大河内(赤松)満政・満直のこと
満祐が将軍義教を殺した嘉吉の乱で一族とともに播磨へ逃れて来たとき、大河内満政は、赤松氏の有力な血縁でありながら山名氏などで編成する幕府軍とともに満祐を討伐する側にまわりました。
この行動は、明らかに同族討ちになり世間の大きな話題となりました。
しかし、満政は、「わしが赤松惣領家の追討に撃ってでれば、将軍殺しは赤松一部の跳(は)ねあがりだったことが世間にわかって、赤松全体が大罪をかぶらずにすむやもしれない、何としても、これから迎える赤松の試練を、乗り切りたい。そのために赤松一族を完全につぶしてはいけない・・・」と考えたうえでの行動だったと想像するのです。
嘉吉の乱後、満政は、幕府から東播磨3郡を与えられたのです。
孝橋氏のこと
初代孝椅繁広について、彼は1441年の「嘉吉の乱」のあと東播案の3郡を与えられた赤松満政の子「満直」という説と地元櫛橋繁広(志方城主:くしはししげひろ)が満政の養子となったという説があります。
大河内(赤松)満政・満直父子は、嘉吉の乱の後中道子山に進出し、中道子を拠点としたのでしょう。
もちろん、すぐに城が完成するわけはありません。そこにあった寺等を利用しただけのそまつな構えだったと思われます。
ともかく、加古・印南・明石・加西を見渡せる場所を、東播磨の拠点(城)としたのでしょう。
しかし、満直は1443年、父・満政ともに殺されてしまいます。この間の事情は、「地域の風を読む(13)」をお読みください。
その後しばらく、中道子山城(構)は、捨てられたような状態になっていたと想像します。
赤松家の再興が認められた赤松政則の時でした。1484年以後、二代目「孝橋繁景(しげかげ)」が赤松氏家臣として復活し、城山の築城の再開がはじめられたようです。
しかし、孝橋秀光の時(1555年)、三好氏が播磨に侵攻し、この戦いで彼は戦死します。
この前後に中道子山城は、再び落域したようです。
中道子山城はその後再建されます。次回の話になります。(no3491)
*写真:中道子山本丸跡
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