「鎌倉仏教」について、『中学校社会・歴史的分野』(大阪書籍)を読んでみます。
鎌倉仏教<o:p></o:p>
戦乱やききんなどからの災害が続いたこの時代(鎌倉時代)には、人々のなやみにこたえる新しい仏教の動きが見られました。
法然は、阿弥陀仏の救いを念じて念仏せよ、と説いて浄土宗を開き、弟子の親鸞(しんらん)は、阿弥陀仏を信じ自分の罪を自覚した悪人こそが救われる、と説いて浄土真宗(一向宗・いっこうしゅう)開きました。
日蓮は、法華経だけが仏の真実の教えであると、と説いて日蓮宗(法華宗)を開きました。
また、座禅によって自分でさとりを開く禅宗が、宋から伝えられました。<o:p></o:p>
中国から渡来する禅僧も多く、寺院の生活には、茶を飲む習慣や、中国の新しい食べ物も取り入れました。
これらの新しい仏教は、武士や農民のほか公家の間にも広がりました。
特に、禅宗は、武士の気風にあったため、鎌倉幕府の保護を受けて広まりました。
教科書に叡尊がいない
教科書を読んだ中学生は、鎌倉時代これらの新しい鎌倉仏教は天台宗・真言宗といった仏教よりも盛んであったと想像すると考えます。
天台宗・真言宗などの宗派の仏教を旧仏教としておきます。
確かに、旧仏教は時代に応えられなくなり、新しい仏教の誕生となりましたが、依然として大きな勢力を持っていました。
また、中学校の教科書には、叡尊(えいそん)がいません。学会では、いま鎌倉仏教のみなをしが叫ばれており、叡尊の説いた「律宗」がむしろ、教科書にある鎌倉新仏教よりも隆盛であったことが通説とされています。
今後、教科書の鎌倉仏教の項に叡尊の名前が登場すると思われます。<o:p></o:p>
叡尊は、旧仏教の衰え・みだれは、釈迦の教えである戒律が守られていないからだと考えました。
戒律は、釈迦の定めた僧侶の規範(きはん)のことで、それをまもることを誓う儀式が授戒(じゅかい)です。
叡尊は、これら戒律を厳格に守ることにより旧仏教から離れて新しい「律宗」を打ち立てました。
その律宗の中心になったのが奈良の西大寺でした。
『大野史誌』では「西大寺の末寺の末寺であった伝承はない」とちょっと自信なげに書いておられます。
が、少なくとも西大寺となんらかの関係があったと想像されます。
常楽寺さんに迷惑のかからない範囲で、勝手な想像を膨らませてみます。
*写真:常楽寺<o:p></o:p>