ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

続・加古川の戦争(4):紀元二千六百年

2013-12-05 08:54:51 |  ・加古川の戦争

  211日は「建国記念の日」。この日、初代の天皇・神武天皇は奈良の橿原で天皇になる儀2600
式をし、昭和15年(1940)は、その式典から数えて2600年目(皇紀2600年)にあたるという。
 氷丘小学校の『創立80周年記念誌・くすの木』に、当時のようすを伝える1枚の写真が掲載されている。
 この年は、日独伊三国同盟・大政翼賛会の結成等、日本は着実に戦争準備を整えていった。
 皇紀2600年の式典も戦争に備えて、国民の意識を高め、団結を強める意味があった。
    
紀元二千六百年(昭和15年)<o:p></o:p> 

この「紀元二千六百年」、いかに人々に大きな影響を与えていたかは、別府小学校の「皇紀二千六百年念事業」を見るだけで十分である。
前年の193912月、別府町の学務委員会で最終決定をみたこの事業は、なんと「百年据置貯金」の実行である。
 つまり、別府小学校の職員・児童が、毎月一日に金一銭をきょ出し、百年間据え置こうというのであった。
 そして、19401210日、紀元二千六百年奉祝の記念式典が開かれた。
また、加古川小学校でなされた「紀元二千六百年奉祝式典に関する訓話」は、この日を 「一億一心の理想八紘一宇の大精神の実現に各自の本分に邁進せんことを、お誓いし上げる日」と位置づけている。
 そして、この日、加古川町でも、次のような奉祝行事が実施されることとなっていた。
「・・・当日、 午前十一時から加古川駅前の広場で奉祝式典を行いまして 1125分の万才奉唱の時刻には、小学校児童の皆さんも青年学校の生徒も在郷軍人も一般町民の人々も皆一斉に心から万歳を唱へることゝなっています。
 一世一代の一日歳式の後、全員のラヂオ体操を実施し、尚其の後で旗行列を行ふことになっています」(加古川小学校長訓話より)
 紀元二千六百年奉祝を大きな結節点として、人々の意識は、当人たちは必ずしも自覚していなかったとはいえ、大きな変容を遂げていった。
 *写真は、氷丘小学校『創立80周年記念誌・くすの木』より

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