加古川は、「河川法」により国の直轄事業として帝国議会で改修工事が決まった。
(昨日のブログをご覧ください)
しかし、工事はなかなか始まらなかった。
工事への着手の順位をめぐって、全国で激しい競争が展開されていた。
加古川河身改修期成同盟は、帝国議会へ工事開始の請願をした。
ついに、大正七年度からの工事着手が決った。
工事期間は、10ヵ年で、船頭(ふなもと・米田町)の南から荒井(高砂市)へ分流していた支流を締め切る工事を含む大改修工事であった。
着工式は、大正1921年(大正10)日本毛織加古川工場の敷地で行われ、床次(とこなみ)内務大臣も出席した。
その後、関東大震災の復興・軍事予算などのため、治水予算は大幅削減がもくろまれ、工事は順調に進んだのではない。
工事が遅れれば、「明治30年の大洪水が再び起おこるだけでなく、近年発展しつつある沿岸工業地帯にも被害がおよび、さらに鉄道・山陽線を破壊し、わが国の重要な交通機関を途絶させる」等の理由をあげ、工事を計画通り進め、加古川改修工事が打ち切りになることがないよう陳情活動をおこなった。
1926年(大正15)4月には加古川町付近が、そして、加古川新橋が竣工した。
1928年(昭和3)には東岸の東神吉まで、西岸の神野村西条まで竣工した。
これで総工事の8割が完成した。その後も、工事は続いた。
*地図の太い実線は、改修工事後の堤防(現在の堤防)・『加古川市史(第三巻)』参照