ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川を歩く(41):舟運(9)・国包の河岸①

2008-06-11 11:40:53 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

34e6fe13  河岸(かし)は、河舟の港である。

 河岸には船持・問屋・船乗りが居住し、また近隣の村々の生活物資購入の場所として町場を形成していた。

 河岸として栄えた国包村(くにかねむら)の元文二年(1737)の集落構成は、次のようであった。

  家数:一二五軒(うち百姓、七四軒・水呑、五十軒・・・計算違いか)

  人数:六七○人

  大工四、桶屋二、医師三、木挽一、材木屋三、陸塩売四、旅籠屋五、河船宿六、殺生(川漁師)六、蚕種商二(村明細帳より)46effcc8_6

 戸数に比して水呑が多いが、これは行商や小商いを含んでいるのであろう。

 また、宗佐(現:加古川市八幡町)は、国包の土地を借りて河岸を開いて、宗佐や周辺の米などを運んでいた。

 国包の河岸は、湯山街道との交差点でもあり、物流の一集散地で町場の性格を持っていた。

  国包の河岸については、明日のブログでもう少し続けたい。

*絵は「国包浜実況図」(国包畑家所蔵)

『加古川の舟運の研究(吉田省三著)』(滝野町)参照

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする