大河内(赤松)満政は、東播磨三郡を得たが・・
嘉吉の乱で大河内満政は、幕府側に立ち山名氏とともに満祐を攻撃しました。
その結果、満政は前号で述べたように東播磨三郡(明石・加古・印南郡)の支配権を得ました。
しかし、守護の山名氏は、これに対して不満でした。山名は東播磨三郡をわがものにしようと策動します。
大河内の得た東播磨三郡は、山名勢によってたちまち奪われてしまったのです。
冷静な満政でしが、激怒しました。
「赤松の不幸を手がかりに勢力をひろめようなどと武士の風上にも置けぬ」と赤松残党を結集して東播磨三郡の支配権を山名の手から奪いかえそうと総力戦で挑みました。
が、力つきて摂津有馬に領地を認められている赤松(有馬)持家を頼って逃れ落ちのびます。
ところが持家も同じく追われて窮地に陥っており、家臣を守るのが精一杯で満政は邪魔者扱いされて、そこであえなく殺されてしまいました。
満祐ら赤松惣領家が城ノ山城で断絶して五年目のことでした。
加古川で「山名vs大河内満政」の合戦が
この山名氏と大河内満政の戦いについては『加古川市史(第二巻)』を参照します。
・・・幕府は説得しようとしたが、満政はこれに応じようとせず、山名軍との間に東播地方で激戦がおこなわれました。
『東寺執行日記(文安二年正月二〇日条)には「播州合戦了」とのみ書かれていて、どこでどのような合戦があったのか、詳しいことはわかりません。 *文安二年(1445)
しかし、満政の所領が加古川下流の幣荘(へいのしよう)(「報恩寺文書」)にあったことを思うと、加古川付近で合戦があったのではないかと考えられます。
合戦は、圧倒的な山名軍の勝利に終わりました。(no3482)
*史料:赤松(大河内)満政安堵状(加古川市報恩寺所蔵)
(最後の文字:十二月廿八日 満政 花押
当寺 長老)