ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

美濃部達吉と天皇機関説(23) 最終回

2017-05-28 07:02:25 | 美濃部達吉と天皇機関説

     最終回:美濃部達吉と天皇機関説

 天皇機関説が排撃されたあと、「天皇主権説」そして「統帥権」のみが社会を支配するようになりました。

 (注:天皇自身は、天皇機関説を認めていましたが軍部・右翼の前に無力でした)

 日本にとって不幸だったのは、そんな思想的環境の中で、太平洋戦争という大きな戦争を始めたことでした。

 日中戦争の開始から一年後、日本陸軍の軍人教育を司る教育総監部は、「軍隊教育の教本」を発行しました。

 この本の冒頭では、「そもそも我が国における忠節は、万邦無比の国体より、自然に湧き出す情操であり、きわめで合理的な国民的信念である」と、日本軍(人)の優秀さを説明しています。

 軍隊の中核に、このような主観的な「信仰」あるいは事実上の「宗教」とも言うべき観念論を置いていた事実は、太平洋戦争で日本軍がくり返した数々の「非合理的な行動」を生み出した背景を雄弁に物語っていると言えます。

 その結果、戦況が悪化しても、軍部が大きな影響力を持つ日本政府は合理的思考で「講和」や「降伏」の選択肢を議論できず、大勢の軍人と市民が日々命を落としていたにもかかわらず、19458月の破滅的な敗戦まで「国体護持のための戦争継続」というただひとつの道しか進むことができませんでした。

 1935年に天皇機関説の排撃が盛んに行われていた時、中心的な役割を果たした貴族院議員や在郷軍人、右翼活動家の誰一人として、それからわずか10年後の1945年に、日本が戦争に敗れて独立国としての主権を失うことを予想していませんでした。

 そして、「天皇機関説事件の仕掛け人」とも言える蓑田胸喜が、失意のうちに首を吊って自らの命を絶ったのは、敗戦の日から5か月後の、1946130日のことでした。

 今回で、『美濃部達吉と天皇機関説』を終了します。

 現在、日本は、きな臭い国に向かって、再びハンドルを切っています。

 そんな時代です。少し立ち止まり、天皇機関説の歴史的意味を考えてみることにしましょう。

 お読みいただきありがとうございました。(no3599

 *写真:美濃部達吉(「美濃部達吉と天皇機関説・1」と同じ写真です)

 

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