺先生が指摘さているように加古川(ヒノカワ)の役割とともに、加古川の河口の港の役割も無視できません。

 野口(賀古駅)は、人や物が大いに動いた交通の要所に位置していためなのでしょう。(no4786)

 *図:古代山陽道と賀古駅(兵庫県立考古博物館・中村弘氏参照)

 *『兵庫探検(歴史風土篇』神戸新聞社参照

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オマーン国王物語(23) オマーン王族 稲美町訪問(3) もっと知ろう オマーンのことを! 世紀のロマンスの話を!

2019-11-04 09:05:57 | 江戸時代、高砂の商業活動

   オマーン王族 稲美町訪問(3)

   もっと知ろう オマーンのことを! 世紀のロマンスの話を!

 オマーン夫人については、稲美町のあることを調べている時に、地元の人(Oさん)から聞き出した話題でした。

 Oさんも、はっきりとはご存じありませんでしたが、夫人の墓碑は、たまたま近くでしたので、案内してくださいました。

 インターネットで調べてみると、確かにオマーン国王が稲美町出身の方と結婚をされ、お墓が稲美町にあるとあります。詳しいことはわかりません。

 その後も、この話はずっと虫歯の疼きのように気になっていました。

 

 調べてみました。まさにドラマのような話でした。そこで、『オマーン国王夫人物語』としてまとめ、ブログで発信しました。  

 たくさんの読者が興味を持っておられました。 

 

 突然、話は、大きく展開しました。

 天皇の即位式にオマーンの副首相が参加されるというニュースです。

 「ああ、そうか・・・」と軽く考えておりました。

 即位式が、迫ってきた時でした。

 大使館から「即位式の後、副首相さんをはじめ、オマーンの一行が公式行事ではなく、私的に25日に稲美町のブサイナ姫の墓参をしたい」との連絡が入りました。

 稲美町には、この墓参と関係なく、数か月前に私のレポートを何冊か届けていました。

 それに大使館でも、ブログを読んでおられたようで、「墓参の時に私にも出席してほしい」という連絡が入りました。

 これが、私のような稲美町の住民でない異分子が墓参に紛れ込んだいきさつです。

 役場での会議のなかで、「もう一度、きれいな写真を加え、『オマーン国王夫人物語』を書き直してみたい」とお伝えしておきました。

 その日、副首相さんから、高価な時計までいただきました。ありがとうございました。(no4785)

 *写真:副首相さんから腕時計をいただきました。

    

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オマーン国王物語(22) オマーン王族 稲美町訪問(2)・感激の一日

2019-11-03 09:21:09 | 江戸時代、高砂の商業活動

   オマーン王族 稲美町訪問(2)

     感激の一日(10月25日)でした

 清子さん(ブサイナ元国王夫人)の墓参を済ませ、オマーン一行と墓でお別れしました。

 その時、アスアド副首相に、英語もどきでお礼を少しお話させていただきました。

 私は、今年76歳ですが、今まで現役の国のトップの方と直接お話をさせていだいたのは初めての経験でした。

緊張しました。

 25日の日程を紹介しておきますと、お墓に参ったのはオマーンの一行が稲美町役場の会議室で、すこしの会談した後のことです。

 その会談では、もちろん清子さん(ブサイナ姫のお母さん)のご親戚の杉本浜子さんとの話題が主になりました。

     アスファド副首相に拙書を紹介

 後半、町長(古谷)さんが、私のまとめた『オマーン国王夫人物語』を代表団に紹介してくださいました。

 その冊子の清子さんの結婚式の日に写された写真等を副首相も興味深くご覧になっておられました。

 この冊子このアスファド副首相のおじいさんのアルサイド氏、そしてその奥様のブサイナのことをまとめていたので、私ごときに声がかかったのだと思います。

 清子さんの墓参の前のいい話し合いになりました。

 10月25日は、忘れられない日でした。(no4784)

 *写真上:オマーンの副首相と最後の挨拶

    下:オマーン一行の方々との話し合い(稲美町役場にて)

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オマーン国夫人物語(21) オマーン王族 稲美町訪問(1)

2019-11-02 09:18:50 | 江戸時代、高砂の商業活動

 少し寄り道をします。オマーンの副首相が稲美町を訪問されました。以下の記事は、10月25日神戸新聞の記事からの再掲です。(記事を一部省略し、写真を変えています)

      オマーン王族 稲美町訪問(1)

 天皇陛下が即位を宣言する「即位礼正殿の儀」に出席するため来日した、中東・オマーンのアスファイド副首相兼国王特別代理らが25日、王族ゆかりの地である稲美町を訪問した。

 元国王夫人で、神戸でブサイナ王女を生んだ清子・アルサイド(旧姓大山)さんの墓に、同国関係者10人が花を供えた。

 約40年前には同王女が来町しており今回は副首相が墓参した。

 清子さんは1935年(昭和10)、カーブース現国王の祖父であるタイムール元国王と神戸で出会った。

 恋に落ちた2人は翌年結婚式挙げ、ブサイナ女王(日本名は節子)が誕生したが、39年(昭和14)清子さんが病没。

 元国王は清子さんの母の出身地である稲美町に墓を建て、王女を連れて日本を離れた。王女は、オマーンで王族の一員としてそだてられたという。

 この日、午後12時半ごろ、アスファド副首相らが、古谷博町長らと同町中村の大沢公園墓地を訪れた。

 ハンチング帽姿のアスファイド副首相は、清子さんの親戚で墓の世話を続ける同町の杉本浜子さん(74)とともに線香をあげるなどした。

帰る際に、惜しんで同副首相らと抱擁した杉本さんは「遠くからわざわざ来てもらいうれしかった。お墓に『清子さん、良かったね』と心の中で呼びかけた。帰る際に、惜しんで同副首相らと抱擁した杉本さんは「遠くからわざわざ来てもらいうれしかった。お墓に『清子さん、良かったね』と心の中で呼びかけた。

(以上神戸新聞より・一部省略)

     元国王夫人が眠る墓地へ

 墓参は、オマーンのアスアド副首相(現国王のいとこで、次期国王の有力候補者)、それにオマーンのトップ方々。稲美町からは清子さんの親族(杉本浜子さん)、それに町長・教育長等町の幹部の方の墓参でした。ここまでは、当然の方々の墓参です。

 一人だけ異分子がまじっています。私です。「なぜか、奇妙な組み合わせ」と思われたでしょう。そうです。まさに異分子です。(no4783)

 *写真上:手を合わせる杉本さん、後はオマーン副首相(中央の女性は通訳)

   中 :オマーンの副首相ら

   下 :清子さんの墓に手を合わせる私

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