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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(200):コーヒーブレイク・「志方町を歩く」が200号に

2012-01-13 13:07:33 |  ・加古川市志方全般

志方町を歩くが200号になりました

Puaru_182 「志方町を歩く」が200号になりました。

100号で、稲美町探訪で書いた記事を引用して、200号になったら、おそらく他人に志方町のことを話たくなっているだろう」と書いています。

 どうやら、そんな気持ちになってきています。

 また、「300号になったら、いっぱしの専門家面をして志方町についての話をだれかに押し付けている」かもしれません。

400号になったら、もうずいぶん昔になった初恋のように、志方町が愛おしくなっている」かもしれません。

「もし、500号になったら、きっと分からない古文書等と格闘しながら、誰も知らない志方町を調べている」と確信します。

・・・・

「稲美町探訪」の後、古文書の勉強を始めました。

残念なことに、志方町では古文書の保存はまり多くないようです。

が、知られていない志方町の歴史をなんとかして掘り起こしてみたいと思っています。

史料等がありましたら是非御紹介ください。

   志方町の歴史を語りましょう

「ひろかずのブログ」は、まとまりのない地域史ですが、読んでいただいている方も増えてきました。

最近、このブログへのアクセスは、毎日平均250~300程あります。

先日は、このブログをもとに小冊子「国岡の歴史」(稲美町国岡)が出来上がり、国岡の全戸(1400戸)に配布されました。

国岡自治会・土地改良区・農産部の方にお世話になりました。ありがとうございました。

また、いまある小学校から「職員研修に来てください」と頼まれています。

公民館の歴史講座に出かけることも増えました。

明日も尾上公民館(テーマ・尾上町の歴史)へ出かけます。午後、少し準備をします。

「シリーズ・志方町を歩く」も、今の調子では、しばらく続きそうです。

志方町を歩くは、もう少しまとまり、整理された段階で、お世話になった方へのお返しをしたいと考えています。

300号をめざして、押しつけになりますがよろしくお願いします。

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志方町探訪(199):細工所(32)・銃後の農業援助

2012-01-12 14:05:10 |  ・加古川市東志方

   銃後の農業援助

Af7103d5 日中戦争が激しくなるにつれ、出征兵士の家庭に対する農業援助が実施されています。

その内容・規模についての詳細は分かりませんが、次の通達から援助が行われたことを知ることができます。

◇昭和十三年六月四日

       東志方軍人後援会長 脇本繁松

    役員殿

 御多忙中とは存じ候共(そうらえども)、来る本月六日午後八時、小学校講堂控室に於て、応召農家に対する農繁期手伝の件に付御教義申上度候条(もうしあげたくそうろうじょう)何卒(なにとぞ)御足労相煩度(ごそくろうあいわずらわしたく)此段(このだん)及通知候也。

   中学生(現:高校生)の勤労奉仕

また、村人の援助だけでなく、中学校(現高校)からの援助(勤労奉仕)も実施されました。中学生の勤労奉仕の細工所へのようすをみておきます。

まさに、戦時下の総動員態勢でした。

 ◇昭和13年・細工所への勤労奉仕

 ・加古川中学(現:加古川東高校)より

     奉仕日 6月15日 午後8時~午後4時    10名

 ・県立農学校より

     奉仕日 11月8日   午前中3名・午後3名

・加古川女学校(現:加古川西高校)より

 奉仕日 11月11日午前8時~午後12時迄

・加古川中学より   同  午前8時~午後3時迄  

生徒計 19名

◇昭和14年・細工所への勤労奉仕

・加古川中学校・県農業学校生徒より

奉仕日 6月12日 午前8時~午後2時まで

                     生徒計 計10名

・加古川女学校より

奉仕日 6月15日 午前8時~正午迄  5名

・県立農学校より

     奉仕日11月15日 午前8時~11時  3名

*写真:留守家族の農作業(昭和10年代・稲美町での写真です)

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志方町を歩く(198):細工所(31)・旱害そしてツト虫発生

