ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(103) 六継里(むつぎのさと)

2014-12-24 08:34:54 |  ・高砂市米田町

      六継里(むつぎのさと)
 『風土記』は、奈良時代の国ごとの産物・伝承・土地の質などをまとめた地理・歴史書である。
 米田(米堕)は、『風土記』に六継里(むつぎのさと)として登場する。
 もっとも、古代の里は、はっきりとした境界で分けられた地域ではなかったようである。
 六継里は、いまでは高砂市と加古川市が入り組んでいる里で、米田辺りから加古川東岸の稲屋辺りに及んだ地域らしい。
 10月上旬から中旬にかけて甘茸というめずらしい茸が生えたと『風土記』にはある。しかし、現在では現存しない植物だと言われている。
 当時の六継里の風景を想像したい。
 加古川の本流は、この里の西を流れていたと想像されている。
 稲屋(加古川市)を含んでいることから考えると、加古川の分流はあったものの、米田と稲屋は続いた地域であったのだろう。
 加古川本流は、六継里から海に流れ込んだ。そして六継里は、海岸に近い地域だった。
 目の前の海には、ナビツマ島が横たわり、さらにその先が瀬戸内海であった。
 ナビツマ島は、加古川の流れがつくった三角州で、今は陸続きになって高砂市内を形成している。
 *『播磨の国風土記を歩く(寺林峻)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *「六継里」を示す碑(米田天神社南の桜公園の西、約5メートル)

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