ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(210):細工所(42)・田34町6反(明治4年)

2012-01-28 08:23:36 |  ・加古川市東志方

Eccb34e8前号で紹介した『細工所の戸籍』では、その最後に細工所の耕地と取れ高について記述しています。

そして、明治1315年頃に作成された『播磨国地種便覧』にある細工所の耕地と比較してみましょう。

明治4年、田346516歩の村

明治49月の「細工所戸籍」より

田 346516

高 47885升9合

畑 57455

  高 31918

   外 田、1町1反42歩(他村へ出作地所持)

  高 157119

  牝牛 35

   明治1315年は458畝歩の村

下記の数字は、明治13年より編集にかかり同15年に発行された『播磨国地種便覧』のものです。

  <明治135年頃の記録>

 田 4582

 畑 6996

明治4年の数字と比べてください。

  ◇明治4

田:34616

      畑:57455

  ◇明治1315

      田:4582

      畑:6996

 ここでは田の数字(太字)に注目ください。

 田の耕地面積は、この10年余りの間に水田が10町あまりも増えています。

 水田の増大の原因は何だったのでしょう。

少し推測してみましょう。

  明治初期に水田の増えた原因は? 

①明治政府は、税金確保のために厳しく耕地の調査をした。

②明治4年の数字は、江戸時代のものであり正確でなかった。

③明治初期に綿作が衰え、水田中心の農業にたよらざるを得なかった。

 どう思われますか。次号で少し考えてみましょう。

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