2012-01-11 12:20:52 |  ・加古川市東志方

前項と内容が若干重なりますが、昭和十三・十四年の農業のようすを見ておきます。

   稲のツト虫発生

Photo ◇昭和十四年八月八日    東志方村農会

  農会長 小組長 殿

Photo_3本年度水稲作柄を見ると、概して良好にして一部旱害の甚だしきもあれ共、全国的には増収との予想で本村にては増産目標には遥かに及ばざる感有り、然るに本月に入りて「稲のツト虫」(写真)の発生甚だしきを見る。

増産を計る為には、此が駆除を実施し、被害を減少せしめるべき一般農家に督励被下度(とくれいくだされたく)。

本害虫は、夜分に稲葉を喰害するものなれば、夜「マイガキ」等にて、すくい除かれれば効果大なり。

薬剤撒布として砒酸鉛を撒布する法もあれば、・・・(以下略)・・・

   作物減収七割も・・・

前号の旱害に付け加えておきます。

◇昭和十四年十一月七日

 兵庫県印南郡東志方村村長

    各惣代殿 

  罹災救助に関する通牒

  今事旱害に困る農作物の被害甚大にして、罹災農家窮乏の実況に鑑み、表記の件、罹災救助金法に依り救助相成候(きゅうじょあいなりそうろう)・・・(省略)・・・

一 救助の範囲

  ・・・・今次旱害に困り、主要作物収穫減七割以上にして・・・(省略)・・・

 (イ)、収穫減七割以上とは、今仮に一町歩を耕作せしものが、内七反以上の皆無でなければこの救助の恩恵に浴することはできません。・・・(ロ・ハは省略)・・・

 七割以上の収穫減農家も多かったようです。農家にとって致命的なことです。

旱害、そして害虫による被害と昭和十四年は大変な年でした。

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志方町を歩く(197):細工所(30)・異常気象

2012-01-10 15:38:11 |  ・加古川市東志方

   昭和十三年・冷害そして台風

9fb4f90eある人(僕)は、昭和13年の天候を次のように書いておられます。

・・・

昭和1310月、僕は小学校2年生の子どもで、ほとんど寒かった記憶はないが、武漢三鎮陥落を祝った町会の提灯行列に参加したが、雨が降り出し寒かったという遠い記憶がある。

亡父が残した日記によると、この年は雨が多く、12日から16日まで連続5日間も続き気温も低かった。

毎日のように日記のはしばしに”今日も寒い”という字が書いてある。

残念ながら、いつ最低温度を記録したかはわからないが、23日には”今日から袷(あわせ)を着る”という文字がある。
 10月だけではない。調べてみると、この年は気象災害の非常に多い年であった。

71日から5日には阪神地方に暴風雨が襲来、六甲山の土石流などで708人が死亡。・・・・

さらに95日から7日、西日本が1010日、それぞれ台風で497人も犠牲者が出ている。(HPより)

当然、収穫も大幅な減収でした。

   昭和十四年・大旱魃

そして、蓄えが減少したうえに、さらに昭和十四年は異常な旱魃でした。

細工所に残る「雑書類綴(昭和十四年)」にも、次のように記録が残されています。

◇昭和十四年八月九日

  東志方村農会

  農会長・小組長 殿

   旱魃状況調査依頼の件

本年度旱魃被害激甚二付、左記様式に依り、八月一日現在にて内水田被害状況を至急御報告相煩度御依頼申上候(しきゅう、ごほうこく、あいわずらわせたく、ごいらいもうしあげそうろう)

◇昭和十四年九月一日  東志方村役場

  惣代殿

   地租免除申請に関する件

 今回、未曽有の旱害により植付不能又は収穫皆無、七割以上減収の向に対し地租の免除申請(を)なし、免除致され候(そうろう)間、一般に周知相成度(しゅうちあいなりたく)、

(以下略)・・・・

太字に注目ください。「植付不能・収穫皆無・七割以上減収」の文字があります。

戦争の為の増産どころの話ではありません。

こんな国内事情の中で戦争は続けられました。

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志方町を歩く(196):細工所(29)・Kさんからの手紙

