泊神社(加古川町木村)
ここで加古川町木村にある米田の氏神・泊神社について少し触れておきたい。
『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とある。
かなりの大社であったようだ。泊神社の氏子に注目したい。
泊神社の氏子は、地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていた。
現在、泊神社の氏子は、加古川の東岸・西岸に広がっている。すこし不思議である。
もと、加古川本流は米田村の西を流れていた?
江戸時代の絵地図で、加古郡と印南郡(いんなみぐん)の境界を見ている。
「郡境」が、少しおかしい。「郡境」は川・海・山・道などを目印にするのが普通である。
加古郡・印南郡の境界が決められた頃(奈良時代)、加古川の本流は、現在の加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村の東をながれていたと思われる。
(上記の加古川村・木村・友沢・稲屋は明治22年4月1日、加古郡に編入された)
加古川は、暴れ川である。
武蔵の時代、加古川の本流は米田の西を流れていたようである。
現在の加古川は、加古川の本流でなかったようだ。
とすると、米田の氏神である泊神社が現在の加古川本流の西あることも理解できる。
*蛇足
前号でみたように、泊神社には宮本武蔵・伊織(武蔵の養子)の影がちらつく、吉川英治は、「宮本武蔵の宮本は、作州・宮本村からつけた」としている。吉川英治の小説「宮本武蔵」は、あまりにも有名になり、これが一般的に流布されている。
泊神社の所在地を紹介しておきたい。
泊神社の所在地は、「兵庫県加古川市加古川町木村宮本」である。武蔵は、こちらの宮本から「宮本」と名付けたとしても不思議はない。
*写真:泊神社(加古川町木村)