渚は個人の所有物にあらず
昭和29年の合併による高砂市の誕生以後、高砂は美しい海岸によって生きる道を捨て去り・明治34年、三菱製紙を誘致して以来じわじわと進められて来た工業都市として生きる軌道を爆進することになった。
四代、工楽松右衛門が海水浴場休憩所を建てようとして「借地願」を出した時、該当する土地が官有地と地図に記されていた。
ところが、次の証言を聞いてほしい。
「・・・・“こぶ七”は最初からの業者で、その頃は土地の使用料を姫路の税務所(?)におさめていたそうですが、それが明治の後期より、杉本鶴太郎(仮名)さん個人に支払うことになったそうである」
どのような事情でみんなの財産が個人に払下げになったのかわからない。
不思議なのは、官有地であったはずの海岸が杉本(仮名)という個人のものになったという点である。
明治6年(1837)から明治14年(1881)の間に実施された地租改正において、日本の土地私有制度は確立されたのであるが、この時、海岸の砂浜は“雑種地”という地目で国有化された。
したがって、侵食や陥没によって私有地であったものが浜地となったもの以外は、現在でも国有地であるはずである。
「古来、海浜というものは誰もが利用してきた」ということから、地域住民の誰もが雑用に供してよいという趣旨であったと解釈してよいだろう。
高砂の浜が、なぜか個人の所有物に!
それが、高砂海水浴場の場合、杉本鶴太郎(仮名)個人のものになったのはどういうことなのか、不思議なことである。
杉本鶴太郎(仮名)が、高砂町長をしていたのは明冶45年3月から数年間であるから、高砂町の海浜が鶴太郎個人のものになったのは、おそらく大正の初め頃と考えられる。
杉本鶴太郎がうまく立ちまわって自分名義に書き換えてしまったというのが案外真相ではあるまいか。
とにかく、この人物は三菱製紙が高砂に来た時点でも、町会議員としてその父杉本鉄平(仮名)と共に会社側に立って立ちはたらいている。
この辺りの事情については『渚と日本人』を詳細にお読みいただきたい。
なお、『渚と日本人』では、地域の有力者を杉本鶴太郎(仮名)としているが、ここでもこの仮名を使わせていただいた。
*『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照
*写真:水着姿の女性たち(高砂の浜・昭和初期)『目で見る加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より