三木は、毛利につくことを決める
賀相(よしすけ・三木城の筆頭家老)は、加古川評定から三木に帰えりました。
賀相は、評定の報告を城主にし、しばらくして、会議を開きました。
会議は、まずは、<播磨勢は(秀吉の)命に従え>という秀吉の不遜な態度の報告から始まりました。会は紛糾しましたが、信長に味方した重棟(第二家老)はその場にはおらず、大きな異論もなく、三木城は毛利に味方することが決定的になりました。
神吉城の復命
三木城の軍議が紛糾していたそのころ、神吉城でも重臣たちが集まり、城主の加古川評定の報告を待ちました。
頼定は、「この度の評定は不首尾となった」と、きっぱりと報告しました。
会場は、一瞬ざわめきに包まれました。
「兄上、筑前守かまことに、<播州勢は、秀吉の下知に従え>と申されたのですか、某(それがし)には信じられません」
気色ばんだ頼之が兄に問い返しました。
頼定は、別所の軍略を事細かに話して聞かせました。
「筑前守は、何をもって不足となされたか合点が参りませぬ、それにしても筑前守の「下知に従え」とは、いかにも一方的な申され様、何か含むところがあるのかも知れぬが、某(それがし)も、しかとげせませぬ」
不満(不安)の度合いが、会議の間に、さらに高まりました。
筑前守か「播州勢は、秀吉の命令に従え」と加古川評定の幕を引いたのは、どう考えても不審なものが残こる。
なぜ、賀相や(三宅)治忠が評定半ばにして席を立ったのか、これも解せぬ。
が、重臣への説明が、一通り終わったのをみて、頼定は「明日、あらためて「評定」を開く。明日の評定で我らの策を決する」と会議の終わりを告げました。
頼定は、緊急事態とはいえ、急いて結論を出すのを嫌ったのでしたが、冷静に一晩考えたかったのでした。(no2995)
*『信長の跫(あしおと)・神吉修身著』(かんき出版)参照
*写真:神吉城後に建つ常楽寺