2012-01-09 17:25:11 |  ・加古川市東志方

E35bf693 昭和十三年、日中戦争は拡大し、それに伴い戦死者・負傷者の兵士の数は増大しています。

 細工所のKさんは北支那で負傷され、大坂陸軍病院で病院生活を送られています。

 Kさんから、細工所区長さんへ手紙が届けられました。

この手紙から、当時の兵士の気持ち、時代の雰囲気の一端を知ることができそうです。

Kさんの手紙を掲載させていただきます。

   

Kさんからの手紙

 

 ・・皇軍の兵力を減じ、銃後の皆様に申し訳ない・・

拝啓、陽春近き折、皆様にはお変りありませんか。

小生、受傷後の経過良好にして至極元気で養生に専念致しておりますから他事乍安心ください。

小生、北支那出征以来、銃後の皆様の熟誠あふるゝ御親切、御激励の御心に感激したし、どうかして立派な手柄を立て、御国の為働く決心で居りました処、既に御承知の如く大した手柄もなく負傷し、皇軍の兵力を減じ、銃後の皆様に申訳無き次第であります。

再び第一線に出て活躍し、皆様の赤誠の万分の一にでもお報い出来ればと思いますが、今の身体、不具の悲しさ、それさえもできず残念で、残念で仕方ありません。

負傷全快後は、銃後にあって皆様と協力して、国の為、赤誠を尽くしたいと存じます。

お笑いになるかもしれませんが、同封のお金、少しでは御座居ますが、の何かの時に消費下され度、本日両親来院の予定の事、この手紙を托します。

第一線の忙しさに給料を消費する暇なく、又不便さに第一線よりお送りすることも出来ず、今となりました。

どうか、私の心をお察しの上、気持ちよく受領くだされば、私として、これ以上の嬉しいことはありません。

のみなさんによろしく。

又、折がありますれば、「Kは元気で病院生活をしてゐる」とお伝えください

お身体を大切に

                   病床の朝 早々

                        K・T

  三月十五日 

細工所区長 殿

*写真:「Kさんからの手紙」の一枚目

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志方町を歩く(195):細工所(28)・徐州陥落祝賀提灯行列

2012-01-08 18:22:14 |  ・加古川市東志方

6111cd4b 前号の昭和13年の年表から、下記の出来事について少し復習しておきます。

1月:日本政府は中国に平和交渉の打ち切りを報告する。

5月:徐州を占領

10月:広東、ついで武漢三鎮を占領

日中戦争(支那事変)は、南京事件を含め拡大を続けました。

1月、近衛首相は「国民政府を相手とせず」と言う大変な声明を発表してしまいました。

これは国交断絶よりも強いもので、これにより日中戦争の平和的解決の道は閉ざされてしまいました。

  戦火は広がる

(昭和13年の)冬が過ぎ、4月から5月にかけて華北の天津・済南から南京を結ぶ交通路の要衝である徐州を攻めこれを占領しました。

ついで、8月から10月にかけ広東・武漢三鎮(漢口・武昌・漢陽)を攻撃しました。

これにより、中国のほとんどの海岸部の都市は日本軍に占領されてしまいました。

しかしこの占領は、いわゆる「点と線」(都市と鉄道)を占領したに過ぎず、その周辺には広くて大きな「面」(農村部)が広がり、中国民族の自治が続くという状況だったのです。

日中戦争はますます深みに陥りました。

そんな状態の中で、日本政府・県は各地の地方の市町村に指導・通達を出しています。

東志方村の通達を読み、当時の国内の雰囲気を見てみることにします。

    徐州陥落の祝賀提灯行列

昭和十三年五月二十日

  東志方村長     脇本繁松

   惣代・各種団体長殿

    徐州陥落祝賀提灯行列挙行の件

  (*上記の件は、読みにくい文章ですので文体を変えています)

