前号で紹介した『細工所の戸籍』では、その最後に細工所の耕地と取れ高について記述しています。
そして、明治13~15年頃に作成された『播磨国地種便覧』にある細工所の耕地と比較してみましょう。
明治4年、田34町6反5畝16歩の村
明治4年9月の「細工所戸籍」より
田 34町6反5畝16歩
高 478石8斗5升9合
畑 5町7反4畝5歩5厘
高 31石9斗1升8合
外 田、1町1反4畝2歩(他村へ出作地所持)
高 15石7斗1升1合9夕
牝牛 35疋
明治13~15年は45町8畝歩の村
下記の数字は、明治13年より編集にかかり同15年に発行された『播磨国地種便覧』のものです。
<明治13~5年頃の記録>
田 45町8畝2歩
畑 6町9反9畝6歩
明治4年の数字と比べてください。
◇明治4年
田:34町6反16歩
畑:5町7反4畝5分5厘
◇明治13~15年
田:45町8畝2歩
畑:6町9反9畝6歩
ここでは田の数字(太字)に注目ください。
田の耕地面積は、この10年余りの間に水田が10町あまりも増えています。
水田の増大の原因は何だったのでしょう。
少し推測してみましょう。
明治初期に水田の増えた原因は?
①明治政府は、税金確保のために厳しく耕地の調査をした。
②明治4年の数字は、江戸時代のものであり正確でなかった。
③明治初期に綿作が衰え、水田中心の農業にたよらざるを得なかった。
どう思われますか。次号で少し考えてみましょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます