ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

西井ノ口(東神吉町)の写真集(44)  余話として・二つの井ノ口

2015-10-06 13:41:24 | 西井ノ口写真集

 いま、「ひろかずのブログ」では、西井ノ口の写真集を連載していますが、少し気になることがあります。

 「井ノ口」の名称のことです。題を「二つの井ノ口」として、写真集の余話としておきます。

 

            二つの井ノ口村

        井ノ口村から西井ノ口に改称(明治12年10月)

 江戸時代、東神吉町の地には、神吉村・天下原村・升田村・升田新村・砂部村・井ノ口村・井ノ口新村・六本松新村の8か村がありました。
 その内、井ノ口村、井口ノ新村、六本松新村は、明治11年7月に合併し井ノ口村となりました。
 明治12年10月に、上荘地区に同名の井ノ口村があり混乱を避けるため、井ノ口村を西井ノ口村に改称しました。
    東神吉村西井ノ口村誕生(明治22年4月1日)

 そして、明治22年4月1日、新しい村制により神吉村、天下原村、升田村、升田新村(明治39年8月、出河原に改称)、砂部村、西井ノ口村が合併して「東神吉村」(地図参照)が誕生しました。
 昭和31年9月30日、加古川市と合併し、加古川市東神吉町になり現在に至っています。(no2973)
 *地図は、「兵庫県市町村合併史・上」(昭和37年)より

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西井ノ口(東神吉町)の写真集(43) NTTあたりの風景から

2015-10-06 08:24:53 | 西井ノ口写真集

    NTTあたりの風景(昭和52年2月)

  井ノ口の墓地あたりの風景(昭和52年2月5日撮影)で、写真の建物はNTT西日本兵庫支店宝殿分館です。

 風景は随分変わりました。

 きょうは、この辺りの歴史を紹介しておきます。

    織田信忠(信長の長男)、神吉城を攻める

 天正6年(1578)6月29日。今の暦では8月12日、真夏の太陽がぎらぎら照りつけていました。
神吉の庄の村々には、織田信忠(信長の長男)三万の大軍が満ちみち、神吉城を何重にもとりかこんでいました。
 神吉城にたてこもっている軍勢はわずか2000で、攻めよせる軍勢の十分の一にもたりなかったのです。
織田軍の主力は、西井ノ口の六本松(墓地の付近)に陣を構えました。

 神吉城(神吉町常楽寺が神吉城跡)と西井ノ口の間に戦国時代、加古川の大きな分流(荒井川)が流れていました。

 荒井川を越えての猛攻が始まりました。(no2972)

コメント (2)
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