 徐州陥落祝賀の意を表すために、三志方合同主催で、下記の通り、提灯行列挙行します。

つきましては、各家一人の参加方の配慮をお願いします。

        記

一、   日時:五月二十日(きょう)、午後八時小学校校庭(現:東志方小学校)に集合し、八時半校庭を出発・志方八幡社へ行列し、万歳三唱の上解散

どのような状況であったのか分かりませんが、急な通達です。その日に出され、その日の祝賀提灯行列でした。

当然、「徐州陥落」の内容は知らされていなかったことでしょう。しかし、祝賀(戦勝)を祝う行事が挙行されています。

この「真実を知らされていない国民の精神の高ぶり」が暴走する日中戦争を支えていたのでしょう。

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志方町を歩く(194):細工所(27):細工所の昭和十三年

2012-01-07 18:21:50 |  ・加古川市東志方

   

    戦争の影

58283787細工所町内会には『昭和十三年度・雑書類綴(細工所)』(写真)が残されています。

それを読み始めました。

まだ、よく読めていませんが、全体を通して「戦争に関する通達」が急に多くなっています。

そして、他の書綴(昭和四・七年の書綴)には細工所独自の事が取り上げられていましたが、昭和十三年の綴には東志方村長から村全体に対する通達が多くなっています。

そして何よりも気がつくのは「雑書類綴」の紙質が悪くなっていることです。

戦争の影が生活にじわじわと押し寄せてきているようです。

    

     昭和十三年

年表から、昭和十三年(1938の主な日本の出来事を拾ってみました。

1月:政府は中国に平和交渉の打ち切りを報告する。

3月:中支派遣軍の圧力で南京に中華民国新政府ができる。

4月:国家総動員法が公布

5月:徐州を占領

・7月:張鼓峰(ロシアと朝鮮の国境)でロシア(ソ連)軍と戦う。

7月:労働組合に代わり産業報国連盟が結成される。

10月:広東、ついで武漢三鎮を占領

11月:近衛首相が東亜新秩序建設を声明する。

上記の出来事に関しては、それぞれ詳細な説明が必要のようですが、ここでは羅列だけにしておきます。

詳しくは、歴史書をご覧ください。

昭和十三年の日本の出来事をみる時、戦争の影が東志方村・細工所に押し寄せたのは当然のようです。

それでは、東志方村や細工所にだされた通達などから、当時の世相の一端を見ることにしましょう。

内容的には細工所を含めた東志方村としての記述が多くなりますが、「シリーズ・細工所」の続きとしてとりあげます。

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志方町を歩く(193):細工所(26)・細工所の戦争

2012-01-06 07:47:03 |  ・加古川市東志方

 明けましておめでとうございます

   今年こそ、素晴らしい一年でありますように

Dafa2ab6 暫くお休みしていたブログを再開します。

明治時代から昭和20815日までの日本の歴史は戦争の歴史でした。

『志方町誌』は、「英霊」の一項を設けて、志方町の戦没者の方々のお名前を記録しています。

戦争は、過去の話ではないはずです。将来に繰り返し語り継がれなければならない「現代」の課題でしょう。

このブログでも戦争について、いつかみなさんと一緒に語りあいましょう。

今日は『志方町誌』から戦争で亡くなられた細工所の方々のお名前のみを紹介させていただきます。

   

細工所の戦没者

戦没年月日    戦没者氏名  死亡場所

明治37731  玉田亀次郎  清国盛京省大平嶺

昭和13426  稲岡 可作  中国山東省第十師団第三野戦病院

昭和149 9  三柳 理雄  中国河北省定県趙家窪附近

昭和18915  金沢 一一  戦病死ニューギニヤ島ハンサ

昭和19316  宮永 敏三  釧路港沖合

昭和201226  金沢 正男  中国北京第151兵站病院

昭和2071   玉田 亀延  比島バターン半島アプカイ東方

昭和20115  岸本千代松  ビルマキャクビュウー東方

昭和20722  宮永 芳久  ビルママウクトウイン県ウエディ附近

昭和19819  宮永 利巳  ビルマバシー海峡

昭和21129   宮永  浩一   病死国立神野病院

昭和1837    室田 勇    病死岡山陸軍病院

*写真:出征する男と家族(写真は稲美町のものです)

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