河岸には船持・問屋・船乗りが居住し、また近隣の村々の生活物資購入の場所として町場を形成していた。
河岸として栄えた国包村(くにかねむら)の元文二年(1737)の集落構成は、次のようであった。
家数:一二五軒(うち百姓、七四軒・水呑、五十軒・・・計算違いか)
人数:六七○人
大工四、桶屋二、医師三、木挽一、材木屋三、陸塩売四、旅籠屋五、河船宿六、殺生(川漁師)六、蚕種商二(村明細帳より)
戸数に比して水呑が多いが、これは行商や小商いを含んでいるのであろう。
また、宗佐(現:加古川市八幡町)は、国包の土地を借りて河岸を開いて、宗佐や周辺の米などを運んでいた。
国包の河岸は、湯山街道との交差点でもあり、物流の一集散地で町場の性格を持っていた。
国包の河岸については、明日のブログでもう少し続けたい。
*絵は「国包浜実況図」(国包畑家所蔵)
『加古川の舟運の研究(吉田省三著)』(滝野町)参照