ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

続・加古川の戦争(2):変わる教育方針

2013-12-03 09:59:36 |  ・加古川の戦争

 変わる教育方針
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国家の力が、教育に及ぼした影響は、この時期、従来をはるかに超える力で、教育を規制していく。
 その点を鮮やかに示すのは、小学校の保護者に対する態度の変化である。訓話に見られる保護者への言葉が、急速に強権的になっていった。
 193741日の、昭和12年度のか加古川小学校入学式訓話においては、学校側のスタンスは、「児童教育の仕事は、保護者を重視するものであった。
 そうした姿勢の結果、次のような言葉が、1937年の時点では、訓話の沖に現れてくるのである。
 
「私ども51名の職員は、誠心誠意、道のために精進しているのであるが、時に保獲者各位の誤解を招く様なことがありはせぬかと思う。そうした場合は、直接学校長なり、受持へ相談していただきたい。・・・・」
 こうした姿勢は、昭和14年度の入学式並始業式訓話でも同様であった。
 この年6月の保護者会記録でも、絹巻校長は、「家庭の方の御協力によりまして、一段のご指導とご援助を煩はしたい・・・」と述べている。
    
個人より全体を(昭和15年)
 ところが「昭和15年(1940)の年度入学式始業式護告」となると、両者の関係は一変する。
 学校側は、保護者に対して、「個人的希望には添ふわけには行かぬ」として、以下のように語る。
  「・・・ (新入児童を)お預り致しました以上は、従来より維持して来て居ります本校の教育精神と計画の下に、教授の方面にも訓練の方面にも、はたまた、体育衛生の方面におきましても、どしどしと容赦なく進めて行きたいと存じております。
 その理由は、「我々は、むしろ国家といふ全体の立場から子供の教育を考へておりますので、時には個人々々にとって苦しいことや、辛いことも思ひ切ってやっていかねばならない」という点にあった。
 そして、小学校が、国民学校へと変わる直前の1941年(昭和16315日の、昭和15年度卒業式護告となると、学校側の保護者への姿勢は、さらに高圧的となる。
 「・・・今や我か大日本帝国は挙国新体制の実現を東亜共栄圏の確立に一路邁進しておるのでありまして、国民と致しましても たとえ幼少の者といえども単なる個人主義やら独り良がりの観念に生きるわけにはまいりません。
 どこまでも真の皇国臣民として、公益優先、職域奉公、以て臣道の実践に務めねばならないと存じます。
 この点に、おきましては、どうか お一人、おひとりのご家庭において、今後しつかりとした心情をつくつて頂きます様、切に切にお願ひ申上げます・・・」
 いわば、「八紘一宇」が声高に叫ばれる情勢の中、児童は、家庭のものから、国家のものになり、その結果、学校側の保護者に対する姿勢は、強権的なものとなっていった。
 *『加古川市史(第三巻)』参照
 *写真:「加古川小学校(昭和15年撮影)」、『加古川・高砂の昭和』(樹林舎)より

 

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