ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

野口を歩く(34):野口廃寺

2012-10-30 06:48:37 |  ・加古川市野口町

 

   野口廃寺(白鳳時代)

004日本へ仏教が伝えられて比較的はやい白鳳時代(645710)に、加古川地方に仏教が伝えられています。

野口町に、この時代の寺院跡があります。野口廃寺跡です。

野口廃寺について『加古川市史(第一巻)』の説明の一部を読んでみます。

(文章を若干変えています)

一古大内遺跡から駅ケ池をこえて北東500メートルに野口神社があり、その境内地をほぼ寺域として野口廃寺が想定されています。

野口廃寺のあった位置は、明石・賀古の両郡一帯にわたる印南野台地の西端部にあたっており、しかもすぐ南方を古代山陽道が走っていて、まさに「野口」という名にふさわしい土地でした。

いまだ本格的な発掘調査が行われていないため、遺跡・遺構の内容についてはよくわかっていません。

ただ偶発的に掘り返された遺物や表面観察などの観察により、神社本殿裏からおおよそ90×60センチメートルの凝灰岩質の礎石を検出しているし、境内の数ヵ所において土壇様の隆起が認められ、その付近に古瓦類の散乱が多いところから、薬師寺式あるいは法隆寺式の伽藍配畳を想定する説が出されています。

日岡豪族は野口へ行った?

20797491無責任な推理を付け加えておきます。

日岡山には多くの古墳があります。古墳時代、溝口(加古川市加古川町)に大きな古代の村があり、支配者は日岡山に古墳を築いたと考えられています。

ここでは、彼らを「日岡豪族」と呼んでおきます。そして、「日岡豪族」は大和の政権とも同盟を結んでいたことがわかっています。

日本の歴史は大きく転回しました。大陸から仏教が伝わり、比較的早い時期に加古川の地に仏教が伝えられたのです。

この地方の豪族は大和にならって仏教を取り入れ、多くの寺院をつくりました。

時代は、古墳文化から仏教文化へ代わりました。

白鳳時代(645710)の寺院跡が野口の外に西条・石守(ともに神野町)・中西(西神吉町)・山角(平庄町)等に残っています。

ここまでは、学問的にもほぼ確かめられていいます。推論は、ここからです。

日岡山豪族は、どこに消えたか記録がありません。「日岡山豪族」が、敗れ去るほどの事件があれば、文字のない時代とはいえ、伝説など何らかの形で現在にメッセージを残こしていてもよさそうです。

「日岡豪族」は、水害の影響もない、そして交通の要所である野口で寺院をつくったのではないでしょうか。野口廃寺が、彼らの日岡豪族の氏寺跡であると想像したいのですが、いかがでしょうか・・・

*写真上:野口神社

 写真下:日岡豪族・野口へ行こうか!

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