ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(12):東山焼

2013-07-08 07:32:48 |  ・まち歩き

Kawai_273(姫路市)東山を歩いて、東山焼発祥の窯跡(写真下)に来ている。

再度、尊光寺(姫路市的形)の瓦について考えている。

「新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(1)」と合わせお読みいただきたい。

  尊光寺の瓦は、東山焼   

尊光寺(姫路市的形)の亀型の隅蓋(写真上)には「文政九戊年六月栄七 東山池田や」のヘラ書きがある。

東山は、東山焼発祥の地でもあり、(河合)寸翁とも深い関係があるのでふれておきたい。

東山での瓦製造は、ふるく天明時代にさかのぼり、製造者の屋号を「池田屋」と称した。

三代目瓦師となった永七は、藩主・酒井家の江戸屋敷新築の際、瓦製造や江戸への輸送に功があったため、藩主より苗字帯刀を許された。

永七には二人の弟があり、次弟は佐七、末弟が東山焼の始祖の一人である弥七である。

032 東山焼の起源は次のようである。

末弟の弥七は、文政五年(1822)頃より、東山村の庄屋の橋詰藤作(寛政九年・1797)を窯元として、ともに東山の興禅寺山の山裾に窯を築き、磁器をさかんに焼いた。

文政七年(1824)弥七は姫路城下の田中屋次郎右衛門家に養子に入ったが、その後も池田屋弥七として興禅寺窯で東山焼を焼いた。

尊光寺の山門の隅蓋(写真上)が作られた文政九年(1826)は池田屋弥七が東山でさかんに製陶を行っていた時期であり、「池田や栄七」は池田屋の有力な瓦工であったと考えられる。

その後、東山焼は藩窯となって世に名を高めたが、寸翁の死後はしだいに衰え、安政元年(1854)頃には御用窯から再び民窯となり、当初より弥七と苦労を共にした陶工橋詰藤作は、其後しばらくして作陶より身を引き、弥七も文久元年(1861)にその職を辞している。

東山焼は、明治維新によって陶器所は廃止され、明治9年(1876)に民営により再興を図ったが、6年で廃止、東山焼の歴史に終止符が打たれた。

*『仁寿山校遺構顛末記』(藤戸孝純著)参照

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